2024/07/26
研究室にノックの音が響く。
「お父さん、入るよ」
一言声を掛けてから、少女がドアを開けて中に入る。左手に持った盆の上には、マグカップが二つとサンドイッチの乗った皿が置かれていた。
「おかえり」
彼は自分の娘に微笑んで言った。ただいまの言葉とと一緒に差し出されたマグカップを受け取り、一口啜る。
「あち」
舌に微かな火傷の感触を覚えて、マグカップを机に置く。近くに置かれた皿のサンドイッチに手を伸ばし、一つを選んだ。
「今日は何かあったか?」
娘にそう問いかけて、サンドイッチを一口齧る。学校から帰宅した娘が、今さっき作ったばかりのものだ。
「いつも通りかな、ふつーに授業受けてきただけだよ。お父さんの方は?」
少女もまた、サンドイッチを手に取り口に運ぶ。何か少し出来に納得がいかないのが、眉間に皺を寄せて首を傾げている。
「こっちもいつも通りさ。劇的な進歩はないが、地道に少しずつ進んでるよ」
「並行世界とか多元宇宙とか、そういうのは研究しないの?」
先週二人で見に行った映画がそんなテーマだったなと思い、彼は笑った。
「専門外だと言ったろ。僕は生き物の遺伝子を人間に組み込む研究をしているんだ」
その答えに、不服そうに少女は口を尖らせる。
「えー、なんかつまんなさそう。そんなのより他の世界見てみたくない?別の世界の私、スーパーヒーローかもしれないよ?」
「僕は自分の娘がそんな危ないことするよりも、普通の幸せを手にして生きていてほしいよ」
コーヒーを飲み終え、マグカップを盆の上に乗せる。残っていたサンドイッチも口に運び、皿の上は空になった。
「ご馳走様。さて、それじゃつまらない研究の続きを…」
その時だった。突然キラキラとした何かが研究室の中に舞った。
それが何かはわからなかったが、彼は即座に娘を抱えて部屋の外に出た。
「え、何、どしたの?」
「わからない。危ないかもしれないから、お前は自分の部屋に」
その言葉を遮るように轟音が鳴った。火災報知器が作動したようで、リビングの壁に取り付けられている受信機が喧しく鳴り響いている。
研究室で何かが起きたのは確かだった。
「よし、僕は中を見てくるから、お前は」
再び言葉を遮るように、今度は研究室の扉が開いた。
よろよろと出てきたのは、燕尾服姿の男だった。服はあちこち破けており、血が滲んでいる。
一際目を引くのは、腹部を貫通している腕のようなものだった。
あまりのことに呆然とする二人。少女がなんとか声を出した。
「えーと、警察?救急車?」
今何が必要かを考えた結果の言葉だった。勿論、少女は自分の父親に向けて発したつもりである。
「どちらも必要ないよお嬢さん。それよりも、消火器はないかね?」
謎の男は、炎が燃え広がりつつある自分の右足を指差してそう言った。