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後編

リズミカルで小気味良い乾いたリズムが朝を知らせる。

堺さんから聞いていた話は本当だった。武雄は今朝もハナさんが廊下を箒で掃く音に目を覚ました。不思議と廊下が汚れないところをみると、ハナさんは毎日念入りに掃除をしてくれているのだろう。

武雄が風邪をひいて花壇の水やりを忘れていた日は、快晴の空の下、花たちがしっとりと濡れていたり、ベランダの洗濯物が雨で濡れそうな日は窓を叩く音がする。庭で皆が楽しそうに話していると、一人分多く笑い声が聞こえてくるのは、しょっちゅうだ。最初のうちこそ気味が悪かったが、もう慣れた。ともかく、ハナさんは親切で明るい地縛霊のようである。

そろそろ起きる時間だ。武雄は布団から身体を起こすとカーテンを明けた。目を刺す日の光はすでに昼の猛威を想像させる力強さだ。今日も暑くなりそうだ。


「あめんぼ赤いな あいうえお!」

「ちがうわよ!」

「隣の客はよく柿食う客だ!」

「ちがうわよ!」


ハナさんの掃除が終わったと思うと、窓外から遠慮のない声が聞こえてくる。サユリとミッチーが朝のウォーキングから帰ってきたのだ。

メゾン・ド・ハナでの生活が始まってから三か月が経っていた。

良くなったとはいえ、サユリの顎から首にかけての筋肉は、ぎりぎりまで行った放射線治療の影響で石のように固くなり、放っておくと動かなくなってしまう。そのため、毎朝、手足を大きく動かして歩くことで血行を促しながら、大きな声で発声して歩くというリハビリを行っている。優しいのか暇なのか、ミッチーは毎朝サユリをアパートまで迎えに来て、この日課に付き合っている。

サユリが早口言葉を言うと、ミッチーが「ちがうわよ!」と合いの手を入れる。別に早口言葉が間違っているわけではない。ミッチーが、サユリの得意言葉「ちがうわよ!」を気に入っているというだけである。

「ねえ、サユリママ、禿げが酷くなってない?」

「うるさいわね!あんたも最近、皺がすごいわお」

「ひどーい」

二人は、早朝というのに大きな声で喋りながら、鉄製の階段をガンガンと踏み鳴らして登ってくる。何度も注意したが、一向改善する気配はない。

「うるさいわね!」

ドアを開けて廊下に顔を出したのはサユリの真下に住むサリーだ。ネグリジェ姿のサリーは頭にカーラーをつけ、ベガを胸に抱いている。

「あら、ごめんあさあい」

サユリが悪びれもせずに言うとサリーの眉が動いた。

「何度言ったらわかんのよ。廊下は静かに歩きなさいよ、ハゲ!」

「あはは、やっぱ禿げてるよね」

ミッチーが自分も怒られているというのに笑っている。

「失礼ね!じゃあ、言わせてもあうけど、夜中のけん玉やめえくれる?カンカンうるさいし、気味悪いわ。インゲンみたいな顔してさ!」

「インゲンとは何よ!」

「いい加減にしなさいよ」

仕方なく外に出て武雄が仲裁に入る。サユリとサリーは引っ越してきた当初からこんな感じだ。思慮深く細かいことにまで気の付くサリーは、サユリにとったらネチネチして口うるさい奴だし、大らかで子供っぽいサユリは、サリーにとったら無神経な馬鹿にしかみえないのだろう。

とはいえこの二人、仲が悪いかと思えば、そうでもない。

先月のことだった。サユリが息を切らせて帰ってきた。しかも何だか嬉しそうな顔をしている。

「決まったわお」

「何が?」

ちょうど庭先でサリーと立ち話をしていた武雄が聞いた。

「仕事」

「なんの?」

サユリは不敵な笑みを浮かべると、どうだ羨ましいだろう、とばかりにサリーを見た。

「自転車整理員」

「うそ!」

武雄も応募したことがあるが断られた仕事だ。駅前で緑のジャンパーを着て、放置自転車に警告のステッカーを貼ったり撤去したりする仕事だ。市が募集しているので定年後のアルバイトとしては正に安心の仕事である。

しかし、武雄は大いに不服だった。なぜ自分が駄目でサユリなら良いのだ。サリーも同じように思っているのだろう。どんな裏の手を使って潜り込んだのかと疑り深い目を向けている。

「実は、昔、付き合ってた男が、市のちょっとした有力者でさあ。空きが出たら教えてねって、お願いしえたの」

嘘だ。何とかしないと昔のことをばらすとでも脅したのだろう。

「何よ、二人とも面白くなさそうな顔しえさあ。じゃあ断ってくうわよ。あと一人分、空きがあうって話なんだけど・・・」

サユリが背中を向けると、悔しさいっぱいの声で、サリーが呼び止めた。

「やってあげてもいいわよ」

 

こうして二人は晴れて同僚となり、毎日同じ職場に出勤するようになった。モドリとベガが寂しくないように、毎日交代でどちらかの家に猫を置いて出かける。喧嘩が絶えない二人に比べ、二匹の仲は、なぜか血を分けた兄弟のように仲が良い。

仕事にもすっかり慣れ、主に駅前で仕事をしているサユリは、最初こそ同僚に気味悪がられたものの、いつの間にか人気者になっていた。禁止区域に自転車を止めた人間の自転車には、目にも止まらぬ速さでステッカーを貼り、不法駐輪を取り締まった。基本的に市民に嫌われるはずの自転車整理員のはずが、いつの間にか“自転車おじさんサユリ”との異名までとり、一緒に写真を撮って欲しいという女子高生まで現れるようになった。やはり、サユリの生きる力の強さには脱帽するばかりである。

そんな風にしてサユリとサリーは少ないとはいえ安定した収入を得られるようになると、月に一度の週末、競馬に出かけるようになった。この時ばかりは、二人とも喧嘩しないようである。頭脳派の 

サリーは、あれやこれやと競馬の知識をサユリに伝授するが、皮肉にも何も考えずに買うサユリの方が勝率は高いようである。

また昔の悪い癖が出て調子に乗らなければ良いのだが、と武雄は心配したが、大病で少しは成長したのか、サユリは無茶な遊びはしていないようである。

特に義理もないのだが、几帳面な武雄は二階の隣室にサユリが住んでいるので、つい気になって、彼女が仕事に出ると毎日部屋の掃除をしてやるようになった。前に住んでいた家のように、ゴミ屋敷になって異臭でもしたら堪らないし、モドリだって気の毒だ。

案の定、ある日、流し台付近から何か甘い匂いがするので引き出しを開けたら、食べられもしないのに封を切った菓子パンが何個も押しこめられていた。

「食べられないのに、なんで買うのよ!」

武雄が仕事から帰ってきたサユリを叱ると、

「食べらえそうな気がしたから・・・」

サユリは、しゅんとして下を向く。武雄は、怒ってみたものの、つい気の毒になってしまう。あんなに食べることが好きだったのだから、毎日離乳期の赤ちゃんのような食事を余儀なくされているのは、確かに辛いだろう。

「とにかく食べられなかったら捨てなさいよ。真夏に虫がわくでしょうが!」

「はぁい」

しかし、そう返事をした数日後、サユリは懲りもせず、またパンを買ってきて隠している。そして揚句の果てには、喉に詰まらせ、もだえ苦しみながら武雄の部屋の扉を叩くのだった。

やはり相も変わらず迷惑な人間である。

そんな数々のことに対して、サユリに礼など言われたことなどないが、競馬で勝った時は必ず配当金の半分を武雄に渡しにくるところをみると、少しは感謝しているのかもしれないとも思う。

他の住民は、サユリに比べると、すこぶる良識的な暮らしぶりだ。一階の部屋には右奥から花楓ママ、サリー、田島先生。

二階には武雄とサユリ、柏木君が暮らしている。


「お早う」

サユリとサリーの喧嘩、武雄の仲裁は、もはや朝の習慣と化しているが、花楓ママの爽やかな笑顔は、これから始まる一日を良いものにしてくれる気がする。

「さっき部屋で聞いてたけど、サユリちゃん、めきめきと話が上手になってるわね」

「やっぱい?」

謎の金持ちババアと悪口を言っていたサユリだったが、今はすっかり姉のように花楓ママを慕っている。

スエット姿さえお洒落に見える花楓ママは、額に滲んだ汗を拭いながら皆に笑顔を向けた。なんでも、美しいスタイルを維持する効果があるとかで、花楓ママは毎朝、庭でバレエの動きを取り入れたエクササイズをやっている。

楓ママは、エクササイズを終え、庭の隅に設置したベンチに座ると、花壇に咲いた色とりどりの花に目を細めながら、手製のグリーンスムージーを飲む。

すっきりとした顎のラインは、七十五歳のそれとは思えない。武雄のみならず、花楓ママの健康と美しさは、メゾン・ド・ハナに暮らす者たちの憧れである。

「ああ、今朝もいい汗かいたわ」

その憧れが強すぎたのか、花楓ママの朝の習慣をそっくりそのまま真似ているのが田島先生である。数十年通してきたオタク風の顎下ボブを肩まで伸ばし、後ろで一つに縛るようになった。しかし、狭すぎる額と、青髭くっきりの貧相な頬が強調されて栄養失調寸前かの様相だ。

「みんな、お早う」

田島先生は優雅な動きで花楓ママの隣に腰を下ろした。ずり落ちた眼鏡をなおしながら飲んでいるのは、やはりグリーンスムージーなのだが、彼女が飲むと、残念ながら青汁にしか見えない。

「田島先生、なんだか身体が引き締まってきたんじゃない?」

「ええ!やっぱり、わかりますぅ?」

田島先生は花楓ママの言葉に飛び上がらんばかりに喜ぶ。花楓ママの人を喜ばせる才能は、どうやら生まれながらのものらしい。

「なに、田島先生まだアレやってんの?」

ミッチーが思い出し笑いをして腹を抱えた。武雄も一度、田島先生が庭で花楓ママにバレエ・エクササイズを教えてもらっている姿を見たことがあるのだが、普通に見ていることは不可能だった。整形外科の頸椎牽引器と同等の破壊力だ。以来、田島先生は、庭でエクササイズをやることを、住人から固く禁止されている。

「うるさいわね。あんた部外者でしょう。早く帰んなさいよ」

「えー、田島先生、早く支度して。モーニング作ってよ」

ミッチーはウォーキングを終えると、週に何回かはサユリと共に田島先生の喫茶店でモーニングを食べることになっている。

「働かざる者、食うべからず」

「あ、私、仕事決まったんだよ」

「何の」

「経理事務っていうのかしら」

ミッチーは得意気に答えたが、聞くとカリスマの事務所で伝票整理などの事務仕事を手伝っているのだそうだ。ちゃんと仕事が出来ているのかは怪しいが、武雄は一先ず安心した。

「カリスマ先生も奇特な人ね」

田島先生の言葉にミッチーは、きょとんとしている。

「キトクって何?」

「あんたと話してると頭が痛くなるわ」

田島先生は諦めたように溜息をつくと立ち上がった。

しかし、なんだかんだ親切な田島先生は、出された料理を美味しい、美味しいと食べるミッチーに、しょっちゅう余りもので作った夕飯用のおかずを持たせてやっているのを武雄は知っている。柔らかいものしか食べられないサユリのために、お粥やらリゾットも用意してやっているようだ。

 皆が仕事に出てしまうと、武雄の一日がスタートする。アパートの庭と、サユリの部屋の掃除、花壇の水やりを終え、コーヒーと苺ジャムたっぷりのトーストで朝食をとる。

芳ばしいコーヒー豆の香りを味わいながら、朝のワイドショーを眺めた。暑くてへばっている動物園のシロクマの映像に目を細めていると、嫌なニュースが飛び込んできた。八十七歳の老人が妻を絞殺したという事件だ。やっぱりとは思ったが、認知症を患った妻の介護に疲れた末の行動であったらしい。近頃、月に何度かはこんなニュースを耳にする。子供や連れ合いがいたって、こんな悲惨なことになるのだ。そう考えると自分やサユリは、よくも今まで無事に生きてこられたものだと不思議な気分になる。金と健康と人間関係、それらが人生の明暗を分けるのは間違いない。しかし近頃、武雄は思うことがある。ここに住む規格外の人生を生きてきた住人たちを見ていると、よく分からないが、人生には、本当はもっと大切な何かがあるのではないかと。

「さてと」

テレビの伝える悲しい話題を忘れるように、武雄は勢いよく立ち上がった。洋服ダンスから、あれこれと取り出しては鏡の前で合わせてみる。近頃、武雄にとって、朝のこの時間が最も楽しみなのだ。 

迷った末、武雄はブルーのサマーセーターに袖を通すと、きれいに巻いた髪を整え、鏡に向かってにっこりと微笑んだ。

武雄は庭の駐車スペースに止めたグレーのワゴンにキーを差した。ドアが少し汚れているのに気づき、綺麗に拭き取った。この最大八人乗りのワゴンは武雄の大切な商売道具である。安く仕入れたものだから、結構な距離を走った車だが、武雄の丁寧なメンテナンスによって、外も中も新品のような清潔感だ。当初アパートの住人用にと考えていた“お出かけタクシー”だったが、カリスマの提案で、介護タクシーの免許をとり、近所に住む高齢者の送り迎えも行うようになった。最初こそ利用者本人はもちろん、家族にも特異な目で見られたものだが、やはり距離ではなく時間制で利用できること、そして何より細かいところに気が付く“オカマの運転手タケコさん”は、口コミで評判となり、今では数名の固定客を持っている。臨時で呼んでくれる客を含めると、一日十人前後の客を送迎している。

 朝一番に訪れるのは八十五歳の松子さんのお宅である。松子さんは週三回の人工透析のために通院、近頃では軽い認知症を抱えているため、昼間はデイ・ケア施設に通っている。施設のバスでは大人しくしてくれないが、武雄の車では何故か機嫌が良い。

松子さんと同居している息子夫婦は、共働きのため付添いが難しく、介護士に送迎や付添いを頼み、出発から帰宅までの長い時間を見届けてもらうとなると、介護保険点数はすぐに基準を超えてしまうので、武雄の存在は有難いという。融通のきく武雄の介護タクシーなら、時間が許す限り、送り迎えの時間料金とは別に、病院の受付や簡単な手続きを代行したり、代わりに調剤薬局で薬をもらってきたりすることもできる。頼まれれば、ちょっと車を止めて買物の代行もする。たまには一緒にお茶を飲みながら話し相手にだってなる。

「あのオカマ運転手と出かける方が楽しい」

次第にそう言ってくれる利用者が増えていった。

 武雄は、最近腰が痛いという松子さんのために、トランクから腰枕を出して準備しておく。こういう小さなサービスを利用者は思いのほか喜んでくれるのだ。

「お早うございます」

エンジンがかかった頃、柏木君が姿を現した。今日も夏の太陽に似合いすぎる爽やかな笑顔だ。たまたま通りすがった若い女たちが柏木君の顔を思わず二度見していく。こんなことは、しょっちゅうだ。女たちは柏木君と武雄の姿を不思議そうに見つめた。

