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前編


「♪君だけに!」

ジュリーがその人差し指を立て、甘い歌声で観客に呼びかけると、女たちの痺れる歓声が上がった。テレビ画面の中というのに、こちらも思わず身体が動いてしまう。

年に一度、楽しみにしている歌番組『懐かしのメロディーたち』。毎回、出勤前の放送なのが恨めしい。

今回のトップバッターは、なんと大好きなタイガーズだ。ボーカル、ジュリーの類まれなる美しい顔が画面いっぱいに映し出されている。録画予約しているというのに我慢できず、チャンネルを合わせてしまった。やっぱりジュリーは、医者に勧められたウォーキングなんかより、絶対に身体に良いと思う。

 北原武雄は、今日、六十五歳になった。いよいよ国民年金が支給される。少ないとはいえ、やはり有難い。築二十年になる2DKの賃貸マンションで一人暮らし。伴侶なし、子供なし、たぶん孤独死の予定だ。

とはいえ、そんな人間は日本中見渡せば、いくらだっている。さほど珍しいことでも、嘆くことでもない。しかし、一つだけ珍しいことがあるといえば、ある。

武雄はオカマだ。大昔だとゲイボーイ、ちょっと時代が進むと、ニューハーフとかミスターレディーとかいう言葉も流行った。最近だとオネエだとか、はたまたトランスジェンダーなんていう難しい呼び名も出てきているが、武雄は自分をオカマと呼んでいる。若い時からそう言っていたから、それが一番しっくりくる。ただそれだけの理由だ。馬鹿にされれば腹は立つが、幸い自分の周りにいる人間は、親しみを込めて自分をそう呼んでくれている。

ジュリーの出番が終わってしまうと、武雄は卓袱台の上に置いた鏡に向かった。

魅惑的だった切れ長の目は皮がたるみ、密かに自負していた奥二重も、今は存在すら疑わしい。シャープで面長な顎の輪郭も、ぼんやりとしてきた。あんなに色白だった肌のあちこちにはシミが浮き、全体的にくすんでも見える。

仕方ない。あのジュリーさえも歳をとるのだ。武雄は自分に言い聞かせ勇気づけるように、老いた唇にそっと紅をのせた。



「私さあ、癌なんだって」

白地に銀糸の入った和服に身を包んだサユリが、でっぷりした腹の上に、店の看板猫モドリをのせ、呟くように言った。

サユリは、ここ“オカマバー・サユリちゃん”のママであり四十年近くになる腐れ縁が繋ぐ武雄の相棒でもある。

馬鹿話をしながら客を待っていたみんなの動きが一瞬、止まった。

「嘘でしょ!」

声を上げたのは、この店で一番若い、といっても四十歳のミッチーだ。

「本当・・・」

サユリは、煙草の煙を深く吐き出すと、視線を落とした。よっぽど動揺していたのだろう、よく見れば、右目だけしか付け睫毛がついていない。

「癌て・・・なに癌よ」

「中咽頭癌」

「チュウイントウ?何よ、それ」

「だから・・・」

サユリが口を大きくあけてミッチーに見せる。

「この、ほら、のどちんこの奥の方に、あるんだって。癌が。咽頭っていうのは喉のこと。真ん中の方だから中咽頭」

ミッチーは良い香りのする長い髪をかきあげ、サユリの口の中をまじまじと見つめる。

「ふうん。よくわかんないけど」

小首を傾げるミッチーの表情は何とも魅力的だ。特別美人というわけではないが、ゲテモノ揃いの店では貴重な存在だ。年寄り連中が何となく尻込みしてきた身体の改造も完全に終えていて、素晴らしいプロポーションだ。

「それにしても、このご時世、コロナなら分かるけど、癌ってさあ」

ミッチーが溜息を吐く。

ミッチーとサユリのやり取りを、田島先生が眼鏡の奥の目を細め、心配そうに見ている。

田島先生は、十数年前の台風の日、突然、この店で働かせて欲しいと訪ねてきた。彼女が濡れそぼったオカッパ頭を手でかきあげた時、武雄は思わず叫び声を上げたものだ。白のワンピースに不釣り合いな青髭の目立つ顔は貧相に痩せこけ、セロハンテープで繋いだ眼鏡を崩壊させまいと、必死に指で押さえていた。鬼気迫る形相で頭を下げるその人は、田島さんと名乗った。

少し考えようという武雄の意見も聞かず、サユリは、顔が面白いというだけの理由で田島さんを雇い入れてしまった。しかし武雄の心配は杞憂に終わった。田島さんは不思議な人だった。老若男女問わず誰からも慕われ、客は何故か彼女に悩み事を吐露していくのだ。 

慈悲深き人生の指南役・田島さんは、いつの間にか皆から田島先生と呼ばれるようになり、この店に、なくてはならない存在になった。 

「で、どうなのよ」

田島先生が、ミッチーとは正反対の落ち着いた声で尋ねた。       

「どうって?」

サユリが田島先生に虚ろな目を向ける。

「進行具合」

「ステージ4」

「ええ!やばくない?」

ミッチーがスマートフォンの画面を見て甲高い声を上げた。

皆がミッチーのもとに群がる。彼女の手の中の液晶画面を覗き込むと、癌の進行度合いを示した表が映し出されている。ステージ1~4までがあり、その数値が高いほど癌が進行しているそうだ。  

