〈一類 針の指す道〉
暗い空間、春馬は星も見えない場所に立っている。周りに人の気配はない。若草の匂いがツンと鼻を刺す。目を凝らすと地面が草むらであることが分かった。
人を探す。どこまで歩いても声は聞こえない。暗くて人の姿も見えない。さらに耳を澄ます。微かにエンマコオロギの音が聞こえた。音がした方向へ進む。春馬が近づくと音はぱったり止まってしまった。
近づいて拒絶された感覚。段々と五感が鮮明になってきたのを感じる。春馬は顔を覆いながらしゃがんだ。
「僕はなんで……なんで!!」
春馬は顔を掻きむしる。暫くして、今まで無かった気配が後方にした。音はしない。視線だけが感じられた。
「……誰かいるの?」
春馬は顔を覆っている手を放して立ち上がった。遠くに人影が見える。顔は見えない。
「待って!」
影は待ってくれない。春馬は全力で追いかける。
(手が届く……!)
あと数センチで届くと思った手は空を切った。あたりを見回す。人影はまた遠くにあった。しかし最初よりは近い。顔はまだぼんやりしているが、背格好は自分と同じくらいだと分かった。
(さっきは全力で走ったから気づかれた)
今度はゆっくり近づく。想像通り、人影がこちらに気づいた様子はない。人影に夢中になるあまり、春馬は周りの景色が変わったことに気づかなかった。
後もう少しの距離になったところで、視線の端に青い光が見えた。無数に飛んでいる。
「これは……ホタル? 青いけど……」
春馬が声を漏らしたことで、人影が遠ざかっていく。しかし光が重なったことで人影がより鮮明に見えた。
(これを逃したらもう会えない)
本能的にそう感じた春馬は人影に向かって素早く手を伸ばした。肩に手をかける。
「君は……誰だ?」
人影はいきなり振り向いた。黒い狐の面をしていた。
「うわぁ!」
それに驚き、春馬は尻餅をつく。しかし視線を顔から外すことはしなかった。人影が仮面に手をかけた。ゆっくり外したその顔には見覚えがあった。
「君は……」
言いかけた途中で舞っていた青い光がすべて消えた。それと同時に、春馬の意識も消えた。意識が遠のく中で、仮面の落ちる音だけが聞こえた。
暫くして、聞こえてきたのは秒針を刻む音。心地よい針の音に身を委ねていると、けたたましいベルの音で目が覚めた。
春馬は起きて遅めに目覚まし時計を止めた。目覚めが悪い。自分が机に突っ伏して寝ていることに気づいた。メガネを付けたまま寝ていたので、鼻当ての跡がくっきりと残っている。
研究が佳境に入り、ここ数日は大学に泊まり込んでいる。夢も見ていないということは相当疲労が溜まっているのだろう。春馬は机に置いてあった金平糖を口に含み、資料の片づけを始めた。
資料の一つに夢中になる。片付けという言葉は既に春馬の辞書から消えていた。春馬が集中していると、ドアをノックする音がした。ドアを壊さんばかりの轟音は春馬の集中を乱すのに十分であった。
「せんせー、いますかー?」
明るい声が聞こえる。
(ここは無視をしよう)
疲労困憊な状況と明るい女子大生は相性が悪い。会議や研究をしている可能性がある以上入ってこないだろうと見込んだ直後に、ドアの開く音が聞こえた。
「春馬先生!入りますよ!」
茜は部屋に入った後、堂々と言った。
(普通逆だろ)
そう思いつつも無視を続ける。まだ勝機はある。資料に集中しているのは事実なのだから。茜はため息をついた。
「いるじゃないですか……あの、何してるんですか?」
話しかけられたが無視をする。春馬は雑談が好きではない。自分の興味がない事にも付き合わなければならないからだ。
(そもそもどうしてこの子はここにいるんだろう? 理学部でもないのに)
茜は数か月前からここに来るようになった。この研究室は春馬しかいない場合がほとんどなので学生が来ても支障はない。春馬の研究以外には。
暫く無言の間が続き、茜が口を開いた。
「あ、虹色の虫がいる」
「え!? どこどこ?」
春馬の目の色が変わり、虹色の虫を探す。ヤマトタマムシがここにいるのは珍しい。あるいは誰かが逃がしたニジイロクワガタの可能性もある。
しかしいくら探しても見つからない。発言者の顔を見ると
「反応するじゃないですか」
(しまった! やられた)
ここまで来たら仕方がない。春馬は話すことに決めた。
「で、何の用だ?」
茜は嬉しそうに喋り始める。
「今日は先生が好きそうな話題を持ってきましたよ! 青く光るホタルって知ってますか?」
茜の顔には自信が満ち溢れている。知らないと言わせたい顔である。