ふん、柏木君はあんた達ごときの女は相手にしないわよ。自分も相手にされているわけではないが、なぜか勝ち誇った気分で武雄は女たちを一瞥する。

「じゃ、行きましょう」

武雄は運転席に、柏木君は高い背を丸めて助手席に乗り込んだ。

誰もが振り返るイケ面とはいえ、柏木君は売れない劇団員である。昼間はパチンコ屋、夜は焼き鳥屋でアルバイトを掛け持ちしている。昼間のアルバイト先が朝一番の利用者の松子さんの家と目と鼻の先であったため、朝は武雄が彼を職場まで送ってやるのが日課だ。

ラベンダーの香りのする車内で、短い時間ではあるが、柏木君と色々な話をするのが、最近の武雄にとって何よりの楽しみだ。

「今月はどこに行くか決まったんですか」

助手席の柏木くんが武雄の横顔を見る。

このワゴンで出かける月に一回の日帰り旅行のことである。最初の浅草は、メゾン・ド・ハナの住人とミッチーで、その次の上野は介護タクシーの利用者の女性二人が参加した。柏木君は、芝居をやるだけあって、ちょっと変わった若者なのか、その日帰り旅行に二回とも参加し、周囲の目も気にせず自分勝手に動き回るオカマとバアさんの引率をしてくれた。どうやら今回も参加するつもりらしい。

「そうね、最初は浅草、先月は上野だったから、次は静かな所かしら」

「鎌倉なんか、どうですか」

「あ、いいわね。みんなで大仏さん拝んで、美味しいお菓子を食べて」

「じゃあ決まりですね。日にちが決まったら早めに教えてくださいね。シフトを明けてもらわなきゃ」

「ねえ、オカマと年寄りのお出かけに無理して付き合わなくてもいいのよ。たまの休みくらい彼女と出掛けなさいよ」

武雄は何気ない風を装い、前から気になっていたが聞けなかったことを言ってみた。

バックミラーに映った柏木君の顔に、ちらりと視線を向ける。

「彼女なんかいませんよ。こんな貧乏人と誰が付き合ってくれるんですか。それに、無理なんかしてませんよ。みんなと居ると楽しいんです。特にタケコさんと居ると落ち着くんだよなあ」

柏木君は時々そうやって女を喜ばせるようなことをケロリと言う。それでも武雄は嬉しかった。そうか、彼女はいないのか。世の中には奇跡のような話があるものだ。口元がニヤけているのを悟られないよう武雄は痒くもない頬を指で掻いた。

柏木君のアルバイト先である駅前のパチンコ屋の前に車を止めた。柏木君は礼を言ってドアを開けると、思い出したように武雄を振り返った。

「タケコさん、そのブルーのセーター、よく似合ってますね」

それだけ言うと、車を降りていった。

武雄は幸福な溜息を吐いた。悪い男・・・。今日の夜のテレビショッピングは、もう一枚ブルーの服を買おう。

武雄はカーステレオのスイッチを入れて口ずさむ。


♪年上の(ひと) 美しすぎる 

ああ ああ

それでも 愛しているのに


ジュリーの歌声は、今日という日のためにあったのか。

うっとりしていたら、家の前に出て待っていた松子さんが皺くちゃの笑顔を浮かべて手を振っているのが見えた。負けじと武雄も右手を大きく振った。

今が老後というものなのだとしたら、それは自分が想像していたよりも、全然悪くない。



「ハッピバースデー・トゥ・サユリー」

ミッチーの歌声と共にサユリがケーキの上に乗った蝋燭に息を吹きかける。

 柏木君の働く焼鳥屋で、サユリの65歳の誕生日を祝うために、メゾンド・ハナの住人とミッチーが集まっていた。バイト中の柏木君は、忙しく飲み物や食べ物を運んできてくれる。最初は柏木君目当てで行っていたこの店だが、今ではすっかり住人たちのお気に入りになっている。

「ああ、おいひい・・・」

サユリはウーロン茶片手に串から外したレバーをスプーンの背で器用に潰して口に運んでいる。刺激の強い酒も、歯ごたえのあるものも食べられないが、何とか自分の食べられるものを見つけて、サユリはいつも幸せそうにしている。今日ばかりはサリーも、天敵の笑顔を嬉しそうに見ている。

「それにしても奇跡だよねえ。ステージ4からの生還!」

ミッチーは感慨深げに言った。サユリが羨ましそうに見るのも気にせず、バリバリと良い音を立てて砂肝を噛んでいる。

 先週、サユリは術後半年の定期検査を受け、異常なしの診断を受けた。久しぶりに着物を着てカツラをかぶり、嬉しそうにレバーを味わうサユリは、入院前とは別人のように痩せてしまってはいるが、どこか憑き物がとれたように、穏やかな横顔をしている。

「オリンピック、どうなるのかしら。見られるかなあ・・・」

焼き鳥の串を持ったサユリが呟いた。

サユリは気の小さい人間だ。検査に行く数日前から気分が落ち込んでいるのが傍目からも分かった。サユリの患った癌で、ステージ4の患者の五年生存率は四十%程度。五年生存率―。なんとも嫌な言葉だ。五年間ずっと背中に爆弾を背負わされているような気分だ。誰もが心配していた。

しかし、ともかく今日サユリは、術後半年とはいえ、健康な身体だと診断されたのだ。これからどうなるか分からないとはいえ、誰もが胸を撫で下ろしていた。

「サユリちゃんは長生きの相が出てるから大丈夫よ」

花楓ママがサユリの手を取った。

「手相見られうの?」

「昔ちょっと勉強したのよ」

そういえば、と武雄は思い出す。花楓ママは昔よく客に頼まれて手相を見てあげていた。けっこう当たると評判で、武雄も見てもらったことがある。その時は確か、十代の頃に人生を左右する出会いがあったはずだと言われた。嬉しくないが確かに当たっている。

サユリは花楓ママに教えてもらった生命線をいつまでも大事そうに指で撫でている。

「私のも見て!」

ミッチーが花楓ママに手の平を突き出した。

「私が先よ」

田島先生がミッチーを押しのけて腕を伸ばした。

「え、田島先生、今さら何見てもらうの」

「恋愛運に決まってるでしょ」

「・・・手相見なくても分かるよ」

ミッチーは顔を引き攣らせたが、花楓ママが呟いた。

「出てるわよ」

「嘘!どこどこ?」

ミッチーが身を乗り出して田島先生の手を掴む。

「六十代半ばね。運命の男性と出会う」

「六十代半ば・・・。ちょっと気の毒じゃない?もう少し早くなんないの?」

ミッチーの言葉に花楓ママは笑った。

「いいじゃない。お楽しみが人生の後半戦にやってくるなんて」



「今年もよく寒い冬を越したわね」

武雄は、芽吹き始めた花たちに話しかけながら、如雨露で水をかけてやる。

「花の命は短くて・・・」

武雄の横に座って花壇を眺めていたサユリが、有名な詩の一説を詠む。

「私、この言葉が好きなの」

「あんたの命は、意外と長いわね」

「私ね、小説を書こうと思うの」

相変わらず人の話を聴いていないサユリは、また突拍子もないことを言い出した。

「小説?」

「無事に一年間生きたけど、いつ死ぬか分かあないもの。この壮絶な半生を残しておきたいの」

武雄は相手にするのも面倒なので聞き流すことにした。どうせ人の半生を壮絶にしたことは忘れているのだろう。

「はいはい。頑張って」

武雄は水やりを終えて立ち上がった。

「イタタ」

最近は持病の腰痛が、いよいよ辛くなってきた。まあ、他に何も悪いところはないのだし、自分は案外若い方なのかもしれない。

しかも、ここには柏木君がいるのだ。お洒落に気を遣う楽しみもある。歳をとっても人間を輝かせるのは、やっぱり恋だ。未だに彼女ができたという話も聞かない。自分たちと一緒にいることで、ひょっとすると知らない世界に目覚めたとか・・・。武雄の胸にそんな妄想が膨らむ。彼には是非とも俳優として目を出して欲しいものだが、そうしたらここを離れてしまうだろう。今はこのままがいい。武雄は、ついそんな風に思ってしまう。

武雄は手の平で春の日差しを遮りながら、メゾン・ド・ハナの姿を見上げた。

楽しい時間は終わらないように思える時がある。しかし、誰の時間も流れていく行先は同じである。いつまで、こうしてここを見上げられるだろうか。

「タケコさん!」

物思いに耽っていると、柏木君が足を縺れさせんばかりに走ってきた。

「一体どうしたのよ」

柏木君は言葉を継ごうとするが、よほど大変なことが起きたのか、息を整えるのが精いっぱいといった様子だ。

「やりました!」

ようやく柏木君は言った。

「何を?」

「出て欲しいっていうんです!僕に。しかも『スーパーヒーロー』に!」

「ええ!」

サユリが叫び声を上げた。武雄も思わず持っていた如雨露を地面に落とした。

『スーパーヒーロー』とは、今回で四シリーズ目となる連続テレビドラマである。人気アイドルを主役に据え、弁護士たちの日常をコミカルに、時に感動的に描いた超人気ドラマである。たまたま知人の紹介で柏木君の所属する劇団の芝居を見に来ていた原作者が、彼に目を止めたという。新シリーズの主役を支える相棒役のイメージにぴったりだったそうで、すぐさま番組プロデューサーに打診したところ、OKが出たのだ。

「やった!やった!」

売れてしまったら寂しいなどと思っていた武雄だが、思わず柏木君の手を取り、飛び跳ねる。本当に嬉しい。今までの彼の苦労を思うと涙ぐんでしまった。

「智久!」

と、何やら背後から女の声が聞こえてくる。智久?どこかで聞いたことがある・・・。ああ、柏木君の名前か。呼び捨てとは厚かましい・・・。武雄の考えが追いつくより前に理解しがたい光景が目の前に映っていた。自転車に乗ったその女は、騒々しい音を立てて降り立ち、なんと、柏木君に抱きついていたのだ。

「やったね、すごいね・・・」

女は柏木君の首に両腕を絡ませ、その髪を撫でると彼の顔をじっと見つめて涙を流した。

なんだ、こいつは・・・。武雄は眩暈がしそうになった。

「なんだよ、いきなり」

「だって、じっとしていられるわけないじゃん」

「そうか。ありがとな。お前のおかげだよ」

お前のおかげだよ・・・。武雄の頭のあちこちに柏木君の言葉が反響する。

「あ、すみません。紹介します。彼女のイズミです。同じ劇団の女優で・・・と言っても、こいつも売れない身なので、普段は介護の仕事をしているんですが」

イズミとかいう女は、柏木君からやっと身体を離すと、武雄とサユリに向かって、ぴょこんと頭を下げた。まだ二十代前半といったところだろうか。長い手足に小さな顔、人形のように大きな目・・・。悪いところを見つけてやろうと思うが見つからない。

武雄はイズミに引きつる笑みを向けた。



イズミが出現してからというもの、武雄はすっかり不貞腐れた生活を送っている。

風呂から上がるやいなや、愛用していた美顔器も放りだし、住人達を部屋に呼び出しては缶ビールを煽った。

「なんか、いけ好かない女よねぇ」

「わかうわあ。あの頭の下げ方が気に食わないもん。ピョコンって音がしそうでさ」

お湯を入れる前のカップラーメンをフォークでザクザク刺しながらサユリも武雄に賛同する。長い麺を啜ることができないので、ラーメンを食べる時はこうして湯を注ぐ前に細かく砕いてしまうのだ。何とも不味そうであるが、本人はいたって美味しそうに食べている。

「ああ、天然アピールちゃん系だね」

会ってもいないミッチーが見てきたかのように言う。

「そう、そえ。美人に産まれた女に天然なんかいないっての」

「見てないけど、私も腹が立ってきたわ」

サリーまでもがスルメを噛みながら相槌を打つ。オカマたちから言われなき誹謗中傷を受けている若い女を気の毒に思ったのか、田島先生が、おずおずと口を開いた。

「そのイズミって娘がどんなか知らないけど、とりあえず柏木君の夢が叶って、おめでたいわけだから・・・」

「だから何よ!」

武雄は顔を覆った。自分は若い頃から恋の神様に恨まれているに違いない。

「そうだよ。田島先生は六十代半ばに出会いがあるけど、タケコ姉さんは、このまま朽ち果てて死ぬのみなんだからね!」

より傷ついているのにも気づかず、ミッチーが武雄の肩をさする。

「そうよね。私たち、十年後ここにいるかどうかさえ分かんないんだもん。最近思うわ。若い頃って何が幸せかって、自分に耐用年数があるって気付かないでいられることなのよね」

「いつかスイッチは止まるのに」

サリーが言う。

「はぁっ」

次々と皆の口から溜息が漏れる。

「今、溜息、一人分多くなかった?」

ミッチーが辺りを見渡す。

「ハナさんも柏木君のこと好きだったから・・・」

田島先生が慈愛に満ちた視線を空に向ける。

そうだったのか・・・。武雄は決めた。みんなが帰ってしまったら、今晩はハナさんと飲み明かそう。

「ねえ、みんな。こんな時に話すのも悪いんだけど」

ずっと黙って話を聴いていた花楓ママが口を開いた。珍しく深刻な面持ちだ。

「どうしたの?」

サユリが心配そうに尋ねる。今では、その日あった面白いことは必ず花楓ママに報告しに行くほど、サユリは彼女を慕っていた。サユリだけではない。いつの間にか花楓ママは皆にとって、すっかり母親のような存在になっていた。

「実は、ここのところお金が足りないのよ。箪笥の中に入れておいたお金が」

「どういうこと?」

思ってもみなかった話に武雄は眉をひそめた。

「使った覚えがないのに、時々、お札が減ってるの」

「泥棒ってこと?」

「少しずつ盗んでく泥棒なんているかな」

武雄の言葉にミッチーが首を傾げる。

「そうなのよね。私の勘違いかもしれないし、みんなも心配するでしょう。だからずっと黙ってたんだけど。だけどやっぱりおかしいのよ」

「あの女ね、イズミとかいう・・・」

サユリは、またもや言われなき嫌疑をイズミに向ける。

「警察に相談した方がいいんじゃない?」

武雄の言葉に花楓ママは首を横に振った。

「大ごとにはしたくないの。それに警察とかいうことになると、みんなに嫌な思いをさせるかもしれないし」

武雄は腕を組んだ。ミッチーが言うように空き巣にしては確かに不可解だ。しかし昔からきっちりした性格の花楓ママだ。お金が足りていないというなら、そうなのだろう。とはいえ、ここの住人が花楓ママの部屋に忍び込むことなどあり得ない。もっとも、昔のサユリだったら分らないが。

「私が捕まえう」

サユリが怒りのこもった声で呟いた。

「どうやって捕まえるのよ」

「言ったでしょう。私は壮絶な半生を歩んできたのよ。刑事の友達だっているんだかあ」

たとえ刑事の友達がいたとしても捜査技術を伝授することはないだろうが、もはやサユリの目はやる気に漲っていた。昔からこうなったサユリを止められないことは武雄が一番よく知っている。

ますます事態が悪化しませんように・・・。武雄は祈るばかりだった。


 あくる日からサユリの聞き込みが始まった。サユリは花楓ママの部屋にアパートの住人を集め、ママの部屋から金が失くなった前後の状況を刑事さながら細かく聴取する。なぜか犯人説が囁かれているイズミまで柏木君と一緒に同席させられていた。