書かれている文章を田島先生が読み上げた。

「六十歳~六十五歳が好発年齢で、圧倒的に・・・男性に多い」

「余計なお世話よ」

サユリは口を尖らせるが、田島先生は続ける。

「また、過度の喫煙や飲酒が要因になると考えられており・・・」

ミッチーがすぐさま立ち上がり、サユリの口から煙草を奪い取ると、灰皿の上で揉み消した。

「何すんのよ!」

「死にたいの?」

「死にたくないわよ!」

サユリが顔を覆った。

「やだあ、ママ、泣かないで。ちょっと短い人生だったけどさあ」

ミッチーがサユリの背中をさすって涙ぐむ。

「そうよ、オカマの中でも、けっこう濃い人生だったと思うわよ」

田島先生が頷く。

「何よ、あんたたち!まだ医者にも死ぬって言われてないし!」

サユリがミッチーの手を払いのける。

「とにかく、来月この店、たたむことにしたから」

「え!困るよ」

涙ぐんでいたミッチーが目を見開いた。

「入院て、どのくらいなのよ」

田島先生が聞くと、サユリは小さな声で答えた。

「四か月くらい」

「それくらいなら私たちで何とかなるんじゃない?」

サユリは首を横に振った。

「私の癌、喉だけじゃなくて、舌にも広がってるんだって。だから癌と一緒に舌も半分切除しなきゃならないの。そうしたら、お客さんと上手に話をすることも、好きなものを食べることもできなくなるんだって」

武雄は言葉が出なかった。若い頃は何度殺してやろうかと思ったサユリの憎たらしい口から舌がなくなる?武雄は現実を受け入れることができなかった。

「それに、コロナのせいで、私たちのような店は針のむしろよ」

サユリの言葉に、皆、押し黙る。

暮れから中国で発覚した新型コロナ・ウィルスは、あれよあれよという間に世界中に広がり、その正体も分からないまま、すっかり人々の生活を変えてしまった。禁じられるようになった濃厚接触なるものを売りにする自分たちのような商売は、今や目の敵になりつつある。

「コロナって何なのよ。憎たらしい」

ミッチーが鼻を鳴らしながら吐き捨てる様に言った。

「ほんと、私もそう思う。でも、私も歳よ。コロナ以前から客も減ってる。昔馴染みで来てくれるお客さんは死にかけのジイさんばっかり。このまま行けば黙っていても潰れるわ。だからさ、こうして元気に話せるうちに笑って最後まで営業したいのよ。みんなの働き口は、できるだけ当たってみるから。本当にごめんね」

ミッチーが頼りなげに聞いた。

「手術したら死なないの?」

「死なないわよ」

サユリは笑ったが、武雄に向き直ると言った。

「この子のこと、頼める?」

サユリの膝の上で、モドリが一鳴きして武雄の顔を見た。

ふと、手のひらに乗るくらい小さかった彼女の姿を思い出した。雨の降る日、店の前で鳴いていた子猫。サユリと二人で里親を見つけたものの、何度も脱走してこの店に戻って来るので、モドリと名付け、結局、店で引き取ることになった。奇天烈な人間ばかりの店に可愛らしい花を添えてくれたモドリ。

彼女も、そろそろ、おばあちゃんだ。自分たちと同じように。



サユリが武雄と共に、ここ千葉県浦安市に小さな店を開いたのは、二人が三十五歳の時、つまり三十年前のことである。オカマバー・サユリちゃんという店名は、サユリが似ても似つかない憧れの石川さゆりの名前を頂戴して命名したものだ。

小さな側道の端に、ケバケバしい電飾と、破れたビニール製の庇を掲げるオカマバー・サユリちゃんの店の周りには、同じように築ウン十年のスナックやホストクラブ、崩壊寸前のアパートなどが肩を寄せるように立ち並んでいる。今でこそ、あちこちにお洒落なマンションが建つようになったが、この辺りには、いまだ錆びれた漁師町の匂いが残ったままで、朝方になると、高架の向こうを流れる境川から、潮の香りが漂ってくる。

 武雄は、今夜もほとんど客の入らなかった店内に一人残り、ワインレッドの絨毯に掃除機をかけ、ベルベッド地のソファ一つ一つに丁寧にブラッシングをして回った。こうして長年大切にしてきたおかげで、古びてはいるが、絨毯もソファも、年月とともに深い艶を増している。

掃除が終わると、シャンデリアが煌めくバーカウンターの前に腰かけ、熱いコーヒーを飲んだ。

サユリは、一体どうなるのだろうか。店も自分たちも歳をとり、いつかはこんな日が来ることは分かっていた。しかし、大切な毎日を失う日が、今日なのだとは、誰しも思わないものだ。

 店終いまで一か月。三十年分の出来事や思いやらを清算するには短すぎる時間だが、後のことを考えずに走り抜けるのには、ちょうどよい時間なのかもしれない。これから嫌と言うほど考えさせられるのだ。六十五歳のオカマに残された、そう長くはないが、決して短いとも言えない時間について。



オカマバー・サユリちゃんの幕引きは、意外にも盛大なものになった。コロナ・ウィルスの感染拡大に躍起になっている人々に見つかったら袋叩きになりそうなほどの賑わいだ。開店当時からの得意客や、近くの飲食店の人間が花束や酒を持って押しかけ、店中にある酒を呑みつくしていった。 

最年長の得意客・八十二歳の堺さんは、馬鹿でかいドンペリを、なんと三本も持って店に現れた。後ろには仕事のひけた若いキャバクラ嬢たちを引き連れている。

若い頃漁師だった境さんは、今では年寄りしか使わない浦安弁で話す。

「おめぇら、今日は死ぬまで飲んで食っていったらいいべ。ミッチー、ほら、寿司も注文しろ」

堺さんの口癖は「宵越しの金は持たねぇ」。

その昔、漁で稼いだ金は、その日のうちに飲み屋や寄席、はたまたストリップ劇場で散在してしまったという。さぞかし家族は大変だったろう。

堺さんがまだ若かった頃、浦安は、公害の影響で盛んだった漁業に壊滅的なダメージを受けたそうだ。しかし、堺さんは運が良かった。世界的なレジャー施設の誘致が決まり、一坪五百円という先祖代々の土地が数百倍にも跳ね上がった。おかげで今では、地元有数の地主となり、不動産王の堺の異名までとる。

