第91話 涙を飲み交わす
「ふぅ……どうにか間に合ったみたいね」
「うん。司教様達に怒られる前に早く席に着こう」
寝坊した上に道草を食ってしまったせいで時間ギリギリであったがどうにか遅刻せず大食堂までやって来ることができた。
大食堂にはとても広い空間の中に部屋の入り口側の端から向かい側の端まで続く食卓用の長い長いテーブルが10列にも及んで並べられている。
テーブルの両側で向かう合うように座っていって1つのテーブルに200人。
大体2000人分ぐらいの席が用意されているだろうか。
テーブルには真っ白でアイロンを掛けた直後のように全くシワのないテーブルクロスが掛けられていて、一定の間隔置きに綺麗なピンク色の花を生けた花瓶が置かれている。
天井には巨大なシャンデリアが設置されていて、床には明るい色で綺麗な花の刺繍の施された靴を履いた越しでもその柔らかな感触が感じられる赤色の絨毯が敷かれていた。
ズボラな僕が食事を取る際に一々マナーを気にしてしまう程とても豪華で気品を感じさせる食卓の間だ。
既に席に着いた人達で溢れかえる中を僕達も自分達の席を目指して歩いて行く。
「おいっ!、遅せぇぞっ!、お前等っ!」
「うっさいわねっ!、トドっ!。ヴァンの奴がまた寝坊しちゃったんだから仕方ないじゃない」
席へとやって来た僕達を先に近くの席に座っていた男の子が時間ギリギリであったこを咎めながら迎えてくれる。
彼の名はトドラス・レインスといって僕達の寮の部屋の最後のルームメイトの1人だ。
まだ子供の僕達は男女の区別なく部屋の割り当てがされていた。
ベージュ色の短髪でスッキリとした見た目の印象。
ラナリーと同じように僕もトドラスのことをトドと呼んでいる。
トドはラナリーと同じで威勢の良い性格をしているのだがとても陽気な側面もあり、おちゃらけた態度でいつも場を盛り上げてくれる僕達のルームメイトの中で一番のムードメーカーだ。
彼等は皆ここから遥か西にあるマリスティアの街の孤児院で暮らしていたという。
しかしその孤児院の運営者というのがとても悪質な人物であり、ラナリー達は毎日のように厳しい労働を強いられていたらしい。
更にどれだけ働いたところでラナリー達に報酬が支払われることはなく、孤児院での生活も最低限の食事を与えられるだけで非常に劣悪なものであったようだ。
孤児院の運営者は初めから両親を亡くし身寄りを失った子供達のことを思ってなどおらず、只都合の良い労働力としてラナリー達を受け入れていたということだろう。
そして彼等がある程度の年齢にまで成長した際には自分に反抗してくることを恐れて犯罪組織へと売り払ってしまっていたのだとラナリー達は話していた。
そんな最悪な孤児院での生活を余儀なくされていたラナリー達だったが、1年程前にテネリタース教団が軍勢を率いてその孤児院へと乗り込み、ラナリー達や他の子供達を皆救い出した上で全員をこのティアリス城へと受け入れてくれたようだ。
それ程の恩を受けたラナリー達だ。
例え強制されずとも自ら望んでテネリタース教団の教えを信仰することにしたのだろう。
心からの感謝をしてテネリタース教団への信仰に励むラナリー達の姿を見せられ、僕はこれからそんなラナリー達を陥れる工作を行う為に潜入している身であることをとても心苦しく感じていた。
「おはようございます、皆さん」
「あっ!、シオン様がいらっしゃったわっ!。今日の御祈りでこそちゃんと涙を流してみせるのよ、ヴァン」
「わ……分かってるよ」
食卓の席に着く僕達の前にテネリタース教団の教皇であるシオン・アフェクシアが姿を現した。
丹念に梳かれた長くきめ細かな黒髪が美しい光沢を放ち、純白の衣装も相まってとても清楚な雰囲気を醸し出している。
彼女はこのティアリス城に滞在している間は頻繁に信者である僕達の前へと姿を出してくれるようで、食事の前にやって来た際には必ず僕達と共にテネリタース教団の信仰するティアリス神へと祈りを捧げていた。
今ラナリーに促されていたが祈りの際に涙を流すのが救世の泪杯の教義を信仰するテネリタース教団のしきたりだ。
しかし僕はこれまでに行われた儀式において全く涙を流せずにいた。
意識して涙を流す訓練なんてこれまでしたことがないのだから仕方ない。
最も流せたところで彼等が求めているのはそのような演技によるものではなく、心から自分達の神を思い流す涙なのだろうが。
教団に潜入する為に偽りの信仰を掲げている、その前に【転生マスター】として転生先の世界の人々とは神について全く違う価値観を持つ僕には到底不可能なことであった。