「ママは寝てたのよね、こうやって」

花楓ママの部屋に布団を敷き、サユリが横たわる。

「昼間はちょくちょくタケコが帰って来てうわけだから、その短い時間に盗みに入うっていうのは難しいわね」

「犯人は丑三つ時に動くってわけか」

丑三つ時かどうかは分からないが、ミッチーが相槌を打つ。

「やっぱ、はる(、、)?」

サユリが頷く。

「お金が足りないって気付くのは、いつも朝。だかあ、犯人は夜中に現れるってことね。いつもママが寝るのが午後十一時で、起床は午前六時。犯人はママの生活スタイルを知ってう人間よ。だとすると、柏木君がバイトから帰る時間が午前一時頃だといういうことも知ってうはず。その時間は危険よね。ということは・・・」

「犯人は少なくとも午前一時を過ぎて、午前六時の間に消える。その間をはれば(、、、)いいってわけね」

「その通い」

サユリとミッチーは重大事実に思い至ったように目を見合わせた。刑事の知り合いがいるにしては、実に誰でも考えつく推論だ。

「あんた、明日休みよね」

突然サユリに指さされたサリーが身構える。

「だから何よ・・・」

「今晩から翌朝非番のものが花楓ママの家に侵入する人間を見張うのよ」

「えー。でも、そもそも泥棒かどうかも分からないんですよね?そんなことして意味あるんですか?」

イズミが大きな瞳を見開いて、もっともな疑問を投げかける。

「反対するとこおが、やっぱり怪しいわね。近頃の若い女ときたら・・」

「智久、なんか怖い・・・」

イズミは細い身体をことさら小さくするように肩をすぼめ、柏木

君にすり寄った。

「イズミちゃんに当たっても仕方ないでしょう」

内心、殴ってやりたかったが、武雄は優しい大人を演じ、サユリを窘めた。

「智久~。やっぱりタケコさんて優しいんだね」

武雄の顔が思わず引き攣る。

「とにかく、絶対犯人をとっ捕まえうわよ!」

サユリは皆の顔を見回し、一人力強く頷いた。

しかし武雄は思っていた。事態は良くはならない。なぜなのか、ずっと胸の奥で警笛が鳴っていた。



 三日後、武雄は花楓ママからブランド物のバッグがいくつか消えていると聞かされた。そのまた三日後、花楓ママは武雄に、夜中に窓の外から視線を感じるのだと怯えた様子で訴えた。みんなの笑顔の源だった花楓ママは、日に日に元気を失っていった。

犯人捜しは続いていた。不審者を洗い出そうと、花楓ママ以外の住人が交代で張り込みをした。

この日の張り込みは、共用廊下を見渡せる場所に武雄、裏庭に面する花楓ママの部屋のベランダの前にサユリという配置だ。

武雄は、しょっちゅう身体の回りを飛び回る虫を追い払いながら、暗闇を注意深く窺っていた。

午前一時過ぎ、アパート正面玄関の方から、玉砂利を踏みしめる音が聞こえてくる。柏木君がバイトから帰ってきたのである。いつもと違い、彼の部屋の明かりが既に灯っているのは、イズミが待っているからだ。武雄は恨めしい気持ちを押し殺し、再び繁みから花楓ママの部屋に注意を向ける。

「おらあ!」

突如、どこからか凄まじい叫び声が聞こえてきた。

どこだ。

武雄は辺りを見回す。奇声は思ったより近く。そうだ。ちょうど花楓ママの玄関ドアの裏手、サユリが張り付いている辺りだ。武雄は声のする方に走った。

「逃がさないわよ!」

暗闇だが、何かが何かにしがみ付いて団子になっているのが分かる。どうやらサユリと犯人と思われる人物が格闘しているらしい。暗くて犯人の顔は、はっきりと見えないが、かなり小柄な男であるようだ。

と、武雄の足もとに何か黒い塊が転がってきた。拾い上げると人毛の塊だった。

「いやあ!」

武雄は思わず放り出した。

「投げないで!私の頭よ!」

隣のマンションの外灯に照らされ、うっすらとサユリの禿げ頭が浮かび上がった。武雄は、ほっと息を吐いた。しかし、なぜ夜中の張り込みにカツラを着用してくる必要があるのか。相変わらず訳の分からない人間だ。

「手伝って!」

呑気に投げたカツラを拾おうとしている武雄に向かって、サユリが叫んだ。言われてみればそうだ。武雄は慌てて加勢した。

小男は二人に左右の腕を掴まれ、観念した。

「すみません、すみません・・・」

夜露に濡れた草に膝をつき、男は必死に繰り返した。

騒ぎを聞きつけた他の住人も姿を見せた。

田島先生の持った懐中電灯に照らされた犯人は、薄汚れたジャージを着ていて、二十代のようにも五十代のようにも見える男だった。サユリとの格闘で曲がってしまった眼鏡の奥の目に、じんわりと涙が浮かんでいる。

「早く出しなさい!」

サユリは男の背負っている黒いリュックサックを指さした。

「これだけは・・・」

男は両腕を掴まれたまま膝で後退しようとする。

「早く!」

サユリに尻を蹴られ、男はヒっと娘のような声を上げた。

「出します、出しますから。暴力はやめてもらっていいですか」

「なんか腹立つ喋り方ね」

今度は頭を叩かれ、男は慌ててリュックの中の物を地面に広げた。

「何これ・・・」

田島先生の懐中電灯が男の持ち物を照らし出した。出しても出しても出てくるのは女物の下着ばかりだ。

「違うわよ!金、盗んだ金を出しなさい!」

「え・・・あの、お金を盗む趣味は・・・」

「嘘つきなさい!」

男の拘束を柏木君に代わってもらい、みんなでリュックサックの中を調べた。隅から隅まで見てみても、下着以外に出てきたのは千円札一枚きりだけだった。

「あんた、下着泥棒なの?」

「ベテランの部類だと思います」

サユリは悔し紛れに、もう一度男の尻を蹴ると、武雄に警察への連絡を頼んだ。


「ご苦労様でした!この辺で下着泥棒が流行っていましてね。いや、お手柄でしたよ」

警察官はパトカーに男を乗せた。

武雄は警察官に、最近、近所で空き巣が流行っていないかと尋ねた。しかし、警察官は不思議そうに首を横に振った。

「あの・・・」

パトカーの窓から下着泥棒が顔を出した。

「なんだ」

「ひょっとして、今日僕が盗りに入ったベランダの下着って、その、あの、あなたたちのようなオネエさんのやつなんですかね?」

「だったら何!」

サユリは男を睨み付けた。

「何だよ、熟女だと思ってたのに。くそっ・・・男の下着か」

「はあ?もう一度言ってみなさい!」

サユリは男の胸倉を掴もうとして、ふと手を止めた。

「あんた、ここに住んでうのが誰か知ってて盗みに入ったの?」

男は頷いた。

「最近、夜中に歩いている美しいマダムをお見かけしてたんでね、家をチェックさせてもらったら、ここだったんですよ。なかなか安普請で入りやすそうだな、と思って。こう言っちゃ何ですが、誰の下着でもいいってわけじゃないんですよ。美しい女性のものじゃないと。下は十代、上は八十代まで、僕の所有している下着は全部美しい女性のもので・・・」

花楓ママは、いつも夜十一時には就寝するはずだ。夜中に歩いていたとは、どういうことだ。今度は武雄が男の胸倉を掴んだ。

「変態の講釈は、どうでもいいわよ!あんた、花楓ママが夜中に歩いてるのを見たって言ったわね」

「ぼ、暴力はやめてもらっていいですかね・・・。花楓ママっていうんですか、あのマダム。まさか男だったとはね・・・」

「そんなことはいいから、その時のこと詳しく話しなさいよ」

「三日前でしたよ。ムームーっていうんですか?真っ赤なハイビスカス模様のワンピースの上にカーディガンを羽織ってる美しいマダムがいて・・・」

間違いない。美意識の強い花楓ママは、就寝する時はいつも病気や災害があった時に備え、人に見られても恥ずかしくないようなワンピースをネグリジェ替わりにして眠るのだ。男の見たムームーは、最近ハワイ旅行に出かけた時にミッチーが買ってきたものだ。花楓ママは、とてもそれを気に入っていた。

「今度は警察でゆっくり話を聴こう。お前、かなり余罪がありそうじゃないか」

警察官は男の頭をパトカーの中に押し込めると、武雄とサユリに敬礼して去って行った。

「ねえ、こんな騒ぎなのに花楓ママが出てきてないわね」

他のみんなと庭で待っていた田島先生が言った。

胸騒ぎが武雄を襲っていた。サユリも同じ気持ちなのだろう。すぐさま花楓ママの部屋のインターフォンを押した。返事がない。

「今、何時?」

武雄が尋ねると、柏木君が答えた。

「二時です」

男が言うように本当に花楓ママは、こんな夜中に出かけているのだろうか。武雄は意を決し、自分の部屋からノートを持ってきた。失くし物が多くなりがちな高齢者のために、アパートは全室扉が閉まると自動でロックされるようになっている。開ける時は扉の前に取り付けられたボタンで暗証番号を入力するとロックが解除される仕組みだ。

管理人である武雄は、もしもの時のために住人の暗証番号をノートに控えている。花楓ママの部屋の暗証番号を確かめ、入力した。

「ごめんね、ママ。お邪魔します」

花楓ママが布団で眠っていますように。武雄はそう願いながら部屋に入った。

 入ってすぐのダイニングキッチンには人気がない。花楓ママが眠るのは、引き扉で仕切られた奥の部屋のはずだ。武雄は、そっと、扉を開けて、灯りをつけた。布団が敷かれているのを見て、ほっとしたのもつかの間、捲り上げられた布団の上に、花楓ママの姿はなかった。

サユリがトイレを覗きに走った。いないのを確かめると、サユリは風呂場の扉を開け、そして居るわけのない押入れの中まで見た。

それでも、花楓ママはどこにもいなかった。



 アルツハイマー型認知症―。花楓ママは、そう診断を受けた。

認知症とかアルツハイマーという言葉は、雑誌やテレビでよく耳にしたり、見たりしたことがある。しかし、実際のところアルツハイマー型以外に何型があるのかと聞かれたら知らないし、アルツハイマーそのものが何を意味するのかも知らない。

ともかく医師の話によると、アルツハイマーというのは、加齢により脳が萎縮してゆく病気で、そのことが原因で世に言う認知症の症状が出現するのだそうである。だから、認知症というのは病名ではなく、アルツハイマーという病気が引き起こす様々な症状のことを指すそうである。アルツハイマーの他にも認知症を引き起こす病気はたくさんあるというのだが、武雄はこれからのことに対する不安で頭が一杯になり、その説明のほとんどを覚えていない。

 あの日、一キロ程先の線路脇を歩く花楓ママを見つけたのは武雄だった。「どこに行っていたの?」という問いに、花楓ママは困ったような、怯えたような目で武雄を見るだけだった。「帰ろう」と言うと、花楓ママは、ほっとしたように頷いた。

 数日後、武雄は花楓ママに、最近物忘れが多くなってきたが、一人では不安なので一緒に検査を受けに行ってくれないかと頼み込む振りをして、今日こうして病院にやってきたのだ。

本人に本当のことを話すべきなのかどうか、武雄には判断がつかなかった。それに、花楓ママが数日後に検査のことを思い出すかどうかも分らないのだ。

花楓ママの病気の進行具合は、まだ初期の段階だというが、残念ながら、服薬で進行を遅らせることはできても、病気を治すことはできないそうだ。つまり、どうやっても、いずれ花楓ママは病気であることも、自分であることも分からなくなる日が来るということだ。一体、そんな残酷な事実を本人に知らせ、不安と苦しみを突きつけることが正しいのか。考えれば考えるほど、武雄は分らなかった。

「ねぇ、タケコちゃん、あんみつ食べていかない?」

病院の帰り道、花楓ママは『甘味処』と書かれた暖簾の前で足を止め、少し後ろを歩いていた武雄を振り返った。持病の糖尿に加え、人一倍美容に気を使う花楓ママは、普段ほとんど甘い物を食べない。武雄は少し心配になったが、彼女の様子は、いつもと変わらない。 

武雄は、花楓ママと一緒に店の暖簾をくぐった。

「美味しい」

しっとり濡れた餡をスプーンで掬い、口に運ぶと花楓ママの顔が綻んだ。昔から花楓ママは、こうやって悪戯な童女のような表情をする時がある。ふと武雄は、こんな表情をする誰かを他にも知っているような気がした。そして、それが誰なのかに思い至ると「あ、そうか・・・」と思わず、ひとりごちた。

「どうしたの?」

花楓ママが不思議そうに首を傾げる。

「うんと小さい時のことを思い出したの。母のこと。末っ子の特権で、いつも私だけ一緒に買い物に連れて行ってもらったの。決まって帰りに、あんみつを食べさせてもらったわ。普段笑わない母が、あんみつを美味しそうに食べながら、店の漫画を私と一緒になって読んで、子供みたいに笑うの」

サユリにだって子供の頃の話などしたことがないというのに、なぜか自然に口をついていた。

「タケコちゃん、田舎はどこだっけ?」

「神戸。ママは?」

「あら、私は大阪」

「近いわね」

嬉しそうに言う武雄に花楓ママが聞いた。

「帰りたい?」

彼女の問いに、武雄は言葉に詰まった。

帰りたくないと言ったら嘘になる。しかし、帰りたいと言うには、生まれた町は、自分にとって途方もなく遠い。

「私は、今の場所が一番好き」

花楓ママは、武雄の返事を待たず、空になった器に視線を落とすと、独り言のように言った。



 武雄は、腰高窓の枠に肘をつき、不穏な色をした空をぼんやりと眺めていた。今朝方の雨は明日いっぱいまで続くそうだ。だらだらと続く梅雨に、良くなっていたと思った持病の腰が再びチクチクと痛み出した。

今月の日帰り旅行は何処にしよう。楽しみにしてくれている利用者の顔を一人一人思い浮かべるのだが、いっこう考えが浮かばない。浮かんで来るのは、花楓ママの顔ばかりだ。

あれから一週間、武雄は結局、花楓ママに何も言い出すことが出来ずにいた。

花楓ママは相変わらず毎日何かを探していて、時々見当はずれの受け答えをすることはあるが、目立っておかしなところはなく、精神的にも落ちつているように見えた。花楓ママが検査結果を尋ねてこないのと、どこかで病気のことから逃げたい気持ちも手伝って、武雄はこれから確実にやって来る花楓ママや自分たちの将来に向けて、考えなければならない問題を棚上げにしていた。

皆も同じ気持ちなのだろう。花楓ママのことを伝えてからというもの、メゾン・ド・ハナの住人たちは、奇妙なほど平然としているくせに、一様に柄にもない無口を貫いている。

動き出さないといけないのは皆、分かっている。しかし、どうやって?人一人が、つつがなく一生を終えるのは、本当はとても困難なことなのではないか。過去に死んでいった先人たちは一体どうやってこの長い人生を乗り切ったのだろう。武雄は悪戦苦闘して生き抜いた全人類、いや、もはや全生物に敬意を払いたいくらいの気持ちだった。