「ジイさん、糖尿持ちのくせして、そろそろ宵越しの金くらい持った方がいいわよ」

サユリが呆れて笑う。

「うるせえ。俺は糖尿もってる代わりに、腐るほど土地も持ってんだよ。しみったれたこと言うな」

堺さんはビールを煽り、女の子の尻を撫でた。禿げ上がった額をぶたれても喜んでいる。

「うわあ!マジかよ。このシャツいくらすると思ってんだよお」

店内に若い男の悲鳴が響いた。ミッチーお気に入りのイケ面バーテンダーだ。何度聞いても電話番号を教えてくれない腹いせに、なんとミッチーは、彼の背中に口紅で自分の電話番号を書きつけたのだ。完全に酔っ払っているミッチーは、ケタケタと笑いながら彼の頬に熱いキスをした。半泣きのバーテンダーは、なんとか彼女の力強い抱擁から逃れると、堺さんとキャバクラ嬢のいるテーブルに混じり、ヤケクソ気味にドンペリの壜を口に入れた。ジイさんの相手に飽きていたキャバクラ嬢たちから歓声が上がった。

 武雄はカウンターの中で忙しく飲み物やつまみを用意しながら、みんなの馬鹿騒ぎを見ていた。今日のサユリは酒も飲まないし、煙草も吸わない。しかし、みんなが笑って、サユリが笑っている。くやしいが、武雄はそれが心から嬉しかった。

武雄は、ふと壁際のテーブルに目を向けた。田島先生が何度も相槌を打ちながら若い客の話を聴いてやっている。きっと悩みでもあるのだろう。ここがなくなったら、案外困る人も多いのかもしれない。

 夜が明けかけていた。道路の向こう側でカラスたちがゴミをつついている。一人、二人と客が帰っていく。店の前で男たちにハグをするオカマに、時折通りかかる人々が、ぎょっとして足早に去っていく。

最後に店を出たのは堺さんだ。堺さんは、サユリの分厚い背中を力強くパン、パンと二度叩くと、黙ってタクシーに乗り込んでいった。堺さん流のエールなのだろう。

散らかった店内を田島先生が黙々と片付けている。ミッチーは鼾をかいてソファで寝入ってしまっていた。武雄は、ミッチーの開いた股の上に毛布をかけてやると、田島先生を手伝った。こんな騒ぎはいつ以来だろうか。店も人間も老いていきながら、しっかりと地元で愛されていたことが武雄は嬉しかった。

 また翌日からオープン出来そうなくらい店内が清められた頃、ミッチーが目を覚ました。何を考えているのか、彼女はソファから起き上がるや、冷蔵庫から缶ビールを取り出してきた。

「あんた癌になるわよ」

「わたしはまだ若いもんねえ」

勢いよく喉を鳴らしているミッチーに呆れた視線を送りながら、田島先生がサユリの前に熱々の湯呑を置いた。

「ああ、田島先生のお茶が一番おいしい。田島先生って、ほんと癒し系よねぇ。ミッチー、あんたなんか次の店もすぐ追い出されるわよ」

そう毒づくサユリだが、この一か月というもの、あらゆる伝手を使って彼女の再就職口を探してやっていた。おかげでミッチーは小さなショーパブに就職が決まった。コロナ渦と言われる時世、閉店を余儀なくされる店が多い中、若い子達が頑張っている店だ。

田島先生は、居ぬきの良い物件が見つかったとかで、思い切って長年の夢だった喫茶店を始めることにしたそうだ。

働く場所を見つけることが出来なかったのは、六十五歳の武雄だけだ。

「これ、取っておきなさい」

サユリはゲップをするミッチーの前に封筒を差し出した。ミッチーは不思議そうな顔でサユリを見た。

「退職金。急なことだったからさ。気持ちだけ」

「不治の病の人から、こんなもん受け取れないよ」

「だから治るわよ」

サユリはミッチーに封筒を押し付けた。

「ほら、あんた達も」

武雄と田島先生にも封筒を手渡す。ずいぶん重みがある。

「あんたにこんな物もらう筋合いないわよ」

武雄はサユリに封筒を突っ返した。

「いつかの借金よ。利息つけて返してやるから、死んでも文句言わないでよね」

サユリは皆を見回した。

「あんた達、いつなんどき、私みたいになるか分んないのよ。だから・・・」

「健康保険と年金だけは払うこと」

ミッチーがサユリの口癖を子供みたいに大きな声で真似る。

「そういうこと」

サユリは、まるで自分の格言のように言うが、それは、この店を始める時に武雄がサユリに言って聞かせた言葉だ。自分たちのような人間は多くの人が手にするのとは違う形の幸せを見つけなければならない。伴侶も子供もないなら、身体がいうことをきかなくなった時の保険は少しでも多い方が良いのだ、と。

店を出ると、高架の上を始発電車が走り始めていた。十月に入った朝の風は確実に冷たくなりつつある。空気に潮の香りが混じっている。こんな日は決まって雨が降る。武雄は潮の香りがする方に歩いた。

舗装された堤防沿いの道を早朝のランニング人が通り過ぎていく。頬を、降るか降らないかのミストのような冷たい雨が掠めている。

武雄は胸の高さほどある堤防から川面を見下ろした。濁った水が朝の鈍い光を吸い込み、時折、小さな煌めきを見せながら、古びた屋形船や釣り船を軋ませている。

武雄は、サユリから押し付けられる形になった封筒を開いた。二百万円入っていた。昔の借金に利息をつけても充分な額だ。サユリは、欲深いかと思えば、びっくりするくらい金離れが良いというのか、後先のことを考えないところのある人間だった。