「青か、僕は聞いたことはないな。大昔は赤く光っていたっていう説はある。そこから緑色を経て現在の黄色に……」
「つまり知らないんですね! 今日の授業で習った伝承が正しければ私の方が詳しいってことだ!」
青いホタルはいない。それはれっきとした事実である。どの論文や図鑑にも載っていないし、歴史的に見ても存在しない。
しかし春馬は青いホタルという言葉に惹かれた。どこかで聞いたことのあるような気がしたのだ。
「伝承?」
「先生平安時代って分かりますか?」
「馬鹿にするな、その時代にも昆虫はいる」
茜は授業で習ったのだという平安時代の歴史について話した。
「ホタルはいつ出てくるんだ?」
「まだその言葉を言われるほど話してないですし、一度話を聞いてください」
茜は源平合戦の際、もう一つの勢力が存在していたことを話した。
「ホタルは」
「名前は分からないんですけど、文献は残っていて。そこには蟲毒っていうのを使う人が」
「ちょっと待て、今蟲毒って言ったか?」
蟲毒とは毒を持つ生き物同士を戦わせて毒を蓄積させる儀式だ。源平合戦において使われたという情報は春馬も初耳であった。
(中国で生まれた方法だが、平安時代なら日本に伝わっていてもおかしくない)
そう考えた春馬は茜に蟲毒の方法を尋ねた。おそらくムカデや蛇を用いたものだろうと踏んでいたが、返ってきた答えは想像の外にあるものだった。
「ここからが本題なんですよ。その蟲毒を使う人が青い光を放ったみたいなんです」
茜によれば、青い光が人の手によって使われたという伝承があったのだという。光を浴びた者は急に様子がおかしくなったらしい。
「私はそれを聞いてホタルかなって思ったんですけど」
人に見える大きさで光るということを考えれば、推理としては上々だろう。春馬もその可能性は高いと認めざるを得なかった。
しかし青く光るホタルなんて本当にいるのだろうか。春馬はふと思い出したように研究室の論文を漁った。
「えーっと……あった! あ、これはダメだな」
「ダメってどういうことですか?」
「数年前の論文さ。すぐに削除されたけどね」
それは光るアゲハチョウを見つけたという海外の論文だった。
「何で削除しちゃったんですか? ロマンあるのに!」
茜は不満げに春馬に尋ねる。
「まぁ、本当にいればね」
その論文は単なるでっち上げで、実際は光る遺伝子を無理やり組み込んだだけであった。研究において嘘を載せるというのはかなりの問題行為であり、論文は発表した翌日には削除された。
残念そうな反応をする茜をよそ目に、春馬はどうしてこの論文を取っておいたのか疑問に思った。
普段は嘘の論文などわざわざプリントして取っておく事は無い。なぜか光に関する論文は消すことができなかった。それが非科学的であればあるほど。
「青く光る……なんちゃらホタルみたいなのいませんでしたっけ? 海にいるやつ」
「それはウミホタルだろ。なんでそこまで行って名前が出ないんだ?」
春馬はウミホタルの仕組みを短めに解説した。短め、というのは春馬の基準である。実際は十分ほど話しており、茜は安易に質問することはやめようと心に誓った。
しかし春馬の勢いは止まらず、海に昆虫がいない理由も話し始めた。茜が飽きていると今度は春馬が話しかけてきた。
「さっきから質問ばかりだが、少しは自分で考えてみたらどうなんだ?」
「うーん…地球の海とは別に、自分たちの海がどこかにあるとか!」
茜の考えうる限り最も納得がいった意見は、春馬にあっさり鼻で笑われた。
「それは推測じゃなくて妄想だな。ロマンチストっていう職業があれば大成功だったのに」
茜は手を出さなかった自分を褒めた。
「なんですかその言い方! 大体海に虫がいないとかどうでもいいし」
つい春馬を挑発するような言い方をしてしまった。嫌な予感が茜の脳内によぎる。
「どうでも良いとはなんだ、君は昆虫の進化の歴史を知ってるのか? そもそも昆虫といわれる生き物が発生したのは約四億年前といわれていて……」
(しまった!)
このモードに入った春馬は永遠に話し続ける。本当に永遠なのだ。
(いつまで続くか……)
茜は春馬の目覚まし時計に目を向けた。その針は次の授業が既に始まっていることを指していた。
「まずい! 先生、後でまた来ますね!」
春馬は喋りを絶やすことなくホワイトボードに何かを書いている。茜は急いで研究室を出た。
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