ここ3日間の雨のせいで、花楓ママが朝の日課であるバレエ・エクササイズを庭でやる姿を見ていない。誰もいない庭を眺めていると、もうずっとその姿を見られないのではないかと、武雄の胸に黒い雲が掛かる。花楓ママは一緒に病院に行ったことを覚えているだろうか。覚えていないとしたら、わざわざ事実を伝える必要があるのだろうか。次第に自分自身を見失っていく恐怖に耐えられる人間なんているだろうか。しかし、とも武雄は思う。花楓ママは強く優しく、そしてプライドの高い人間だ。何も知らされず愛する住人達に迷惑をかけ、自分の望む最後の姿も伝えられないまま、大切なものを忘れていくことを果たして彼女は望むだろうか。今なら本当の気持ちを聞いておくことができる。そう思うのだが、花楓ママの笑顔の前に、武雄の気持ちは、すぐに揺れ動いてしまう。

 武雄は、サユリが突然消えて、東京の街にたった一人で取り残された夜のことを思い出した。それでも何とか生きて、都会の事情にも慣れ、何人かの男に恋をした。そして何度も何度も一人ぼっちになった。しかし、花楓ママはいつも武雄の近くにいてくれた。話を聞いてくれた。素敵な洋服をプレゼントしてくれた。一緒に朝まで飲んで馬鹿騒ぎしてくれた。そのどれもが果てしなく遠いことを、今さらになって思い知らされる。

武雄は分らなくなった。一体自分は、サユリは、花楓ママは、何のために、何をして、あんな風に生きたのか。そして何のために、このメゾン・ド・ハナにやって来たのだろうと。

そろそろお昼だ。花楓ママに御飯を食べてもらわなければ。武雄はのろのろと立ち上がった。病気のことが分かってからは、なるべく一緒に食事をとることにしていた。

雨足が強まっていた。武雄はコンビニで弁当を二つ買うと、花楓ママの部屋に向った。

何度かインターフォンを押したが返事がない。またどこかに行ってしまったのだろうか。武雄の胸に不安がよぎる。

「タケコさん」

背後の声に振り向くと、柏木君と花楓ママが一つ傘の下で立っていた。

「今日は撮影が早く退()けて、そこでバッタリ花楓ママと会ったんですよ」

武雄は花楓ママの顔を見て安堵の溜息を吐いた。

しかし、何か違和感がある。いつもきっちりと束ねられている花楓ママの髪は、櫛を入れた様子もなく、雨に濡れてボサボサで、化粧気もない。寝ていないのか、目の下には赤茶色い隈が浮きでている。美しく彫りの深い瞳は何かを疑うように、ぎょろりと、こちらを睨んでいる。

「花楓ママ、買い物をしに出かけたらしいんですけど、傘を持って出るのを忘れたみたいで。一緒に取りに戻ったところです」

柏木君は花楓ママを傷つけないようにしているのだろう、そう説明した。こんなに雨が降っている日に傘を忘れて出かけるわけなんてない。しかし、不信感を抱かせないように武雄も笑顔を造り

「ママ、一緒に、お昼ご飯、食べよ」と声を掛けた。

「デザートも」

柏木君は、お土産に買ったという有名店のプリンが入った袋を掲げた。

「あら!それ食べてみたかったの」

武雄は、わざと弾んだ声を出すと、3人で一緒に部屋に入った。

花楓ママは、あまり食欲が無いようだった。武雄の買ってきた弁当には半分も手をつけていない。

「具合、悪い?」

武雄が尋ねると花楓ママは首を横に振るだけで、口を開こうとしない。部屋の中に響くのは、台所で湯の沸く音だけだ。武雄はコーヒーを入れるために立ち上がった。

「これ美味しい!噂どおり、ほんと滑らか」

お土産のプリンを口に含み、武雄は、大袈裟に声を上げた。

「これならサユリさんも食べられるかな」

柏木君も明るい声で言うのだが、花楓ママはやっぱり口をつけようともしない。ただ、じっと目の前に置かれた食べ物を見つめている。

「ママ、もし食欲なかったらプリンだけでも・・・」

言い終わらない内に、花楓ママが武雄の腕を掴んだ。

「お願い。本当のことを教えて」

花楓ママは、かつて見たことのない形相で武雄を睨み上げた。

「私、何の病気なの?」

「ママ、落ち着いて。先生も仰ってたでしょう。その薬は血栓を溶かす・・・」

「誤魔化さないで」

武雄を射すくめる目は、真実を見つけ出そうと大きく見開いている。武雄は思わずたじろいだ。

「ここのところ何が何だか分らない。頭の中に色々なものを放り込まれて、洗濯機みたいにグルグル回ってるの。ねえ、私、一体どうしちゃったの?ぼけちゃったの?死んじゃうの?」

武雄は救いを求めるように柏木君の顔を見る。しかし無理もない。若い彼は、ただ立ち尽くすだけだ。

「お願い。隠さないで本当のことを教えて」

花楓ママの指が叫ぶように武雄の皮膚に食い込む。

「私、ここが好きなの。ここで暮らしたいの。みんなに言っておきたいことがあるの。だから、お願い。本当のことを教えて」

武雄は、もはや逃げられないことを悟った。

一つ息を呑むと言った。

「アルツハイマー型の認知症」

見開いた花楓ママの目から涙が一筋こぼれると同時に、武雄の腕から痛みが消えた。

武雄は動揺した。自分は何てことを言ってしまったのだろう。

花楓ママは、自分よりも武雄のショックを気遣い、真っ赤になった武雄の腕をさすった。

「ごめんね。でも、ありがとう。教えてくれて、ありがとう」

武雄は何も言うことができなかった。下を向いて歯を食いしばった。なんて自分は役立たずなんだろう。泣きたいのは花楓ママだというのに。

 少し一人で考える時間が欲しいという花楓ママを残し、柏木君と二人で外に出た。

「タケコさん、大丈夫ですか?」

「どうしたらいいのかな」

武雄は、柏木君を見上げた。

「これからたくさんの場所に挨拶に行くんだって」

「何の話?」

「イズミが言ってたんです。認知症の人は、過去の色々な場所に行って、挨拶をして回るんだって」

「ああ、そういえば彼女、介護士の仕事をしてるって言ってたわね」

「今まで、みんなで色々な場所に出かけましたよね。花楓ママは、これから時間を超えて色々な場所に出かけるっていうか」

柏木君は思いつめるように話した。その横顔があまりに真剣な表情なものだから、武雄は場違いに思わず笑ってしまった。どうしてこの若者は、奇妙なアパートの住人に、こうも親切なのか。

不思議そうに見ている柏木君を横眼に、武雄は予報が外れて雨の上がった芝生の匂いを大きく吸い込んだ。そうしたら、なんだか不思議な気分になった。若い頃は六十六歳の自分が、こんな場所に住んでいるなんて想像もしなかった。良かったのか悪かったのかは分らない。でも、何とかここまで生きてきた。これからだけ、どうにもならないなんてことはない筈だ。急に、そんな風に思えた。



その夜、花楓ママは武雄の部屋を訪れ、皆を集めて欲しいと言った。昼間とは打って変わり、その表情は落ち着いていた。そして、一つ一つ自分が望む最後を伝えた。

親も兄弟も既に亡くなっているので、自分の身内は会社をまかせた甥しかいない。すでに財産の生前分与は済ませてあるので、自分の死後、いくばくかの蓄えが残れば、メゾン・ド・ハナのために使ってほしい。そして、明日にでも武雄に、弁護士のもとへ手続きに付き添ってもらいたいのだと言った。

「これから、もっと色々なことが分からなくなって、みんなに迷惑をかけるわ。だから・・・」

花楓ママが皆に頼りない視線を向ける。すると、ミッチーが胸を叩いた。

「何とかなるよ。オカマが四人にイケ面もいるんだから」

花楓ママは力なく笑うと、武雄に一枚の紙を手渡した。

「私のことで判断に迷うことがあったら、この通りにして。遠慮はいらないから」

出来たら読みたくなかった。それでも花楓ママに促され、武雄はその紙に目を落とした。


「お願いしたい事」という言葉の下には、次のように書かれていた。


一、排泄のことで皆さんに迷惑をかける時が来たら、迷わず施設を探してください。

二、医師に死期を言い渡されたら一切の延命措置はしないでください。

三、死後の葬式は不要です。桜の木の下に骨を埋めてくれる霊園があります。骨はそこに入れてください。長年一緒に暮らした人が眠っています。鏡台に契約書が入っています。




武雄の部屋では、花楓ママを除くメゾン・ド・ハナの住人+ミッチーが一列に並べた座布団の上に座っている。正面には壁を背に、イズミが寺小屋の師匠のごとく、静かに座っている。実際、今日、彼女は自分たちにとって師匠である。

これから認知症がどんどん進行していくであろう花楓ママを支えながら生活していくことを決めた住人たちではあったが、実際のところ何をどうすれば良いのか見当もつかない。ここは、多くの認知症老人を見てきた人間に話を聞きたい。となると、悔しいが思い浮かぶのは介護士の仕事をしているイズミしかいない。恋敵に物を教わるのは不本意だが、そんなことを言っている場合ではない。

「私の働いている施設では、家族で面倒の看ることのできなくなった認知症の方々を積極的に受け入れています。当然のことながら、重症の患者さんが多いです」

普段は小動物のように振舞っているイズミだが、かなり威圧感のある生徒たちの視線にも動じず堂々と話した。卵とはいえ、さすが女優である。

「重症って例えば?」

ミッチーが手を挙げた。

「徘徊は多いですね。あと、暴力を振るう人、嘘つく人、物を盗む人・・・」

「ウンコとか、投げる?」

「投げますね」

「なんか、やっぱ、すごそうだね」

ミッチーの顔が引き攣る。

「まあ、人それぞれですから。穏やかな人もいますよ。それに、よく観察していると、だんだん分ってくるんです。私たちから見ると滅茶苦茶な行動に見えても、本人には本人なりの理由があるんだってことが。例えば、うちのスタッフは、夕方を魔の時間と呼びます。皆さん、落ち着きがなくなって、暴れたりすることも多いです。何故だか分ります?帰ろうとするんですよ。おウチに。きっと男の人は、かつて仕事を終えて家に帰る時間、女の人は夕飯の支度をしなければならない時間、そういう記憶が身体のどっかに染みついていて、ソワソワしてくるんでしょうね。だから引き留めようとするスタッフが急に邪魔者に見えて、つい手を上げてしまったりするんです。私たちだって、自分が家に帰ろうとするのを止められたら、反撃しますよね?ですから、大切なことは、こちらから見たらおかしな行動でも、よほどの事でもない限り、無理に止めさせようとしない方が、良い結果になることが多いと思います」

ズズズ。

静かな空間に、突如、不躾な音が響く。サユリがホットココアを啜っているのだ。

「やっぱ女優よねえ。最初は私が教えるだなんてぇ、とか言ってたくせに」

サユリが厭味ったらしく言った。どうも若い女、しかもイズミに物を教わるというのが気に食わないらしい。

「ちゃんと聞きなさいよ。すぐ忘れるんだからメモも取って」

田島先生に窘められ、サユリは不服そうに鉛筆を握った。

気を取り直し、皆、イズミに視線を向ける。

彼女によれば、アルツハイマーは脳の病気だから、いずれは手足が不自由になり、自分の力で日常生活を営むことが出来なくなるそうだ。そして、病気を発症してから、おおよそ平均して八~十年で亡くなることが多いという。

その事実は、思った以上に武雄を打ちのめした。言われてみれば当然のことなのだが、アルツハイマーと死は、武雄の中で繋がっているようで繋がっていなかった。

イズミは武雄の鎮痛な表情に気が付いたのか、少し間を置き、静かな声で続けた。

「さっきお話したように、病気が進行すれば、認知症の症状もひどくなっていきます。その病気は進行を遅らせることはできても、今の医学では治せません。頑張れば、優しくすれば、怒れば、どうにかなるものではありません。そのことを受け入れないと、介護する側は、すぐに潰れてしまいます」

イズミは、重苦しくなった空気を入れ替えるように小さな笑顔を見せた。

「なにはともあれ、みんなで暮らしていくことを決めたんですから、

やってみるしかありません。私が長い間この仕事をしてきて、いくつか大切にしていることがあります」

 イズミは“介護の五原則”なるものを教えてくれた。

「一に『おまかせしよう』。よく言われることですが、これはとても大切なことです。一人で抱え込んだり、何かを隠したりすることは、偉いことでも良いことでもありません。いずれ破綻し、誰かに迷惑をかけることになります。だから、できるだけ行政やプロに助けを求めましょう。

二に『クールになろう』。病気が進行すれば一生懸命に面倒を見てきた人のことが誰だか分らなくなる時が必ず来ます。それは、悲しいことかもしれませんが、病気の一症状に過ぎません。冷たい言い方かもしれませんが、介護者の感情と症状には、何の関係もありません。優しいのもいいですが、どこかクールな目を持たないと気持ちが持ちません。

 三に『合わせよう』。さっきも言いましたが、余程の事でもない限り、おかしな言動を止める必要はありません。おかしなことを言ったら、おかしな返答を返せばいいんです。ついさっきのことを忘れてしまったら思い出させる必要はありません。その人にとっては忘れた世界が事実です。彼らの世界を、こちらの希望や都合で変えても、良いことはありません。彼らの行動に合わせてしまうこと。それが一番、楽だと思います。

 四に『認めよう』。前は出来たのに、前は覚えていたのに、と過去にこだわらず現状を認めることです。感情に流されないことと一緒です。そうすると、不思議と今出来ることが見えてくると思います。

 五に『明日にしよう』。 なんだかんだ言っても、一番大切なのは、介護する側の健康です。後回しに出来ること事を常に考えて、大いに手を抜きましょう。


「では、皆さん、私のあとについて復唱してみましょう」


「おまかせしよう!

クールになろう!

合わせよう!

認めよう!