こんなことをして、治療費の見通しは立っているのだろうか、退院後の生活費のことは考えているのだろうか・・。武雄は、つい余計な心配をしている自分に気づき、相変わらずだと一人苦笑した。

ふと、川底から立ち昇ってくる生臭さにも似た匂いが鼻を掠めた。それが武雄の幼い日の記憶を呼び起こすと共に、ここまで来てしまった道のりを思い起こさせた。


武雄の生まれ育った町にも、川が流れていた。川は、人々の暮らす町の底を縫い、いつも、当たり前のように足元を流れていた。

昭和三十年。武雄は兵庫県の小さな町に北原家の長男として生まれた。姉二人に継ぐ待望の男だった。しかし、武雄は身体が細く、気も小さかった。いつも、活発だった姉たちに、ほとんど無理やり手を引かれ、外に連れ出されていた。息を切らし、木造家屋の立ち並ぶ坂の多い路地を駆け抜け、小さな禿山に登った。嫌々連れてこられたとはいえ、来てしまえば楽しくて、日が暮れるまで遊んだものだ。

父親は、国語教師だった。厳しく真面目な人で、酒には弱く、絵に描いたような堅物だった。居間に行くと、背筋を伸ばし、いつも難しい顔で本ばかり読んでいるので、子供たちはあまり父に近寄りたがらなかった。趣味の剣道の腕前は師範級で、悪いことをすれば姉たちだろうと容赦なく竹刀が飛んできた。

しかし、父の厳しさよりも、武雄が苦手だったのは「男らしくしろ」という言葉だった。幼少の頃から何となく「女らしかった」武雄は、正直、父の言う男らしさが、どういうものなのか分からなかった。

一方、母は穏やかで、よく笑う女性だった。今でも覚えているのは、母に手を引かれ、商店街を歩いたことだ。末っ子の特権で、幼い頃、よく母は武雄だけを連れて買い物に出た。母を独占できる時間が嬉しくて、立ち食いうどん屋の醤油の匂いを一杯に吸い込み、映画館やスケート場の看板を飽くことなく見上げて歩いた。

帰りには母方の叔父が営むあんみつ屋へ寄るのが定番コースだった。冷たいあんみつを食べながら、店にある少女漫画をテーブルに持ってきた。いつも父親に厳しくされている息子を不憫に思ったのか、母は女の子の読む漫画を楽しむ武雄を叱らなかった。それどころか、一緒になって面白そうに漫画を読んでくれる。武雄は、そんな母の顔を見るのが大好きだった。

成長するにつれ、武雄の「女らしさ」は影を潜めた。何とか父に褒めてもらいたくて剣道に励み、勉強も猛烈に頑張った。おかげで、武雄は地元国立大学の医学部に合格することが出来た。母は武雄を北原家の誇りだとさえ言ってくれた。

それなのに、武雄は泣き叫ぶ母を振り払い、ある日、同級生と駆け落ちした。しかも男と。母があんなにも喜んでくれた大学進学を間近に控えた春のことだった。


雨脚が強くなっていた。武雄は、トレンチコートの襟をかき合わせた。母のことを思うと、今でも鋭く胸が痛む。しかし、あの時、武雄は、どうすることも出来なかった。

誰もがする恋。気が付くとその人のことを目で追い、ぼんやりしていると、その人のことで頭が一杯になってしまう苦しさ。武雄が初めてそんな気持ちを向けたのは、同級生の男だった。自分は頭がおかしいのだろうか。そう思うのに、どうしようもできなかった。男に生まれてきたことを、逞しい肉体を、いつも呪っていた。

全ては誰にも言ってはならない。しかし、一生この絶望を抱えて生きていくのかと思うと、気が狂いそうだった。医学部に受かっても、家族が喜んでも、武雄の見える世界の色は、いつも灰色だった。

だから、彼に呼び出され、役者になりたいから一緒に東京へ行かないかと言われた時、武雄は断ることが出来なかった。医学部も、家族も、一生つき続けなければならない嘘から自由になれるならば

何の価値もない。あの時、確かに自分はそう思ったのだ。

 しかし、今になって武雄は思う。果たして自分のしたことは正しかったのだろうか。

駆け落ちして一緒に東京へ出た彼は、役者になれず、数年で別れてしまった。故郷に戻ることも出来ず、武雄は結局、新宿の小さなショーパブで女として生きていくことを決めた。

その時に出会ったのが同じ店で働くサユリだ。同い年で同郷ということもあり、すぐに意気投合した。真面目だが不器用な武雄と違って、サユリは話も、歌も踊りも上手く、どこへ行っても人気者だった。そんな彼女は、武雄にとって自慢の親友であり、憧れの存在でもあった。いつの頃からか、東京の街で生きることが寂しくなくなったのは、サユリのおかげだった。

しかし、ある日突然、サユリは武雄の前から姿を消した。しかも、武雄の貸した金を持ったまま。

サユリは、とんでもない嘘つきだった。田舎の兄が大病を患っていて手術が必要だというので金を貸したというのに、別の仲間には、弟が入院しているから金を貸してくれと言っていたという。さらに別の仲間には、妹の嫁入り支度をしてやりたいから金が必要だと泣いていたというではないか。

