〈一類 夏の雪解け〉
「はぁはぁ……かなり登ったな」
山を登り始めてから二時間以上が経過していた。普段研究室に籠っている事が多々ある春馬は既に息切れしていた。
「本当ですね、ホタルもいないですし……もっと奥なんでしょうか?」
「後はこの山だけなんだ」
自分の曖昧な記憶と照らし合わせてみても、似たような植物が生えている気がする。
「で、どうして君はここにいるんだ?」
山を登る春馬の隣にはなぜか茜がいた。春馬はずっと理解できていなかったが、あまりに自然なタイミングで合流するのでツッコむのを忘れていた。
「書き置きくれたじゃないですか」
「いや、あれは先に帰っていてくれという意味で」
「そんなことはいいじゃないですか! ほら、早く行きましょう!」
茜は春馬を置いてずんずん進んでいった。春馬はあきれて渋々付いていった。暫く進んだところで、春馬が急に叫んだ。
「ちょっと待て!」
「何かあったんですか?」
茜には春馬が何に気づいたのか分からなかった。春馬は静かに、と伝えて耳をすました。茜も春馬をまねて耳をすましてみる。すると、微かに水の流れる音が聞こえた。
「これって……」
「川が近くにある! ホタルが居る証拠だ!」
春馬は急いで水の音のする方向へ駆け下りた。
「あ! 春馬先生待ってください!」
茜は春馬の行く先を見た後、木の裏に隠れていた黒い仮面の男に話しかけた。
「いるんでしょ?」
「あぁ、分かってるな? あともう少しだ」
茜はその言葉には返答せず、春馬の方へ向かった。茜のこわばった顔とは対照的に、男は笑みを浮かべていた。
ちょうどその頃、里穂は炎天下の中に立っていた。それは菫の家の前だった。水気のない空、木々に止まっている沢山の蝉が争うように鳴いていた。
里穂は時折考え込みながら菫の家の前をウロチョロしていた。
(やっぱり伝えて……うーん、でも……。いや、これ以上は二人が危ないし!)
春馬と茜が山に出てから既に二日が経過していた。警察に行く前に菫にも相談しておこうと思い、家の前まで訪ねてきたが里穂には扉を叩く勇気が無かった。慎重に進んでいこうと思っていた矢先にこれである。しかし二人の命には代えられない。里穂は意を決して扉を叩いた。
「すいません、開けてください!」
扉が静かに開いた。
「またあな」
「今日は違います! 柊先生と茜さん、もう二日も帰ってこないんです!」
菫は開口一番に文句を言おうとしたが、里穂の様子は必至でそれどころではないことはすぐに分かった。
「そんな……」
「ここにも来ていませんか」
菫は力なく首を横に振った。里穂は警察に電話を掛けようとスマホをポケットから取り出そうとしたが、菫に止められた。
「意味がない。前にも言ったでしょ?」
山に入った人の記憶は朧になる。警察を呼んで捜索をしても意味は無いことは明らかだった。
「そんな……じゃあどうすれば?」
解決策のないこの状況で里穂は困り果てていた。それに対する菫の答えは力技だった。
「自分で探しに行くしかない。光を見なければ進行を遅らせることができる」
「じゃあそれを警察に言えば!」
「そんなことを言って信じてくれると思う?」
菫の言うとおりだった。警察に伝えたところで信じてくれるまでにはかなりの時間がかかるだろう。その頃にはもう手遅れかもしれない。場所も分かっているため二人で探すのが妥当だった。里穂は協力して探すことを提案したが、菫は突っぱねるように明言した。
「協力? 私が資料奪おうとしてる人と協力なんてするわけないじゃない」
菫は里穂を信用していなかった。里穂というよりは村の職員を見る目だった。
「あ、あのね。私もうここに来なくてよくなったの」
里穂は自分の状況が変わったことを素直に伝えることにした。菫は理解に困っているため、里穂は説明を続けた。大量発生したキツネが全然捕まらないことから、村おこしどころではなくなってしまったことを丁寧に説明した。
「でも、それが終わったらまた」
「それもないよ」
村が想定していた程集客効果は無かった。情報社会の現代で伝統に興味を持つ人は多くなかったのだ。菫は複雑な表情をしていたが、しばらく考えた後良かったと安堵した表情でこぼした。
その顔は小学校時代に見た菫の顔そのものだった。ただ、里穂はその後の発言にさらに驚かされることになる。
「でももう私にも関係ないね」
今度は里穂が理解できない番だった。関係ないとはどういうことだろうか。里穂が尋ねる前に、菫が続けた。
「私ももうここにいなくて良くなるんだ」
時任家の本家の子がもうすぐ二十歳になり、分家の生まれである菫はそれまでの仮当主としての立ち位置だったのだ。
「私、もう用済みなんだよね」
菫は吐き捨てるように言った。その目は濁った寂しさを帯びていた。
「そうなんだ……。それならさ、私と一緒に来ない?」
里穂が頭で考える前に口が動いていた。里穂はまた一緒に話したいことを伝えた。しかし菫は苦しそうに否定した。
「できないよ。もう、戻れない。私は伝承の為にすべてを捨てたから。友達も」
菫は泣きそうになるのを堪えながら自分の想いを伝えた。
「捨ててなんかいないよ! 私がいる!」
里穂の目は透明な光を帯びていた。菫はまだうつむいている。
「でも私、里穂にもひどいことを……」
「言葉は強かったけどさ、無理やり追い出すとかはしなかったじゃん! ぶっきらぼうだったけど話も最後まで聞いてくれてたし! 私はあなたとまた友達になりたい!」
「里穂……」
里穂は思いを我慢しないことにした。思ったことを全て伝えた。
(言わなかったら伝わらない)
「茜さんが教えてくれたから。だから探しに行きたいの!」
「ありがとう……。そうだよね、立ち話してる場合じゃない! まだ明るいし、道には迷わないはず」
菫は背筋を張り、作戦を立てようと決意した。その目には輝きが戻っていた。
「うん!」
二人は菫の家で、資料を整理して話し合い、山へ向けて出発した。
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