明日にしよう!」


皆で言い終えると、サユリが突然「ああ!」と叫んだ。

「今度は何」

田島先生がサユリを睨んだ。

「この子、私たちのこと馬鹿にしてうわ」

「何がよ」

「ほら、五原則の頭文字をとってごらんなさいよ!OKAMA。オカマよ!」

いつもの仕返しなのか、そうでないのか、イズミは「単なる偶然です」とクールに言うと、不敵に笑った。



 それからの花楓ママは、とても落ち着いているように見えた。自分が病気であることを知ってから、なるべく長い間メゾン・ド・ハナで暮らせるよう、自ら病気の進行の仕方を知り、イズミや他の住人たちに協力を仰いだ。そうすると不思議に夜中に出歩くこともなくなった。

今思えば、花楓ママをあてもなく出歩かせていたものの正体は、恐怖だったのだろう。ふと目が覚めると、時間や場所の感覚が混乱し、自分自身のことさえ分らなくなっている。何かを探して安心したいのに、何を探してよいのか分らない。今だって怖いことに変わりはないのだろうし、あんなに気の強かった人が、ちょっとしたことで涙ぐんだりするようにはなったが、何が起きているのか、何をすれば良いのかも分らないことほど、人間にとって恐ろしいことはない。

 それでも花楓ママの忘却は、ゆっくりと進んだ。日常生活に関する記憶は問題なく保たれていたが、新しい出来事を記憶するのは日に日に難しくなっていた。

例えば、ご飯を食べることはできるが、何を食べたかはすぐに忘れてしまうし、掃除も洗濯も料理も買物もできるが、それをいつやったのかは忘れてしまう。しかし、それらのことは周りのサポートさえあれば生活するのに大きな支障はなかった。イズミの勧めでいつも目につく冷蔵庫扉にホワイトボードを設置し、起床から就寝までにしなければならないことを全て箇条書きにした。歯磨き、血圧測定、バレエ・エクササイズ、食事、服薬、掃除、買い物・・・。一つやるたびにその項目を消していく。住人たちが当番制で彼女の部屋を一日数回訪れ、ホワイトボードに書かれた項目がこなせているか、様子に変化がないかを見に行った。全て簡単なことではあるが、そうすることで花楓ママの生活が大きく混乱することはなかった。

 それから、花楓ママは仕事をするようになった。認知症の進行を防ぐのに大いに役立つのは社会との関わりだそうである。もともと大きな会社を経営していた花楓ママだ。外で役割を持った方が脳細胞も活性化するだろうと本人も言う。仕事と言っても毎日武雄と一緒にお出かけタクシーに同乗し、利用者の手助けをするだけだが、それを始めてから、花楓ママの表情は明らかに明るくなった。

「はじめまして。わたし、少しボケてるけど、よろしく」

花楓ママが挨拶すると、朝一番の利用者の松子さんはケラケラと笑った。

「心配いらねぇ。わたしもボケてるべ」

「松子さんは、おいくつ?」

「三十五歳」

またケラケラと笑う。彼女は誰に聞かれても一貫してこう答える。家族から、松子さんには軽い認知症があると聞かされていた。しかし、彼女が笑うのを見ていると、三十五歳だろうが八十五歳だろうが大した問題ではないような気がしてくる。松子さんと話していると花楓ママもよく笑う。それで良い。

 


休みの日になると花楓ママは、よくミッチーとショッピングに出かけた。ミッチーは、その度に新しい洋服を買ってもらってくるので、年寄りから金をせびるものではないと武雄が叱ると、意外にも買い物に誘うのはいつも花楓ママの方なのだという。ひょっとすると、もの忘れの多くなってきた花楓ママにとって、生まれながらにして何かを覚えておこうという気持ちのないミッチーという存在は、一番気楽なのかもしれない。

 

その日も、ショピングに出かけてきた花楓ママとミッチーを相手に、武雄は田島先生の喫茶店で紅茶を啜っていた。

突如、店に地響きがした。

武雄が入口を振り返るや否や、店内に強盗さながらの勢いでサユリとサリーが飛び込んできた。確か今日は、週末の競馬帰りのはずだ。

「もう、なんなのよ。静かに入ってきてよね。他のお客さんがいたら迷惑でしょ」

カウンターでお手製のフルーツケーキを切り分けていた田島先生が眉をひそめた。

「ケーキなんか切ってう場合じゃないわ」

また何か変なことでも思いついたと思ったのだろう。田島先生はサユリを無視したままナイフを持つ手を止めようとしない。しかし、その腕首をむんずと掴まれ、田島先生は面倒くさそうに顔を上げた。

「あのね、わたし仕事中な・・・」

腕首を掴んでいるのがサリーであることに気付いて田島先生はようやく手を止めた。

「よく聞いて・・・」

いつも冷静沈着なサリーの声が震えている。一体何事かと事態を見守る武雄たちも次の言葉を待った。

「当たった・・・」

「競馬?」

サリーとサユリの首が大きく縦に揺れる。

「いくら?」

「三百万」

「うそ!」

すぐさま立ち上がったのはミッチーだ。

「どっちが?」

「わたしよ!」

サユリとサリーが同時に声を上げた。と、なぜか二人で口論が始まった。

「わたしだって言ってるでしょう、ハゲ!」

「なによ、この強欲インゲンババア!」

こんな時だけサユリの滑舌はすこぶる良い。

「一体なんなのよ」

結局いつもと同じように武雄が二人の間に割って入る。同時に口を開こうする二人を制し、よく話を聞いたところによると、事情はこうだった。

今日の競馬の見所はなんといっても年末最後に中山競馬場で開催されるG1レース・有馬記念である。馬券の発売が締め切られる十五分前のことだった。鉛筆片手にマークシートに向かっていたサユリは、突然の腹痛に襲われた。この寒い時期に競馬場でアイスクリームを二つも食べたというのだ。サユリは腹と尻を押さえながら、サリーに馬券の購入を頼み、トイレに急いだ。

サユリがサリーに頼んだ馬券は中山十レース・有馬記念、三連単で3‐6‐8を三百円。その日は朝から好調だったサユリには自信があったそうだ。

今年最後のファンファーレが響き渡る中、トイレから生還したサユリに、サリーは馬券を手渡した。礼を言おうとしたサユリの目が馬券に釘付けになった。馬券には確かに頼んだ番号が並んでいる。しかし、それは中山十レースではなく、京都十レースだったのだ。サリーは開催場所を間違えてマークシートを塗りつぶしてしまったのである。

サリーは、いつもレースの始まるギリギリまで、びっしりと赤鉛筆で印をつけた新聞を睨みつけ、小額の馬券を十数枚は買う。自分の分のマークシートの記入で焦っていて、運悪くサユリに頼まれていた分を書き間違えてしまったのだ。

今回は絶対に来るはずだ、どうしてくれるのだ、とサユリが大騒ぎして怒ったのは言うまでもない。しかし、そうしてみたところで後の祭りだ。馬たちはすでにゲートインを終えていた。

サリーは祈った。どうかサユリの予想が外れますように!

結局、サリーの心配は取り越し苦労に終わった。サユリの予想は見事はずれたのである。それでも、サリーは間違えてしまったお詫びにと、サユリにプリンを買ってやり、すっかり機嫌を治したのを見て胸を撫で下ろしていた。

その時だった。サリーは何の気なしに馬券売り場の天井から吊り下げられたモニターに目をやった。サリーの口から悲鳴が漏れた。訝るサユリから、さっき間違えて購入した馬券を掴みとった。モニターには、さっき終了したレース結果が映し出されていた。3連単3‐6‐8と。サリーはしつこいくらいに馬券とモニターを交互に見返した。

そこには確かに書かれていた。京都十レースと。


「それが300万に?」

武雄の言葉にサユリがブンブンと頷いた。

「やっぱ、私の人生ミラクウだわ・・・」

「おめでたいハゲね。あんたの予想は結局はずれたじゃないのよ。私が間違えたからとれたのよ」

サリーの言葉に一同頷く。

「私が頼まなかったあ、あの馬券は買ってなかった!」

サユリの反論も確かに間違ってはいない。両者一歩も譲らない。

これは折半しかないのでは、と武雄が提案しようとした時だった。

「パアっと使おうよ」

ミッチーが言い放った。

「は?」

サユリとサリーが又もや同時に声を上げる。

「年金暮らしのオカマがギャンブルで勝った金、みみっちく分け合って貯金でもするの?人生最後かもよ?パアっと使っちゃいなよ、パアっと!」

こうまではっきりと人生最後と言われると、そんな気がしてきたのか、サユリとサリーはお互いに目を見合わせる。

「何か欲しいものあう?」

サユリの問いにサリーは考え込む。

「欲しいものはないけど・・・贅沢がしたい」

「いいじゃん!しなよ、贅沢!」

ミッチーは、いかがわしい教祖のごとく妙な説得力で、あれだけ揉めていた二人を散財へと誘導する。

「そうだ。花楓ママ、どっか行きたいとこないの?」

ミッチーの問いに花楓ママは暫く思案すると、思いついたように言った。

「伊勢」

「伊勢?ハワイとかじゃなくて?」

不思議がるミッチーに花楓ママは頷くと、もう一度確かめるように言った。

「伊勢に行きたいの」

「ほら、どうすんの」

ミッチーがサユリとサリーを見る。

二人は確かめるように視線を交わすと、決心したように頷いた。そして、サユリが言った。

「伊勢で一番高い旅館、予約しなさい」




“人生最後の”というのは確かにミッチーの言う通りだったのかもしれない。

鳥羽で一番と名高い温泉旅館は噂に違わない宿だった。離れに建てられたメゾネットタイプの特別室は、一階と二階に分かれ、それぞれ80㎡という驚きの広さだ。一階は食事を楽しむモダンな和室。いかにも高価そうなソファやテーブルがセンス良く配置された洋風の居室。二階はイギリス王室でも使われているというベッドが並び、寝具は真っ白に統一されている。部屋のどこからか控えめなラベンダーの香りが漂っている。

バルコニーに設えられた巨大なソファと露天風呂からは伊勢湾の島々が一望できる。絶景を楽しみながらの露天風呂は自分たちだけのものだ。いつものように、他の客に気を使う必要も、使わせる必要もない。

ミッチーは、あらかじめ旅館に連絡し、皆と同じものが食べられないサユリのことを相談していた。まるで自分の金かのように、金額は厭わないと言うと、女将は快く特別メニューを引き受けてくれたそうだ。

鮑に伊勢海老、松坂牛。竜宮城のような料理に歓声が上がる。サユリのために用意された料理は煮たり、すり潰したりと、全て柔らかな口当たりのものばかりだが、さすがに一流の板前を擁する最高級旅館である。どれも目に鮮やかな彩りで皆の料理と見劣りしない。

「ああ、おいひぃ」

口に入れる度にサユリの顔が綻んだ。

「智久も連れてきてあげたかったなあ」

なぜか旅行についてきたイズミが、とんでもなく新鮮な鮑の刺身に驚きながら呟く。心優しい田島先生が誘ったのだという。

「その智久っての、やめなさい。柏木君はスターの道を歩き始めたの。あんたなんか、そのうち捨てらえうわお。だいたい何で、あんたがついてくんの」

「彼は変わらないって言ってくれてます」

「私も男だった頃よくそう言っあもんだわ」

「サユリさんと一緒にしないでください!あ・・・もうこんな時間」

イズミはサユリを無視し、時計を確かめるとテレビのスイッチを入れた。皆の視線が48インチの大画面に集中した。すっかり多忙の身となった柏木君は、旅行には来られなかったものの、今日は彼が出演する連続テレビドラマ『スーパーヒーロー』の記念すべき第一回目の放送日なのだ。

 お馴染みの主題歌をバックに『スーパーヒーロー』の文字が大きく画面に踊る。イチョウ並木の真ん中を、型破りの弁護士に扮する主役が画面に向かって颯爽と歩いてくる。次々と他の役者が彼の横に現れては一緒に歩き出す。その最後に現れたのが柏木君だ。いつの間にか他の役者の姿は消え、主役と相棒役の柏木君だけが残った。そしてイチョウの葉が舞う中、二人が挑むように見つめ合うシーンで、主題歌はクライマックスとなり、激しいドラムの音が鳴り響いた。

「きゃ~!智久かっこいい!」

イズミが思わず画面にしがみ付いて叫んだ。

「ちょっと邪魔!」

サユリがイズミを押しのける。

「主役に負けず劣らず存在感あうわ。ねぇ、タケコ・・・」

武雄は、ふいに頬を伝うものに自分でも驚いた。

「なに泣いてんの」

「歳とると涙もろくなるのよ」

鼻を噛むと、ますます涙が溢れてきた。

ティッシュペーパーで顔を覆う武雄を皆は困ったように見ている。悲しかったのではない。とにかく嬉しかった。柏木君のことだけじゃない。なんだか無性に全てが嬉しかった。

 ドラマは大成功だった。長年、舞台で磨き上げてきた柏木君の演技は初出演とは思えないほど堂に入っていた。大ヒット間違いなしだ。

いつの間にかイズミは浴衣姿で高級ソファに身体を埋め、寝息を立てていた。オカマ四人相手に、なかなかの大物ぶりだ。田島先生がそっと毛布をかけてやる。

他の皆は夜を惜しむように海の見えるリビングテーブルに集まり、酒を飲みながらお喋りに興じていた。

 武雄はサリーと向き合い、ワイングラス片手に闇に溶けた海を見つめていた。

あれはどこの海だっただろうか。何歳だったかも覚えていないが、子供の頃に家族旅行で海に行ったことがある。夜中にトイレに行きたくなって目を覚まし、暗い旅館の廊下を歩いて便所に入った。用を足して、ふと開いた窓から外を見た時だった。漆黒の海が空も大地も呑み込んでいた。全ての境目を失くした闇の中から、揺れる波音だけが聞こえてくる。武雄はなんだか、それが怖くて、急いで部屋に戻ると母の布団に潜り込み、その暖かい背中に頬を寄せた。

「ほんとに人生最後かも」

サリーが呟くように言う。武雄は窓から視線を戻した。

「何が?」

「こんな贅沢。店つぶして、儲け話に手を出して、あれよあれよという間に貧乏になって・・・。そういう時に限って脳梗塞で倒れてさあ。あんたが病院に来てくれるまで、正直死にたかったわよ。最後まで人生やるのって、こんなにしんどいのかって」

「これからだって、どうなるか分かんないわよ」

サリーが頷いた。

「でも、なんとかなるって思うのよ。あの時よりずっと歳をとったのに、今は思えるのよ。なんとかなるって」

「じんかん いたうところに せいかんあい」

木べらで赤福の餡だけをすくって口に入れては幸せそうにしていた

サユリが何やら言い出した。

「何言ってるの?」

ミッチーが通訳しろと武雄を見る。

「人間( じんかん)(いた)(ところ)青山(せいざん)あり」

武雄が言うと、サユリは満足そうに頷いた。

「何それ」

ミッチーが今度は田島先生を見る。

「諺よ。『じんかん』ていうのは人間のこと。『せいざん』ていうのは、お墓のこと。要は人間の行くところには骨を埋める場所なんてたくさんあるから、どんどん世に出なさいって教え」

「ふーん。昔の人はすごいね」

ミッチーは冷蔵庫から新しい白ワインのボトルを持ってくると、コルクを抜いた。この日のためにカリスマがプレゼントしてくれた幻のワインだという。武雄はテーブルの上に並んだグラスの数を見て尋ねた。

「一人分多いわよ」

田島先生が心得たように自分の隣にグラスを置く。そうか、と武雄は納得した。ハナさんがこんな楽しい旅についてこないはずがない。

ミッチーがグラスを持ちあげ、言った。

「オカマ到るところ青山あり!」

乾杯は終わったはずなのに、グラスのぶつかる音が一つ遅れて響いた。



 落ち着いていたと思った花楓ママの様子に変化が現れ始めたのは、旅行から数か月が経った頃だった。

再び花楓ママが夜中に出歩くようになった。花楓ママよりも就寝の遅い武雄は、必ず寝る前に花楓ママの様子を見にいくようにしていたのだが、その日、手灯りだけの灯った寝室に花楓ママの姿は、なかった。

外に出て住人達の窓明かりを確かめるが、もう誰も起きていないようだ。柏木君はロケで一週間、家を空けている。誰かを起こそうかと迷ったが、この先こんなことは何度だって続くのかもしれないのだ。いちいち騒いで皆に心配をかけることもあるまい。武雄は、そう思って寝巻の上にジャンパーを羽織ると静まり帰った住宅街を注意深く探して回った。二時間近く歩き回っただろうか。空の向こうに雲の姿が薄らと浮かび上がっていた。昼までに帰らなかったら警察に届けるしかない。膝が重くて、太ももが痛い。まるで水の中を泳いでいるように、疲れた足は思うように進まない。六十代も後半になって、足腰の衰えは急激にやってきたような気がする。イズミが言うように、落ち着いていたと思った認知症の症状は止まることはないのだ。花楓ママは、自分も知らぬ間に、新しい記憶から順に記憶を失っている。メゾン・ド・ハナの住人たちの記憶を失うのも、そう遠くはないだろう。

やっとのこと家が見える路地まで辿り着き、小さな公園の前を通りかかった時だった。ふと目の端に人影が写ったような気がした。見ると、壊れた街燈の明かりが人の姿を映している。