武雄は、はらわたが煮えくり返っていた。サユリに貸した金は、いつか小さくとも自分の店を持ちたいとコツコツ貯めていた資金だった。

それからの武雄の人生は、とてもツイているとは言えないものだった。好きになった男は、浮気性だったり、アルコール依存症だったりと、どれも上手くいかなかった。

もう誰も信用せずに生きていく。そう思い、がむしゃらに働いて金を貯めた。それなのに、武雄は再び騙されてしまった。結婚の約束をした男だった。二人で暮らす家の購入資金を立て替えてくれないかと言われ、金を渡してしまったのだ。翌日から男とは連絡がとれなくなった。武雄の全財産だった。

もう何もかもたくさんだった。絶望に打ちひしがれ、酒に溺れる日々が続いていたある日、武雄の前に、ひょっこりとサユリが現れた。シャネルのスーツに身を包んだサユリは、悪びれる様子も見せず、一緒に店を開かないかと武雄を誘った。なんでも、付き合っていた妻子持ちの男から手切れ金をふんだくったというのだ。

武雄は思わずサユリの顔をぶん殴った。その胸倉を掴み、もう一発見舞ってやろうと思った瞬間、なぜか涙が止まらなくなった。

もう、大きな街で一人生き抜く自信がなかった。


サユリと共に、なぜか二人して気に入った浦安という土地に暮らすようになって三十年が経った。まさか、こんなに長いこと、彼女と人生を共にするなどとは思ってもみなかった。

武雄は思う。サユリは、自分は、あとどのくらい生きられるのだろうか。あとどのくらい美味しくご飯を食べて、好きなところへ歩いて行けるのだろう。そう思ったら、会いたい人の顔が次々と浮かんできた。新宿で若い武雄を拾ってくれた花楓ママ、男に騙され無一文になった武雄を何も言わずに居候させてくれた同僚のサリー、二度と会えなくなった二人の姉、そして、父と母。

彼らはどんな風に老い、或いはこの世を去っていったのだろうか。



若い医者は、心持ち身体を後ろに引いている。無理もない。ずらりと横並びに座った4人のオカマを目の前にしているのだから。

「えー。では今日の手術の手順をもう一度説明します。顎の中央から縦にメスを入れ、そのまま顎の下を左に通って耳の下まで切ります。顔を開いた上で喉の奥の腫瘍を歯茎ごと取り除きます。それから、舌に浸潤したがん細胞を取り除くために3分の2舌を切除し・・・」

「こわ・・・。オープン・ザ・フェース」

ミッチーが呟く。しかし、サユリは声も出さず、ただ頭をうなだれたままだ。カツラのないサユリの頭のてっぺんは、河童のように禿げ上がっている。オペ用の寝巻は、腹の肉で腰紐が引きちぎれそうだ。男性と同部屋なのを散々、愚痴っていたが仕方ない。どこからどう見ても、ただのオヤジなのだから。

田島先生は、恐怖に固まるサユリの背中を優しくさすってやっている。

武雄はレントゲン写真を見た。腫瘍は拳大ほどもあった。よくここまで放っておいたものだ。サユリに聞くと、もう半年も前から喉に違和感を覚え、飲み込み辛さを感じていたのだという。病院にかかる数か月程前からは出血が始まり、朝は口の中いっぱいに血が溜まって目が覚めるようになっていたというのだ。医者が言うには、ここまで進んだ癌では、かなりの痛みがあるそうだ。サユリはそれでも痛み止めと酒を飲みまくり、煙草を吸いまくっていた。何故もっと早く病院に行かなかったのかと聞く武雄に「だって・・・怖かったんだもん」と、サユリは口を尖らせた。

「あの・・・」

今まで黙っていたサユリが、おずおずと口を開く。

「何か心配なことでも?」

医者が尋ねる。

「このまま放っておいたら自然に治るとか・・・」

「無理です」

医者が即答すると、サユリは再びうなだれた。武雄は溜息をついた。こんな小心者が、よくもあんな無茶苦茶な人生を歩んできたものだ。

 

手術は、当初予定した十三時間を大幅に上回り、十八時間に及んだ。手術が終わると夜中の三時を回っていた。仕事のあるミッチーと田島先生は先に帰り、武雄だけが病院に残った。

ガラス張りの窓からICUの中で眠るサユリを見た。体中に色んな管をつながれ、切った部分を再建するために腿の肉を移植した舌は腫れあがり、遠くから見ても口の中から溢れ出ているのが分る。

ふと、若かったサユリの姿が武雄の脳裏に浮かんだ。

田舎町に初めて出現したオカマバーは、バブル真っ只中という時勢も手伝って、売り上げは好調だった。サユリは始めこそ一生懸命に店を切り盛りしたが、やはり人間というのは簡単に変わるものではない。商売繁盛に気を良くしたサユリは、しょっちゅう店を空けてはパチンコ屋に入り浸るようになった。

武雄はといえば、相変わらずの生真面目な性格だ。恋愛にも懲り懲りだったし、騙し取られた金を取り返すべく、必死に働いた。自分がいなければ店はとっくに潰れていただろう。しかし、三十年もの間やってこられたのは、くやしいかな、サユリの持つ天賦の才によるものであることは、武雄が一番よく知っていた。客は皆、サユリを求めてやってきた。サユリのいい加減さと奔放さは、人を惹きつけずにはおかないらしい。

何度か客の男といざこざを起こしたこともあったサユリだったが、恐ろしい食欲と浴びるように飲み続けた酒のせいで、歳と共にブクブクと太り、いつの間にか色恋沙汰などとは無縁の容姿になってしまっていた。太って遊び回るのが面倒になったのか、田島先生やミッチーという新しい従業員を迎えるようになり、経営者としての自覚が芽生えたのかは定かではないが、ここ数年、サユリはママとして店に腰を落ち着けるようになっていた。