けれどそんなことを言い訳にして涙を流せずにいては内通者だと疑われないまでも悪目立ちしてしまう。
そう危惧した僕は僕の体の細胞に転生しているベル達に頼んで涙腺を刺激して涙を流させて貰うことにした。
「うぅっ……」
「あっ!、ヴァンったら今日はちゃんと涙を流せてるじゃないっ!。ようやくあんたもティアリス神様に対して真剣に祈りを捧げられるようになったのね」
「どうかしましたか?、ラナリー」
「あっ……す……すみません、シオン様。ヴァンの奴がやっと涙を流せるようになったみたいだったのでつい……」
「まぁ、それは素晴らしいことですね。ちょっとそちらに失礼しますよ」
テネリタース教団に入信して以来初めての涙を流した僕のことを気にしてか教皇のシオンがこちらへとやって来た。
流石教皇というだけあって近くまで来るとよりその清楚で神々しい雰囲気が感じられる。
シオンは僕の左の頬へとそっと右手をやるとその人差し指で優しく僕の目の縁から零れる涙を救い取った。
「淀みのない綺麗な涙……。あなたはとても純粋な心を持っているのね、ヴァン」
「は……はぁ……」
「悪いけどもう少しだけ涙を流していてね。何方か空いたグラスを貸して頂けないかしら」
「あっ!、それならどうぞ私のを使って下さいっ!、シオン様っ!」
「ありがとう、ラナリー」
「えっ……。ちょ……ちょっと……シオン様っ!」
シオンはラナリーからグラスを受け取ると今度はそのグラスの中へと僕から零れる涙を受け入れ始めた。
そしてグラスの底から1センチ程の深さもなかっただろうか。
グラスを口へと傾け溜まった僕の涙を躊躇いなく飲み干していく。
テネリタース教団の慣習については事前にクロイセン神父に聞かされていたけど、いざその奇怪な光景を目の当たりにすると途惑いを露わにしてしまう。
「あなたの純粋さに私の中の穢れも全て洗われていくようです。あなたが流した涙を受けてティアリス神様もさぞお喜びであることでしょう」
「ぼ……僕もようやく涙を流すことができて良かったと思っています」
「これ程純粋で清らかな涙を頂いたのですから私もお返しをしなければなりませんね。ちょっとだけ待っていて下さい」
何の躊躇いもなく飲み干した僕の涙のことをシオンが色々と褒めてくれる。
ベル達に涙腺を刺激して貰っただけで実際はその涙に何の感情も込もってはいなかったというのに何だか申し訳なく感じてしまう。
続いてシオンは少し顔を傾け、再び開いたグラスの中に今度は自身の流す涙を注ぎ入れていく。
僕と違って普段から涙を流すことに慣れているからか、僅かな時間の間に涙が零れ落ちる際に水面にハッキリとした波紋が出来上がるぐらいの量の涙が溜まっていた。
僕の涙は雀の涙に等しい程の量しかなかったというのにこれならしっかりと涙が喉を通る感触まで味わえそうだ。
そのグラスをシオンは僕へと差し渡して来る。
今度は僕に自分の涙を飲めということなのだろう。
テネリタース教団の信者達にとっては当たり前の慣習であっても僕にとっては非日常的なことである為当然躊躇してしまう。
「うっ……あ……あの……」
「何してるのっ!。折角シオン様があなたの為に涙を注いで下さったのだから早く口に入れなさいよっ!。言っとくけどシオン様の涙を飲ませて頂けることなんて滅多にないんだからね」
「わ……分かったよ」
ラナリーにせっつかれて僕は戸惑いながらもグラスに注がれたシオンの涙を自らの口へと流し入れていく。
他人の涙を飲むだなんて常識では考えられないことではあったけれど、シオンのおおらかで優しい、それでいてとても清楚な雰囲気に包まれていた為か不思議とそこまでの抵抗を感じなかった。
口の中に少し冷たい爽やかな感触を残しシオンの涙が僕の体へと浸透していく。
なんだろうか。
先程シオンは僕の涙を飲んで自分の体の中が洗い流されていくようだと言っていたが、僕が飲んだシオンの涙は優しさや愛情のエネルギーで満ち溢れているように感じられた。
強く励まされたように心に自信や元気が湧いて出て来る。
テネリタース教団の教義がどこまで正しいことを謳っているのかは分からない。
けれど少なくともシオンは本気で世界の救済の為に活動しているのだと体に染み渡った彼女の涙から僕はそう感じていた。
教皇であるシオン以外にもテネリタース教団の人々はその教義の内容には関わらず皆善良な心を持つ人ばかりだ。
こんな人達を陥れるようなことをこれから僕はしなければならないというのか。
シオンの涙に元気付けられた僕の心はまたすぐ葛藤の中へと飲まれていった。