武雄は慌てて駆け寄った。

「花楓ママ!」

武雄が呼びかけるも、花楓ママは、がっくりと首を項垂れている。そして、微かな鼾が聞こえる。寝ているのだ。

武雄の全身から力が抜けると同時に、花楓ママが靴を履いていないことに気が付いた。武雄は考える。花楓ママは、何をしに夜中に靴下のまま外に出たのだろう。もちろん、考えたって分るわけがない。花楓ママにだって分らないのだから。電車に座った幼児のように、花楓ママの汚れた白い靴下が月明かりに揺れるのを武雄は呆然と見ているしかなかった。


翌日から武雄は、花楓ママの部屋の扉に小さなベルを取り付けた。喫茶店の呼び鈴のように、彼女が扉を開けると住人たちに分る仕組みだ。

しかし、もともと心配性の武雄だ。ベルが鳴る度にいち早く気付くのは、いつも武雄だった。闇に浮かぶ鮮やかな色のワンピースを着た花楓ママを呼び止め、色々な理由をつけては宥め、部屋に戻ってもらう。それでも駄目な時は、花楓ママが事故にあったりしないように少し間隔を空けて、そっと後ろをついて歩く。

そういうことが連日になり、寝不足もピークに達していた。身体は毎日、鉛のように重く、胸にはいつも何かがつかえているようだった。

そんなある日だった。武雄の激しい感情が爆発した。

「一体こんな夜中に何処に行くの!」

怒っても問い詰めても仕方がない。頭では分かっていても、つい大きな声を上げてしまう。

「大事な会議があるの」

「もう会社は甥っ子にまかせたんでしょう。ママはもう社長でも何でもないの!何度言わせたら分るのよ」

花楓ママは武雄の不条理な怒りに混乱し、怯えている。口の中に言葉を丸めこむように俯くばかりだ。そして、その哀しく頼りない彼女の表情を見て、武雄の胸には一気に後悔の念が押し寄せるのだが、何故なのか今晩だけは自分を制御することが出来ない。

「ちょっと、夜中にうるさいわね」

よほど武雄の声が大きかったのか、振り返ると禿げ頭のサユリが後ろに立っていた。しかし、呑気な寝ぼけ眼が、ますます武雄を苛立たせる。

「何がうるさいよ!あんたなんか、いつも寝てばっかりで花楓ママの心配なんてしてないくせに」

「出かけたいんだから、行かせてあげたらいいじゃない」

「そんなことして事故にでもあったら、どうすんのよ!」

「ああ、うるさい」

「うるさいとは何よ」

「うるさいかあ、うるさいって言ったの」

怒りと、やり切れなさで頭が破裂しそうだ。どうして、こいつは昔からこうなんだろう。人の気遣いも苦労も台無しにする。

武雄はサユリを睨みつけた。

「そんなに私がうるさいなら、このアパートから出ていけばいいじゃない。何もかも自分で好きなようにやって、うるさい私のいるこのアパートから出ていきなさいよ!」

サユリが鼻で笑った。

「あんたって昔からそう。自分が好きでやったくせに、結局、全部人のせいにしへさ。あの時だってそう。そういうとこ大っ嫌いだったわ!」

「よくもそんなこと言えるわね。あんたが消えたあと、私がどれだけ苦労したと思ってるのよ」

「ほあ、また人のせい」

「もうたくさん!あんたなんか、あの時、死んでりゃ良かったのよ。この死にぞこない!」

なんてことを言っているのだろう、武雄がそう思った時は遅かった。サユリは口元を微かに震えさせ、背中を向けると部屋を出て行った。

「タケコちゃん、あんな酷いこと言っちゃ駄目よ」

さっきまで出かけると言って聞かなかった花楓ママが、武雄の知っている花楓ママに戻っていた。

「分かってるわよ」

武雄は花楓ママの腕を掴んだ。



 それからというもの、田島先生やサリーは仕事があっても交代で花楓ママの面倒を見てくれるようになった。一人で背負い込む武雄を叱り、なるべく夜は眠れるように気遣ってくれた。

しかし、何を置いても自らの食欲と睡眠欲を優先させるサユリは、相変わらず何が起ころうと朝まで部屋から出てくることはなかった。もとより期待していたわけではないが、相変わらず自己中心的なサユリに対し、ささくれた武雄の心は、いっそう苛立った。

日に日に武雄の中で弱気な気持ちばかりが育っていった。やっぱり甘かったのかもしれない。経験も体力もない老人が認知症の老人のケアをしながら暮らしていくなんて。

皮肉なもので、そんな風に思っていると、本当にますます事態は悪化していった。花楓ママは二日と空けず夜中に叫び声を上げて目を覚ますようになった。花楓ママは時間も構わず武雄の部屋のドアを何度もノックし、誰かが部屋にいるのだと、恐怖に慄いた顔で訴えた。武雄はぐっと苛立ちを抑え、眠い目を擦り一緒に部屋に戻る。そして誰もいないから安心して眠るよう説得し、ぎょろりと見開いた彼女の目が閉じるまで枕元に座っていてやるのだ。

花楓ママが武雄のことを一番頼りにしているのは分かった。しかし、一生懸命やればやるほど、花楓ママが武雄に向ける目は日々、猜疑心が強くなっていった。イズミには、信頼は甘えとなって現れるので、認知症の人が最も近しい人に辛く当たってしまうのはよくあることなのだと慰められた。しかし、頭では理解できても心がついてこない。世の中には一人で年老いた親の介護をしている人がたくさんいるというのに、自分はなんと不甲斐ないのだろう。何もかも投げ出したい気分になっていた。

 慢性睡眠不足で痛む目頭を指で揉みながら、武雄は溜息を吐いた。ミッチーが武雄の肩を叩く。

「OKAMAの五原則のAだよ」

武雄は顔を上げた。

「合わせるのAでしょ。出かけたいなら出かけさせてあげたらいいじゃん」

「そんな簡単なことじゃないし。サユリみたいなこと言わないでよ」

「簡単だよ。サユリママに頼めばいいじゃん。警察から議員まで、地元の人にはほとんど顔が利くんだよ。花楓ママを見かけたら家に送り届けてもらうか、連絡してもらえばいいじゃん」

「そんな風に簡単に言うけど・・・」

「タケコ姉さん、Oも忘れてるよ!おまかせしようのO」

ミッチーに肩を叩かれた。


ミッチーが伝えたのだろう。翌日からサユリは近所中の知り合いを回り始めた。そういう時だけは行動が早いのだ。

サユリに活躍させるのは癪だったが、近所の誰かが花楓ママを見かければ送り届けてくれるか連絡をしてくれると思ったら、本当に気が楽になった。このままでは自分自身も潰れてしまうと感じていた武雄は、思い切って花楓ママの部屋のドアに取り付けたベルも外した。そうするとミッチーが言うように、確かに朝になると花楓ママはちゃんと部屋に戻っていた。


「夜中に酒飲みに行ったら、ばったり会ってよぉ。一緒におでん食って帰ってきたんだべ」


あくる日、そんな風に堺さんから聞かされることもあった。

 こんなこともあった。大事な指輪がないと慌てている花楓ママが部屋中のものをひっくり返している。武雄なら思わず止めようとしてしまうところだが、サユリは彼女の部屋に入ると、一緒になって、洋服から鍋釜にいたるまで、全ての物を引っ張り出して、一つ一つ床に並べてやるのだ。

「ほあ、こうしたら見やすいでしょ。一緒に探そう」

サユリが言うと花楓ママは満足そうに頷く。しかし、そうして探している内に花楓ママは探していた物も忘れてしまうのだ。

武雄は二人の姿を見ていて、思わず苦笑した。狙ってやっているのかは分からないが、サユリにはやはり敵わない。



それから半年ほどした頃だった。叫び声を上げたり、花楓ママの、何かを疑って怒ったりするような症状は目立たなくなった。その代わり、花楓ママは少しずつ花楓ママでなくなる時が増えていった。イズミが言うように、色んな場所や時間へ、会いたい人に会いに出かけるようになったのだ。

 武雄が茶を啜り、サユリが赤福の餡を舐めながら、庭のベンチに座っている。さらにその横では花楓ママが腰かけ、何故だか慈しむような目をサユリに向けている。

「やっぱい赤福は本場にかぎるわ」

旅行以来、サユリはすっかり赤福が気に入り、毎月のように伊勢からお取り寄せするようになった。といっても不自由な口で喉を詰まらせたら大変だ。餅を食べることは武雄から固く禁じられている。丁寧に餡を剥がされた赤福は、食べ終わった後にはすっかり色白になっている。

“お兄ちゃん”が現れたのは、そんな時だった。

「そんなに本場のんは美味いか。でも、あんまり食べたら夕飯に響くでぇ。今日は宿で沢山美味いもの食わしたるからな」

花楓ママは突然、関西弁で話し出した。最近では三分前のことも覚えていられないようになってしまった花楓ママだが、こんな風に住人を誰かと間違えて話すのは初めてだった。しかも男の口調だ。

武雄もサユリも即座に理解した。花楓ママは今、誰かと会っているのだ。表情や話し振りからすると、とても愛おしい誰かと。

サユリは隣に座っている武雄と目を見合わせた。花楓ママの大切な誰かにならなければと様子を伺う。

当てずっぽうだろう。サユリは伺うように言った。

「お兄ちゃん」

花楓ママ目の奥が、ぱっと開くのが分かった。正解だ。どうやら花楓ママは弟か妹に会っているらしい。

「そないな顔すんな。心配せんでも昔と違うて金持ちやねんで。今度、洋服も買うたるわ。この前、お前に似合いそうなワンピース見つけたんや」

どうやら“お兄ちゃん”は、妹と旅行に、恐らくは伊勢に来ているらしい。

しばらく、お兄ちゃんは友達や親戚の伯父さんのことなどを話したが、当然ながら武雄たちにはさっぱり訳が分からない。それでもサユリの相槌や笑いの入れ方は見事なもので、武雄は胸を撫で下ろした。

「おいひい」

サユリがもう一度言うと、花楓ママならぬ、お兄ちゃんは、本当に満足そうに笑った。

 以来、花楓ママが関西弁で話し出すと、住民たちは、お兄ちゃんと呼ぶようになった。お兄ちゃんは決まってサユリが赤福を食べている時か、モドリやベガを抱いている時に現れた。妹は赤福と猫が好きで、その昔、二人はお金に苦労したようである。お兄ちゃんは、どうやってか金を稼ぎ、妹を幸せにしてやることが自分の幸せだったようだ。

花楓ママが会社を譲った甥っ子とは、きっとその妹の息子だったに違いない。

それから、もう一つ分かったことがある。お兄ちゃんは父親を憎んでいたようだ。妹に向かって話す内容を繋ぎ合せると、クソ親父こと彼の父親はギャンブル好きの、相当なごくつぶしだっようで、妹が産まれてすぐに行方を眩ましたとみられる。母親は苦労が祟り、早くに病死してしまったようだ。お兄ちゃんは、時々サユリをクソ親父と間違えて胸倉に掴みかかることがあった。それは決まってサユリがカツラを被っていない時だったので、クソ親父は禿げだったことも分かった。サユリは花楓ママの前でカツラを脱いだ姿を見られないよう細心の注意を払うようになった。

この頃になって、ようやく武雄は諦めることを覚えた。何かをすることに意味や理由を求めることは、花楓ママを、結果的には自分自身を苦しめることになるのだと。今になって思えば、あの旅で花楓ママは花楓ママとしての最後を精一杯に楽しんだのかもしれない。 

武雄たちは手探りで花楓ママとの日々のやり過ごし方を覚え、オカマの五原則を念仏に、なるべく何にも抗わないように暮らした。

 



この春、メゾン・ド・ハナの軒先には、入居者募集の幟がはためいていた。

冗談のように時は流れていく。奇跡の豪華伊勢ツアーは、住人達の五年前の大切な思い出となり、すっかり売れっ子になってしまった柏木君は、とうとうこのアパートから出ていってしまった。最後まで皆のことを心配してくれていた彼だが、もはや日本で知らない人の方が少ない人気俳優になっていた。こんなアパートに居たのでは身の安全が危ぶまれる。皆は大切な息子を送り出す気持ちで彼の背中を見送った。

こうしてメゾン・ド・ハナは晴れて正真正銘オカマ専用老人ホームになった。今のところ健康と明るさが取り柄の自分たちだが、その最後はいつ訪れるかもしれない。最近は遺言の作成と墓探しが住民たちのブームである。

サユリはというと、いつか宣言した通り、自分の人生をしたためた小説を書いているそうだ。しかし、五年かけて書き上げた原稿枚数は二十枚。多分、道半ばで死ぬだろう。

武雄は、先月で七十歳になった。

鏡に向かい、こめかみに両の手を当て、頭部に向かって引き上げる。こうすると五歳は若く見える。しかし手を離した瞬間、見るも無残に皮膚は顎の下まで流れ落ちていく。思わず溜息が出るが、それでもミッチーと買いに行った新作の口紅をのせれば、少しは気分が上がる。

 武雄は自らの胸に手を当ててみる。若い頃は忌まわしくて仕方なかった鋼のような筋肉はもう跡形もない。ただ弾力を失ったが故の柔らかな皮膚があるだけだ。結局この身体だけは女になることはなかった。しかし、不思議なことに最近になってようやく武雄は自分の身体を受け入れ始めていた。そうなりたいと願って生まれてきたわけでもない。確実に衰え、醜くもなっていくこの身体を、何故だか愛してやろうと思えるようになっていた。自分も花楓ママのように、時の流れから解き放たれたなら、この身体と心は一体、何処へ行き、誰に会いに行くのだろう。そして、こうやって化粧をして仕事に出掛けられる時間はあとどのくらいだろう。考えても仕方のないことだが、最近は朝の支度を終えると必ずそう考えている自分がいた。

いつものようにお出かけタクシーで送迎に出掛けようと扉を開けた時だった。インターフォンが鳴った。

「配達証明です」

郵便配達の男は奇妙な住人の姿に怯えた様子を見せ、印鑑をもらうと逃げるように帰って行った。

「失礼しちゃうわね」

ひとりごちて封筒を見ると、武雄は意外な差出人に首を傾げた。神戸市長田の区役所からだ。一体何だろうと訝りながら、封を切ると、一枚目の紙に時候の挨拶と、今回郵送した封書の趣旨が書かれていた。

注意深く目を通すと、長田区の大規模な区画整備に伴い、周辺に土地を持つ所有者に、土地の現況確認をしてもらいたいという知らせだった。

そういえば、と武雄は記憶を手繰り寄せる。武雄の家には、祖父の残したいくつかの小さな土地があった。いくらにもならない辺鄙な場所にある猫の額のような土地だったが、父は、生前分与の一環で、それらのうちのいくつかを子供たちの名義に書き換えてくれていた。

 二枚目の紙に土地の所在地と所有者の一覧表が添付されている。兵庫県長田区五番町―。胸が波打った。

家々の囲む細い坂道、川の生臭さ。故郷の姿が眼前に蘇る。若い母の手を握り、歩いた商店街のうどん屋の匂い・・・。あの時、確かにあそこには自分の帰る家があった。

書類の、ある名前のところで武雄の視線が止まった。

北原律子と北原喜美子。

武雄の血を分けた二人の姉の名だ。武雄と同じ土地の所有者として連名で名前が書かれている。彼女たちは今も生きているのだろうか。

武雄は思った。今回のことを理由にすれば、もう一度あそこに帰ることができる。そうしなければ二度と足を踏み入れることはないだろう。しかし、と武雄はすぐに思いなおした。やはり自分は帰るべきではない。姉達だって望まないだろう。