―荒木良太。

ベッドの柵にかけられた名札には、そう書いてある。サユリの本名だ。武雄はサユリがどんな風に育ったかを知らない。幼い頃はバイオリンの神童と呼ばれていたなんて本人は言っていたが、サユリは嘘つきだ。そもそもクラシック音楽を聴いているのさえ見たことがない。

しかし、少なくとも彼女が、荒木良太という人間として生きた時間よりも、サユリとして生きた時間の方が長いことは確かだ。武雄もまた同じだ。そして自分は、そう遠くはない将来、良太として生まれた男を、サユリとして見送ることになるかもしれない。

 


「わたし達、どうなるんだろ?」

ミッチーは炬燵に足を突っ込み、飯茶碗を片手に田島先生が持ってきてくれた卵焼きを口に放り込んだ。

「あんたは、まだ若いから」

モドリを膝にのせた田島先生は溜息をつく。サユリが入院してからというもの、二人は毎日武雄の家にやってきた。田島先生は無職の武雄を気遣い、喫茶店で作った料理をタッパーにつめて持ってきてくれる。近くに住んでいるミッチーは、コンビニで買ったレトルトご飯をぶら下げ、勝手に出勤前の夕飯を食べにくるようになった。

「若いったってだよ。なんか最近すごい人生が不安・・・あ~田島先生の卵焼き、ほんと美味しい」

ミッチーは二杯目のご飯の封を破り、レンジで温める。

 最近は、三人が集まると溜息の出る話題ばかりだ。無理もない。武雄も同じ気持ちだった。長年一緒にやってきたサユリの病気という事態を目の前にして、常に胸の中にあった“老後への不安”というものが、急に具体性を伴って皆の前に押し迫ってきたのだ。

「ほら、でも考えても始まらないし」

話題を変えようする武雄をミッチーが遮った。

「何言ってんの。タケコ姉さんが一番ヤバいんだよ。六十五歳で無職になってさ、これからどうすんのよ。貯金だって減っていくばかりなんだよ。しかも、ここ賃貸でしょ。一生、家賃払っていけるかだって分らないんだよ。病気になったらどうするの?お墓はどうするの?サユリママが死んだらモドリの老後のことだって・・・」

「あ~っ!」

武雄は耳を塞いだ。分かっている。全部分かっている。でも、どうしたら良いのか分からないのだ。

「サユリママもどうするつもりなのかな。退院しても働く場所なんかないだろうし。そもそも一人で生活していけるのかな」

田島先生が心配そうに言う。

「なんかさ、しんどいね・・・」

ミッチーが呟くと、三人は深い溜息をついた。

 

耳を塞いでばかりもいられない。翌日から武雄は職探しを始めた。ざっと計算した。定期預金は五百万円。家賃と光熱費、食費。何の贅沢もせずに暮らしたとして、年金を使っても貯金は五年もせずに底を尽きる。病気などしようものなら一巻の終わりだ。ああ、ガン保険に入っておけば良かった。

うちの家系は長生きなのだろうか。確か祖父は七十歳ちょっとで亡くなった。あの時代の人間としては普通だろう。多分死んでいるとは思うが、父は生きていれば九十歳、母は八十八歳になる。二人の姉たちは六十八歳と七十歳。

 インターネットで調べたら、日本人の平均寿命は男性79.94歳、女性86.41歳。武雄は、その数字を見ていたら、ふいに誰かにすがりつきたいくらい怖くなった。あと十五年もすれば、自分は死んでもおかしくない年齢なのだ。世間は、何歳からを老人と呼ぶのだろう。二十歳になれば成人式がある。でも、誰も老人式はやってくれない。

 マンションの管理人、駐車場の管理人、自転車整理員、皿洗い・・・。見事なくらい全て断られた。見た目の問題かと思い、思い切って髪を縛り、男の格好をして面接に挑んだが、履歴書の前職欄「オカマバー・サユリちゃん」の文字を見ると、面接官はあからさまに不審な目で武雄を見た。

 この際、身体の自由がきくうちに、貯金をはたいて老人ホームの入居予約をしておこうか。ミッチーに勧められ、最近やっと買い換えたスマートフォンで色々と調べたら、ちょっといいなと思うところは初期費用を数百万円から一千万円支払い、さらに入居後は生活費として月々二十万円~三十万円ほど支払わなければならないという。介護が必要になった時の不安までカバーしてくれる施設となると当然高額になる。大金をはたいて入居したものの施設に馴染めずに退去することになった場合、納めた初期費用は数十%しか戻らず、何年もかけて償却してもらうことになるそうだ。償却期間中に、お迎えがくることだって考えられる。もう長い間似た者同士ばかりが集まる場所で生きてきた武雄にとって、見知らぬ老人ばかり住む施設で仲良くやっていくのは不可能に思えた。やっぱり老人ホームの線は捨てよう。

「老後」で検索をしていたら「老後破産」とか「下流老人」という言葉に目が留った。何とも恐ろしそうな言葉だが、つい指で押さえてしまう。

ある人は、ごく普通のサラリーマンとして勤め上げて数千万円の退職金をもらった。あとは悠々自適に暮らそうと思っていたら妻が病気になった。なんとか助かって欲しくて、あらゆる保険外の治療を受けさせたが努力も虚しく妻は逝ってしまった。退職金を使い果たし、独居老人となった彼は、一日数百円での生活を余技なくされているという。

ある人は、やっぱり退職金をもらったのだが、息子が死亡交通事故の加害者となった。賠償金を支払うために退職金も家も失い、極貧の老後を余儀なくされているそうだ。

なるほど、家族がある人はある人で大変だ。老後の人生崩壊は病だけでなく家族という思わぬ伏兵によって、突然にもたらされたりするというのだから。

武雄はスマートフォンを投げ出し、どさりとベッドに横になった。ミッチーの言う便利なインターネットというのは、どうも心に悪い。

インターフォンがなっている。新聞か宗教の勧誘だろうと思ったが、モドリが玄関まで歩いて行く。そういう時は決まって田島先生かミッチーがドアの向こうにいるのだ。武雄は時計を見て不審に思った。午後七時。二人とも仕事の時間のはずなのだが。