武雄は、受話器を取り上げた。文書の最後に書かれた電話番号を押す。どうしても現地に来られない場合は、市の職員が代理となって土地の現況確認をするので連絡を要する旨が記されていた。

若い女の声が聞こえてきた。のんびりした口調が昂ぶっていた武雄の気持ちを少し落ち着かせた。女は担当の職員だという中年らしき職員の男性に電話を取次いでくれたが、こちらも危機感とは無縁の声だ。

武雄は今回受けとった書類の内容、事情があって現地まで出向くことはできないことを伝え、できるならば自分は土地の権利を放棄したいのだと相談した。

「ああ・・・えっと、北原さんねぇ。ちょっとお待ちください」

中年らしき男性職員がそう言ったかと思うと、受話口から保留音が流れた。数分待った後、再び呑気な声が返ってきた。

「数日前にお姉さんの律子さんから電話がありました」

「姉から?」

「ええ。お姉さんが、あなたの居場所を知りたい言いはって。もちろん個人情報やから、お断りしましたけど」

武雄は戸惑った。今さら姉は自分と連絡を取ってどうしようというのだろうか。雰囲気で察したのだろうか、職員が諭すように言った。

「詳しい事情は知りませんが、土地のことは兄弟で一度ちゃんと話し合いはった方がええと思いますわ。こちらは間には立てませんので」

面倒臭いことに巻き込まれたくないのだろう。迷惑そうな雰囲気を察し、武雄は戸惑いながらも、今度役所に連絡があったら、姉に連絡先を教えることを承諾した。



姉から連絡が入るかもしれない。そう思うと落ち着かない日々だった。やはり姉は自分のことを怒っているだろうか。どんな風に話をしたら良いのだろうか。家の電話が鳴る度に心臓が高鳴った。しかし、姉から連絡が入ることはなかった。

姉に連絡先を教えたことも忘れて一月ほどした休日の午後だった。

武雄は、いつもより遅めの昼食をとり、花壇の手入れをしていた。ふいに鮮やかな黄色のパンジー達の上を自分以外の誰かの影が覆ったので、武雄は後ろを振り返った。

小柄な老女が立っていた。短く切り揃えられた白髪と、手入れの行き届いた白いブラウスが、少しばかり取っ付きの悪い折り目正しさを与える女性だ。

「こんにちは」

お出かけタクシーの新しい依頼者だろうか。ただ黙って立っている彼女を不思議に思いながらも、武雄は愛想よく応じた。

「武雄」

そう呼ばれた瞬間、一気に時間を引き戻された。その声は確かに、姉だった。一緒に寝転がってテレビを見た畳の匂いさえもが鮮明に蘇る。

 座布団の上で背筋を伸ばし、きちんと膝を揃えた姉は、綺麗に片付けられた武雄の部屋を見回している。武雄が卓袱台の上にお茶を置くと視線を落としたまま口を開こうともしない。武雄の方も何と声を掛けたら良いか分らずに、向かい合って俯くしかなかった。

と、姉が思い出したように傍らの菓子折りを黙って卓袱台の上に置いた。その包み紙を見て、思わず武雄の胸が詰まった。どら焼だ。 

また一つ、しまっていたはずの記憶が引き出しから飛び出してくる。それは、かつて父が土産に買って来てくれた十二個入りのどら焼きだ。二個ずつにすると、五人家族には二個余る。姉たちは、幼い武雄がたいそう喜ぶので、武雄の取り分はいつも四つだった。武雄が高校生になって、もういらないと言っても、どら焼きは机の上に必ず四つ並んでいた。

武雄は姉の顔を見た。その顔は表情のないままだが、背筋からはさっきよりも力が抜けている。

すると、姉は突然、武雄を見て「変な格好やな」と笑った。

困ったように俯く弟の姿を見て、姉は小さな息をつくと、武雄がいなくなってからの北原家が辿った道筋を話した。

武雄が出て行ってから、一家は母の実家のある和歌山市内に移住したそうだ。それからしばらくして父方の祖母が亡くなり、続けて父が亡くなった。肝臓癌を患い、入院してから三か月と持たなかった。48歳の若さだったそうだ。

下の姉は、東京の大学に進学し、美術雑誌専門の出版社に就職した後、職場で出会った男性と結婚した。三人の娘に恵まれたが、夫は酒飲みの横暴な男で、定年を待って離婚したという。以来娘たちと買い物や旅行をするのを楽しみに暮らしていたが、去年、心臓発作で亡くなった。

そこまで話して、姉はふと言った。

「なんでやろうな。話してみると大したことないねん。色々、えらいこと、あったんやで」

姉は冷め切った湯呑で唇を濡らすと、今度は自分のことについて話した。

姉は高校を出てすぐに印刷会社の事務員として就職したそうだ。母は父が亡くなってから精神的に不安定になり、家を出ていくことが出来なかったという。いくつか縁談もあったが、結局、結婚を決意するほどの男性とは巡り会えないまま、母のもとに残り、その最後を看取ったそうだ。

「ああ、なんでやろ。これも大したことないなあ」

独り言のように言いながら、姉は頬を歪めた。

「今も和歌山に?」

姉は頷いた。

「うちも、もう歳や。こうやって東京に来られるのも最後やろな」

「お母ちゃんが亡くなったんは、いつや」

「十年前。今の私と同じ齢の時や」

さらりと言う姉だったが、その目は、礼なんて言われたくない、そう言っているように見えた。

「最後はボケてしもうてなあ。あんたのこと、いつも話しよった」

「俺のこと?」

「うちの息子は、お医者様になりましてなあって、いつも言うとったわ」

「すまんかった」

思わず武雄の口から言葉がこぼれた。どら焼きの箱を膝に抱えたまま、ひたすら頭を垂れた。

「土地の名義は、そのままにしとき」

武雄は顔を上げた。

「あれはお父ちゃんが、あんたに、北原武雄に残したもんや」

姉はそう言うと、バッグを持って立ち上がり、武雄の顔を数秒じっと見つめると、部屋を出て行った。

 

水やりが途中になっていた花壇に戻ると、庭のベンチにモドリを抱いたサユリと花楓ママが座っていた。高齢のモドリは、すっかり体重が減り、一日のほとんどを寝て過ごすようになっていた。最近では半分ほどの齢のベガと過ごすことが煩わしいらしく、サユリとサリーが出勤中は、武雄の部屋のベッドで過ごし、休日になるとこうしてサユリに抱かれ、庭で外の匂いに触れる。

サユリの膝の上で眠るモドリの背を、花楓ママが撫でてやっている。きっと花楓ママは今、猫を抱いた妹と会っているのだろう。年老いた母も、こんな風にして時々、息子と会っていたのだろうか。

「散歩、行くわお」

油断すると涙ぐみそうになる武雄の後ろに、いつの間にかサユリが立っていた。

「花楓ママが川まで散歩に行こうって」

「あら、めずらしい」

気取られないように両の手で目を擦ると、武雄は立ち上がった。

 最近では、杖をついて一歩一歩進む花楓ママの歩調に合わせ、武雄はその後ろをサユリと共に歩く。

 堤防の下に鈍く煌めく境川の水面が揺れている。潮の香りに反応したのか、サユリの胸でまどろんでいたモドリが鼻先を左右に揺らした。そして唐突に顎を上げ、かすれた声で小さく鳴いた。

「気持ちいいわねえ」

サユリが頭を撫でると、モドリは満足そうに目を細めた。

 花楓ママは、両手で杖に体重を預け、川の遠くをじっと見た。そして唐突に武雄を振り返った。

「花楓ママ?」

武雄は思わず言った。

最近では武雄のことを介護士と思い込んでいる花楓ママだったが、その目は確かに若い頃に武雄を助けてくれた花楓ママのそれだったのだ。

しかし、それは武雄の思い違いだったようだ。花楓ママは、武雄の呼びかけに不思議そうな顔をすると、再び川面に視線を移した。

「今日は遠くに来たのねえ」

「ぜんぜん遠くないわお」

サユリが笑っても、花楓ママは川を見つめたまま「本当に遠くまで来たわねえ」と目を細めた。


 

月日は花楓ママの心から、もはや何も奪うことは出来ないが、その身体からは確実に自由を奪っていった。

花楓ママに、真っ直ぐな時間の流れは、もう存在しない。いつでもお兄ちゃんになって妹と会い、時にはクソ親父を罵倒し、時には古い友達に会い、そしてたまに花楓ママとしてメゾン・ド・ハナに帰って来た。まだら模様になった時の中で、人は初めて自由に暮らしていけるのかもしれない。

 そして、その時はやってきた。朝、武雄が花楓ママの様子を見に行くと、部屋中から異臭がする。床を見ると転々と茶色いものが乾いてこびりつき、それは花楓ママの布団の前まで続いていた。

なかなか取れない大便の後を必死で拭く武雄を見て、花楓ママは「猫がやったのかしら」と笑った。

武雄はアルツハイマーを発症した当初、花楓ママから渡された手紙のことを思い出していた。自分で排泄の処理が出来なくなったら施設を探して欲しい。遠慮なんかいらない。あの時、花楓ママはそう書いた。しかし、その時が来たからといって、それをすぐに決断できる程、花楓ママは武雄にとって他人ではなかった。こんな時どうすれば良いのだろうか。こうした方が良いと、はっきりと教えてくれる人がいたら、どんなに気が楽だろうか。しかし、そんなことを言ってみても仕方がない。生きている人間は皆、老いることが初めてなのだから。だとしたら花楓ママが花楓ママだった頃の希望に従うしかない。

武雄はイズミの協力を仰ぎ、花楓ママが最後を暮らす介護施設を探し始めた。


しばらくして花楓ママを受け入れてくれる特別養護老人ホームが見つかった。もっと時間がかかるだろうと思っていたのに、どういうわけかすんなり決まってしまった。

花楓ママは、すぐに施設の生活に馴染んだが、もう歩くことは困難になり、車椅子で過ごすようになった。武雄たちが見舞いに行っても何の反応も見せなくなった。もう、お兄ちゃんになることもなく、花楓ママに戻ることもなかった。看護師によれば、ただぼんやりとしている時間の方が長くなったそうだ。

数か月程した頃、医師から連絡があった。最近では食事の量が減り、もはや経口食だけで必要な栄養を摂取するのは難しいため、胃ろうをつけるかどうかという問い合わせだった。武雄は思い出した。サユリが入院中につけていたものだ。腹に穴を開けて管を通し、そこから直接流動食を流し込むのだ。あの時のサユリのように、それをすれば元に戻る可能性があるなら迷っただろう。しかし、武雄は花楓ママの手紙に従って即座にそれを断った。

それから二週間ほどすると、花楓ママは一切の物を口にしなくなった。個室に移され、花楓ママは生きた即身仏のように痩せさらばえ、半分閉じた目を空に向けたまま大きく口を開け、時々苦しげに胸を上下させた。これが花楓ママの望んだことなのか、これで良いのか。何の延命措置もせず、辛そうに喘ぐ花楓ママの姿を見ていたら、武雄は分からなくなってしまった。

「頑張っている姿を見ていると、これで良いのか分からなくなるんです」

武雄の訴えに老生した医師は少し困ったように首を振った。

「違うんですよ。頑張ってるんじゃない。彼女の意識レベルは、もうほとんど眠っている状態です。ただ、死ぬ準備をしているだけなんです」

そして花楓ママは幸せだと思うとも言った。食べないということは死を前にした人間の自然の摂理なのに、こういう施設には本人の意思確認も出来ないまま胃ろうをつけられ、そして望む望まないに関わらず毎日、一定の栄養を補給され続け、生きたまま眠り続ける老人がたくさんいるのだと。

 一週間後、花楓ママは息をするのをやめた。

多臓器不全。

医師によれば、老衰である。

さらにその十日後、モドリが逝った。重度の腎不全を患ったモドリも、死ぬ一週間前からぴたりと食べることをやめた。窓の傍から動かず、時々首をあげては虚ろな目を天に向けた。花楓ママの医師が言ったように、モドリも死ぬ準備をしていた。モドリは早朝、全身を激しく痙攣させた後、魂が抜けた。モドリは人間のように自分の最後について何かを言い残すことはできなかったが、彼女は声を上げることもなく本当に粛々と死んでいった。

武雄は思う。死はやはり苦しいものなのだろうか。信じられない数の人たちが死んできたというのに、やはりそれはその瞬間まで本人にしか分からない絶対の孤独なのだ。

泣き腫らしたサユリが彼女たちの亡骸に掛けた言葉は同じだった。

「お疲れ様」



今日のメゾン・ド・ハナは朝から騒々しい。住人たちは、この日のために新調した衣装に身を包み、皺だらけの顔に念入りなメイクが塗りたくられている。

「ちょっと~、タケコ、私の髪飾りどこよ。ほあ、あの金色の花がついたやつ」

サユリが武雄の部屋に飛び込んできた。美しい濃紺地に白の総絞り染めを施した着物姿だ。完璧に結い上げられたカツラは、残念ながら少し大きいらしく、サユリの額半分まで隠してしまっている。武雄はぐっと笑いを堪えた。ただでさえ早朝から何度も武雄の部屋を訪れ、着付けの出来はどうだ、メイクは上手くいっているかと尋ねてくるので、うんざりしていた。今さら気分を害されたら面倒だ。

「あんなもん、とっくに捨てたわよ」

「なんで人のもん勝手に捨てうのよ!」

「あんたが洗濯物と一緒にして丸めておくから、カビが生えてたのよ!あんなもん使い物にならないわよ」

武雄は思わず苛立った声を上げた。年老いた瞼に施すには一番難しいアイラインも集中して引けない。

「ああ、もういいわ!サリーに借いてくう!」

武雄に着物やカツラを借りる手配をしてもらったことも忘れ、サユリは怒って部屋を出ていった。

「ふん、あんたが主役じゃないし・・・」

武雄はヨレヨレの瞼を持ち上げ、慎重にラインを引きながら毒づいた。

そう、今日の主役はなんと言っても武雄だ。なんと今日、このメゾン・ド・ハナにテレビの取材がやってくるのだ。あるトーク番組のゲストとして出演した柏木君が、売れない時代を過ごしたこのアパートのことを語ったのがきっかけだった。現代の老人施設問題を扱うドキュメンタリー番組の一部として、このメゾン・ド・ハナを取材したいという申し入れがあったのである。武雄は、人との出会いを本当に不思議なものだと感じずにはいられなかった。ただの貧乏で、それでも飛びぬけてハンサムだった彼が、このアパートにやって来た日のことが、しみじみと思い出された。

武雄は久々に早起きをして美しく巻き上げた髪と、一週間前からパックを欠かさなかった肌の輝きに思わず笑みを浮かべた。一時間かけてメイクを終えると、身体にぴったりと張り付くサックスブルーのニットワンピースに袖を通した。その昔、柏木君が似合うと褒めてくれた色だ。銀座のデパートまで足を運び、ミッチーに選んでもらった。