ドアを開けると、ミッチーが立っていた。

「何、その顔・・・」

ミッチーの顔は、目から下が大きく腫れ、切れた口の端には血の固まった痕がある。

「お邪魔します」

ミッチーは勝手に部屋にあがり、モドリの胸に泣きついた。

「くやしーっ」

「何なのよ」

ただでさえ落ち込んでいたところに何のトラブルだ。武雄は溜息をついた。

「喧嘩した」

「誰と。男?」

ミッチーは首を横に振る。

「店のホステス。もう、ほんっとムカつくやつなの!ブスのくせに、たまたまNO1になったヤツでさ。私が来てから自分の地位が危うくなったもんだからって、もう、何かにつけて文句つけてくんのよ。ステップが遅れてるとか、リズム勘ないとかさぁ。我慢してたけど今日はさすがにキレたわよ。本番で履くパンプスのヒールがさ、こう、バキっと折れてたの」

ミッチーはジェスチャーつきで喋りまくる。

「そいつがやったの?」

「あいつしかいないわよ!その折れたパンプスでさ、後ろから頭ひっぱたいてやったわ。そうしたら向こうが、いきなりゲンコツで殴り返してきて。もう、私、完全に頭きてさ。ボコッボコにしてやったわよ」

「で・・・?」

武雄は嫌な予感がした。

「首になった」

「サユリの紹介で入った店でしょう」

「ママに怒られるかな・・・」

ミッチーは下を向いた。

「あんた、このご時世で、せっかく見つかった仕事を・・・。あのね、まだ若いからいいけど、あんたもちゃんと腰を落ち着けないと、いずれ老後破産よ」

「何それ」

武雄は、さっきインターネットで読んだ話や、老人ホームのことをミッチーに話して聴かせた。

「ふーん。じゃあ、タケコ姉さん、完全に老後破産の第一歩じゃん」

「うるさいわね」

武雄は鼻をならした。

「それにしてもさ、老人ホームって、そんなに高いんだ。確かに寂しいのは嫌だし、面倒みてくれる人がいるっていうのは有難いけど、私は、そういうとこで友達つくって上手くやってく自信ないなあ。絶対嫌なヤツとかいるし。しかも、こんな恰好して実は男なんですなんて言ってみなよ。下手したら苛めにあうよ」

確かにミッチーの言うとおりだ。老後を生き抜く名案は、やはりないのか。自分は老後破産して下流老人になっていくのだろうか。武雄は改めて落ち込んだ。

「そうだ!」

ミッチーが突然大きな声を出した。膝にのっていたモドリが驚いて飛びのいた。

「つくればいいじゃん」

「何を」

「老人ホーム」

「は?」

「オネエのための老人ホームだよ。私たちみたいな人間てさ、結婚もしてなきゃ、子供もいない人がほとんどでしょ。だけどさ、やっぱり誰だって歳くったら一人って不安じゃない。だからって、こういう世界で生きてきた人間が、いきなり超ノーマル人間のコミュニティーに入れられたって、ちょっと難しいよね。それこそ介護する側の人だって扱いに困るだろうし。だったら同じような人間が支え合って暮らした方が気が楽じゃん」

「それはそうだけど・・・」

ミッチーの言うことはよく分かるが、武雄には、いまいち現実感が湧かない。第一、いくら金が必要なのだろうか。

「あ!そうしたらサユリママも暮らせるじゃん」

ミッチーが手を叩いた。

「なんで私が、あいつの終の棲家を・・・」

そう言いながら、武雄の胸にICUで一人眠るサユリの姿が浮かんでいた。

 


ミッチーのことだ。どうせ思いつきだろう。そう思っていたら翌日、自転車の荷台に大量の本を載せて武雄の家にやってきた。

『完全図解まるわかり!有料老人ホームの経営』、『介護ビジネスABC』、『チャンスはサ高住にあり』・・・。

全て高齢者向け住宅に関係する本だった。

「ああ、重かった」

ミッチーはテーブルの上に勝手に本を積み終えると数をチェックしている。

「どうすんのよ。これ」

武雄は本に埋もれたテーブルの上を茫然と眺めた。

「まずは綿密な情報収集でしょう。ニ十冊あるから」

「まさか私に全部読ませるつもり?」

「私、本読むの苦手なんだよね。タケコ姉さん、医学部に受かったんでしょ。こんなのチョチョイのチョイでしょ」

「そんなわけないでしょ!最近、老眼だって酷いんだから」

「私は私で情報収集してくるからさ!」

人の話も聞かずミッチーは慌ただしく出て行った。

いつの間にか山積みの本の上にのっかったモドリが武雄をジッと見上げている。

「あんたも読めっていうの?」

毎日のように夜が明けるまで勉強した受験生の頃を思い出した。途中で投げ出したくなったこともあったが、最後まで武雄を頑張らせたのは母の喜ぶ顔だった。自分が居なくなった後、母は、家族は、どんな風に生きていったのだろう。人々の好奇の目に晒され、さぞかし生きづらかったはずだ。家族を捨てたのは自分だ。子供のいない自分は、誰かの未来を楽しみに生きていくこともない。ただ自分より先に逝く人を見送るだけだ。悲しいことではない。選んだのは自分だ。そうであるなら、最後を迎える準備も自らの手でしなければならない。