武雄は鏡に全身を映し、微笑んだ。わたし、まだイケてるじゃないの。やっぱりお洒落は女にとって何よりの栄養剤だ。

「タケコ姉さん、テレビ局の人が来たよ!」

今度はミッチーが部屋に飛び込んできた。横には珍しく緊張した面持ちのカリスマが並んでいる。メゾン・ド・ハナを語るには、なくてはならない存在だ。ミッチーに頼み、人前に出るのは苦手だというカリスマを説得してもらった。

どんな派手な衣装を用意しているのだろうかと思っていたら、ミッチーは意外にも黒いタイトスカートにシルクのブラウスというシックな装いだ。それがかえって女っぽく、背の高いスーツ姿のカリスマと並ぶと、中々お似合いのカップルだ。

 窓を開けると初夏を思わせる濃い青空が目を射した。武雄はミッチーと一緒に外に出た。ちょうどその時、サリーの部屋の扉が開いた。

「きゃあ!」

ミッチーが思わず飛びのいた。サリーは、一体どこで買ったのか、黒地に銀のラメが眩しいロングドレスに身を包み、ベガを抱いている。

「魔女・・・」

「さあ、行くわよ」

サリーは本当に魔女のように微笑むと階段を降りて行った。

庭にワゴンが止まり、ロケの準備が始まっていた。サリーが通る度に若いスタッフ達は逃げるように道をあけた。

テレビでしか見たことのない撮影機材が次々と運び出されていく。どこで聞きつけたのか、既にアパートの周りには人だかりが出来ていた。

そんな騒ぎをよそに、田島先生は庭の隅に設置した簡易テーブルの上にサンドイッチやら巻き寿司などの軽食をせっせと並べている。その横では応援に来たイズミがドリンクの準備をし、食べられそうなものを物色しているサユリに目を光らせている。

オーダーメードまでしたというピンクの花柄ワンピースが田島先生の青髭と眼鏡に似合っているかどうかは別として、本当にイイ女だと武雄は感心してしまう

「タケコさん、ミッチーさん!」

車から降りてきた柏木君が手を振ってこちらに走ってきた。野次馬から、どよめきが起きる。久々に会う彼は、ますますカッコよくなっていた。武雄は惚れ惚れとその顔を見た。

「なんだか緊張してきちゃったわ。インタビューなんて上手く答えられるかしら」

「タケコさんなら大丈夫ですよ。今日は皆さん、素敵ですね」

「もう、相変わらずなんだから~」

ミッチーが嬉しそうに身体をくねらせる。

「いや、本当ですよ」

柏木君は、きらりと白い歯を見せた。さすが“スマイル・キラー”の異名を持つ柏木智久だ。女なら誰だって思わず頬が上気する。

「いい天気だな」

小柄な男性が柏木君の後ろから顔を覗かせた。

「おはようございます」

柏木君は慌てて頭を下げると、武雄とミッチーにその男性を紹介した。

「こちらプロデューサーの山田さんです。ヒット番組をたくさん手掛ける敏腕なんですよ」

敏腕プロデューサーは、肩からセーターも掛けていなければ、裸足で革靴を履いてもいない。ボサボサの白髪頭に傷だらけの分厚い眼鏡をかけた、どこにでもいる気の良さそうなオジさんだ。

山田さんは愛想よく笑うと武雄に握手を求めた。

「いい()が撮れそうですよ」

山田さんはメゾン・ド・ハナを見上げて目を細めた。

「どうぞ。良かったら召し上がっていってください」

庭を歩き回っていた田島先生が大きな皿を山田さんに差し出した。

「いやあ、ありがたい。ちょうど腹が減ってたんだ・・・」

山田さんはサンドイッチを一つ手に取り、豪快に口に放り込んだかと思うと、突然口を開けたまま動かなくなった。

「何か?」

変な味でもしたのだろうかと田島先生が不安そうに尋ねる。

「ター坊・・・」

山田さんはパンを飲み込むことも忘れている。やがて、田島先生の小さな目も、驚きに見開いた。

「ヤっくん?」

「え、なに、知り合い?」

ミッチーが二人を交互に見比べる。

「こ、高校の同級生で・・・」

田島先生はそう答えたきり、茫然としたまま、いつまでも山田さんの顔を見つめている。

「へえ、そうなの。すごい偶然じゃん」

ミッチーが驚いてみせるも、二人は立ち尽くしたままだ。

「ここに、住んでるのか」

やっと口を開いたのは山田さんの方だ。田島先生は、声も出さずにただ頷くだけだ。その目には、なぜか薄らと涙が滲んでいる。

「そうか、そうなのか・・・」

山田さんは独り言のように繰り返し、どこか無理矢理に自分を納得させるかのように一つ頷き、「さあ!」と一つ手を叩いた。

「撮影、始めようか」

柏木君の肩を叩き、スタッフの集まる場所に歩いていってしまった。残された田島先生も指でさっと涙を拭い、その場を離れていった。

「なに、あの二人・・・」

ミッチーは不思議そうに首を傾げたかと思うと、「あっ」と声を上げた。

「何よ」

「あれかな、ほら、花楓ママの予言」

「まさか・・・60代半ばに出会いがあるっていうやつ?」

武雄は、なぜか急にしっとりと艶めいて見える田島先生の後ろ姿に視線を向けた。

ミッチーは自分で言い出しておきながら、ぷっと噴出して言った。

「だよねえ」

 

撮影は、なんとか無事に終わった。なんとか、というのも、マイクを向けられた武雄が、アパートを始めようと思ったきっかけや、その経緯を話そうとすると、なぜかその原因となった超本人のサユリが喋りまくる。そうかと思うとアイディアを思いついたのは私だ、とミッチーが横から割り込んでくる。あれだけ派手に着飾ったサリーは、意外にもあがり症らしく、いざ話を振られると、ベガを膝においたまま固まっている。柏木君がアパートを案内するVTRが入らなかったら、世間には、ただの化け物屋敷にしか見えなかったろう。

「編集が終わったら、すぐに郵送しますからね」

武雄は、ほっと安堵の溜息をついた。

撮影を終えた山田さんが住人たちに丁寧に頭を下げている。

ふと田島先生を見ると、今まで見たこともないような、切ない視線を山田さんに向けている。

二人に何があったかは分からない。でも、田島先生が今よりも幸せになりますように。武雄は心からそう願った。

せっかくめかし込んだのだから、柏木君が皆で写真を撮ろうと提案した。

「賛成!」

ミッチーがいち早く前に出た。

「俺が撮ってやっから、ほら、みんな並べ」

見学に来ていた堺さんが、慣れた手付きでデジカメを操作する。ジイさんだが、メカには強い。

武雄とサユリを真ん中に据え、ミッチーとカリスマ、田島先生、サリー、そして柏木君とイズミが並んだ。

「ちょっとお、なんであんたまで入うの?女房面して厚かましい」

サユリがイズミに文句をつけると、イズミはふっと笑った。

「何が可笑しいのよ」

「女房面じゃありません」

そう言うと、イズミは左手の甲をサユリの顔の前に突き出した。

「何、こえ!」

サユリはイズミの手首を掴むと、その薬指にはめられたものをマジマジと見つめた。イズミの細く長い指の根本には、どこまでも透明な石が輝きを放っていた。

「マスコミには明日発表の予定なんですが、皆さんには先に知らせておきたくて」

イズミの代わりに柏木君が説明した。

「あと、来年の今頃には、ここに新しい家族を連れて来られるかと・・・」

柏木君は照れ臭そうに付け加えた。

「ええ!」

皆から驚きの声が上がる。

「明日のトップニュースだよ!柏木智久がデキ婚」

大きな声で言うミッチーに向かってカリスマが唇の前で人差し指を立てる。

「授かり婚です!」

「ふしだらな女だわ!」

サユリが声を上げる。

「サユリさんに言われたくないです」

イズミは負けじと言い返す。イズミは何だかますます強くなったようだ。

「良かったわね。おめでとう」

田島先生がイズミの手をとった。

「ありがとうございます」

イズミは憎らしいほど幸福で誇らしげな笑みを浮かべた。

 武雄は想像した。これからイズミの中にいる子が産まれ、歩き始め、話し出し、ランドセルを背負い、制服を着て、成人式の晴れ着を着て、結婚して・・・。自分は、サユリは、田島先生は、サリーは、どこまで見届けることが出来るだろうか。

「ほら、タケコ、どこ見てんだ」

堺さんに言われて武雄はカメラに向き直ると、微笑みを浮かべた。残された時間は、もう短い。それでも大切な誰かの未来が近くに

あるということは、やはり有難いことだ。



CAN(キャ) YOU(ニュ) CELEBRATE(セレブレ~)」

番宣だけでついウキウキして口ずさんでしまう。やっぱり小室ファミリーは最高だ。今夜放送予定の『懐かしのメロディーたち』だ。今晩はちょっと豪華な弁当でも買ってきて、じっくりテレビを楽しむことにしよう。朝のコーヒーを飲みながら気の早いことを考える。

 休日の朝は、朝食をとった後こうしてゆっくりコーヒーを楽しみながらテレビを眺め、疲れたらうたた寝をする。それにも飽きたら庭へ出て、皆とお喋りをしにいくのだ。

ニュースでも見ようとチャンネルを変えていると、好きな男性アナウンサーが出ている。しかし、その心地良い声が伝えているのは、あまり明るいニュースではないようだ。

日本人口の2人に一人が65歳以上、四人に一人が80歳以上になったそうである。


「昨今、一人暮らしの高齢者の数は、過去に類を見ないほど増大しています。佐藤先生、一体なぜ、これほどまでに一人暮らしの高齢者が増えたのでしょうか」

近頃もてはやされている若手の社会学者・佐藤先生がテーブルの上にフリップを立てて答える。

「このグラフを見てください。今の高齢者世代が若かった頃は、長い間景気が低迷していました。そのため収入が低い人や、非正規雇用の社員として働く人が多く、安心して結婚や子育てを出来ない環境だったんですね。初婚年齢が遅い人が増えたのも一因です。やっと結婚を意識する頃には、いつの間にか親の介護をしなければならない歳になっていて、婚期を逃す人が増大したんです。それから当時、問題になっていたいわゆる “引きこもり”の高齢化ですよね。これは、仕事や交友関係を持たずに家に閉じこもる人たちのことを現す言葉ですが、その親が亡くなる頃には、彼らはとっくに結婚適齢期を過ぎていて、生涯独身のままにならざるを得なかった、というわけです」

「独居高齢者の貧困率が上昇し続けているというのも気になりますよね」

「ええ。今お話してきたような方たちは、当然、年金の受給額が極端に低いですからね。しかも生涯未婚率は高く、子供に面倒を見てもらうという選択肢もありません。

またコロナ世代と呼ばれる中年層は、人との接触を極端に恐れる傾向にあり、今後、日本の未婚率は、どんどん上がっていくでしょう。日本は、ただひたすら独居高齢者が増え続けるのです。もはや旧態依然とした年金制度や生活保護システムは、パンク寸前です」

「政府は打開策として、かなり思い切った増税を訴えているわけですが」

「それも一つの考えではありますがね、昭和二十五年には一人の高齢者を支える現役世代は12.1人もいましたが、今や高齢者一人に対して0.7人の現役世代です。一方で、男性の平均寿命は85.32歳、女性は92.51歳にまでなりました。しかし、こんな状態で長生きは本当に喜ばしいなんて言えますかね?はっきり言って限界ですよ。僕はね、もっと大胆なパラダイム転換を・・・」


チャンネルを変えた。難しいことは分からないし、暗い話題は嫌いだ。とは言え、やはり考えてしまう。一体これから自分はどうやって生きていくのだろう。

「信じらんない。私65歳だよ~」

ミッチーはテレビの横に置いた写真立てを手にとった。十五年前、皆で揃って庭で撮影したものだ。皆、目いっぱいお洒落をして笑っている。写真の中の彼女たちは、今にも喋り出しそうだが、もうこの世の人ではない。

 ミッチーは思う。サユリママの癌が見つかって、タケコ姉さんがこのアパートの管理人になったのは、自分と同じ歳の時だったのだ。考えてみれば、すごい事だと思う。

撮影の翌年、サユリママは癌が再発して亡くなった。「私は奇跡の人間だから、百三十歳まで生きうのよ」と豪語していたけど、人生二回目のオリンピックを見届けることは出来なかった。でも、柏木君とイズミの間に生まれた世にもかわいい赤ちゃんを抱くことは出来た。赤福の餡を舐める時よりも、サユリママは嬉しそうな顔をしていた。

あんなに面倒ばかりかけたのに、とうとう最後までサユリママの口からタケコ姉さんへ「ありがとう」の言葉は出てこなかった。タケコ姉さんは、サユリママの死に顔を見て何を思ったのだろう。

何はともあれ、もう皆はいない。ミッチーは、タケコ姉さんとの約束通り管理人として、お出かけタクシーの運転手として、このアパートに暮らすようになった。

ミッチーは写真の中のカリスマの頬を指でそっと撫でた。一緒に撮った写真はたくさんあるが、みんなと一緒に笑うこの顔がやっぱり一番好きだ。しかし、ミッチーは毎日のように考えずにはいられなかった。一体、彼は幸せだっただろうか。でも、勝手な言い分かもしれないが、確かなことは、少なくとも自分にとって、彼と会えたことは人生最大の幸運だったと思う。

窓を開け、春の暖かな空気を吸い込んだ。庭では年老いた住人たちが今日も嬌声を上げている。

ここは、余命幾ばくもないオカマと幽霊が住むアパートである。ハナさんは相変わらずおせっかいだし、時々、置いておいたパンがなくなっているのは地縛霊サユリママの仕業だろう。タケコ姉さんは真面目な人だったから、真面目に死んでいるのだろう。

そしてここは最近、今やベテラン俳優となった柏木智久が売れない時代を過ごした伝説のアパートとしても有名になっている。柏木君の暮らしていた部屋には、売れない役者やミュージシャンがこぞって住みたがった。不思議な話だが、売れるのである。旧柏木邸に住んだものは皆、名を成してここを去っていくのだ。

ミッチーは、あの頃と変わらない美しい庭の花と住人たちを眺めながら、思わずにはいられない。あとどのくらい自分は彼らと馬鹿な話をして、美味しいものを食べて、お洒落をして、行きたい場所に出掛けることができるのだろうか。時々たまらなく怖くなる時がある。タケコ姉さんも自分と同じように思った日々があったのだろうか。今となっては聞いてみることもできない。

自分に残されたものといったら、安い年金と、見えない未来と、衰えていく身体だけだ。それでも、どうにかやっていくしかない。絶望を遠巻きに、冗談めかして眺めながら、皆でなんとか笑いながら生きていくしかないのだ。

ミッチーはふと思いついて、押入れの中から小さなダンボール箱を取り出した。湿気臭い原稿用紙の束を手に取る。サユリママが、その半生を描くのだと豪語して残した小説だ。といっても、彼女が真面目に書いたのは最初の二十枚だけだ。しかし、タケコ姉さんは、サユリママの死後、この永遠に未完の小説を何度も読み返していた。

ミッチーは、薄茶色になった原稿用紙に視線を落とした。その書き出しは、こうである。


「私は、坂の多い町で生まれた。町の底を縫うように、一本の川がどこまでも流れていた。

ここは、その町からは遥か遠い場所にあるが、やっぱり、ここにも川がある。

私は今、その川の煌めきをメゾン・ド・ハナの窓から眺めている。」 











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