武雄は老眼鏡をかけると、本を一冊、手に取った。



「あ~、きくわ~」

武雄は巨大な低周波治療器の強弱ツマミを調整し、肩と腰に張り付けた吸盤から心地よい電気刺激が伝わるのを確かめた。

武雄は、もう半年以上、持病の腰痛治療のために近所の整形外科に通っている。最初は職員に吸盤を張ってもらったり、電気の強さを調整してもらっていたが、今では準備から終わりまで全てセルフサービスだ。

田島先生も武雄の隣に座り、機械の上に置かれた瓶の蓋を開け、エタノールの浸みた脱脂綿をピンセットでつまみ出して吸盤を拭くと、慣れた手付きで自らの首と肩に吸盤を貼り付けていった。

ひどい肩こりに悩んでいた田島先生は、武雄の勧めで三か月程前から、ここに通うようになり、今ではすっかり常連だ。

「やっぱり無理なのかな」

武雄は、電気で肩を痙攣させている田島先生にぼやいた。

「なにが」

「だから、老人ホーム」

「何よ、あれ本気で考えてたわけ?どうせミッチーの思いつきだからって言ってたじゃない」

「うん。最初は、そう思ってたんだけど。でも、色々読んだり考えてたりしたらさ、本気で欲しいって思うようになってきて。終の棲家ってやつが。ねえ、知ってる?高齢者って幾つからか。六十五歳よ。私、今年から高齢者なのよ。市からは、高齢者パンフレットとかいうのまで送られてきてさ。介護保険申請がどうの、高齢者住宅がどうのとかって、早く死ぬ準備に取り掛かりなさいって言われてるみたいで」

「そうねえ。相方も子供もないってなったら、身体が自由じゃなくなった時、どうするのかって、私も時々、考えるけどね。いざとなったら国がどうにかしてくれそうなもんだけど、特養とかなんて順番待ちでいっぱいなんでしょう?どこも受け入れてくれなかったら、どうしようって不安になるわ」

武雄は頷いた。

「その辺で行き倒れてれば別だけど、基本的に自分の死に場所は自分で用意しなきゃなんないのよね。でも、自分の身体が動かなくなるのが、いつかなんて誰にも分かんないわけで、分からない先のことまで考えて、高いお金かけて介護つきの老人ホームに入っておきましょう、なんて立派で、お金のある人は、ごく僅かでしょ。それに、自分が要介護になるなんて、誰だって、なってみるまで受け入れられないし。だから、私みたいに年寄りで、しかもオカマで、だけど、まだまだ元気で、でも何となく不安でっていう人間達が安心して暮らせる場所があったらなあって」

「そんな場所があったら私も住みたいけど」

「でもさ、実際に、そういう場所を造ろうと思うと規則、規則でね」

武雄は、ここ最近、得た知識を田島先生に披露した。

 最近では民間が高齢者住宅を造るにあたって、様々な助成金制度があるそうだ。増え続ける年寄りのために莫大な税金を使って公的施設を造るよりは、助成金制度を設けて、民間に年寄りを解放した方が安上がりというわけだ。

しかし、高齢者施設として国の補助金を受けるには、様々に乗り越えなければならない課題が多すぎる。一人25㎡以上の個室、バリアフリー、スプリンクラーの設置、一定数以上の看護や介護の有資格者の配置・・・。これらの初期投資や人件費などの課題を乗り越えても、ビジネスなのだから利益を出し続けなければならない。要介護認定を受けた高齢者に入居してもらって、介護保険サービスを提供し、国から施設に支払われる介護保険報酬をもらえば、一定収入は得られる。しかし、それで利益を出そうにも、保険点数を出来高で報告すれば良い病院とは違って、介護保険報酬は月額定額制だ。儲けを出そうと思えば保険外の介護サービスを売り込むしかない。

結局、年をとってから住むことのできる安価で優良な施設を提供することと、施設の利益は相容れないことなのかと、武雄は溜息をつくしかなかった。

「お金かけて作れば、当然、儲けなきゃなんないし、そうしたら貧乏人の年寄りなんか相手にしてられないし」

武雄は、田島先生に説明しながら改めて考えた。今、自分の手元にある金は五百万円。この年齢で資金を貸し付けてくれるところもないだろう。道は限りなく狭い。やはり、自分のためだけに金を残して、細々と生きていった方が賢いのだろうか。

「なんか肩が重い・・・」

田島先生が力なく言った。せっかくの電気治療も人生の重さには敵わないらしい。

低周波治療が終わると、二人して頸椎牽引器に向かった。椅子の目の前に、首吊り自殺の時に使うような輪っかの形をした太いバンドがぶら下がっている。この中に顎を入れ、スイッチを押すと決まった力で首が上に引っ張られる仕組みである。首の骨が一本ずつ伸びていくこの感覚は、普段味わうことのできない爽快感である。田島先生も、すっかりこれが気に入ってしまった。

「で、何だっけ」

田島先生の顔が歪み、上に引っ張られていく。この時の顔を武雄は見ないようにしている。その壮絶な顔面に笑いを堪えることが出来る人は少ない。以前、骨折のリハビリで通っていた中学生の男の子が、たまたま田島先生のその顔を目撃し、笑いが止まらなくなってしまったことがある。田島先生は随分気を悪くしたようだ。以来、武雄はひたすら前を見たまま、このリハビリを受けるようにしている。

「いや、だからさ、私たちみたいな人間が、安くて安心して住める住まいを造りたくっても、とにかく規則だらけで」

「変な話よねぇ。これだけ年寄りが溢れてるっていうのに。まあ、ほら。確かに民間にまかせるとなれば、色んな問題が出てくるからね。ホイホイと税金出して変な施設が出来ても困るからね」

「確かに。それこそ小さなアパートの一室に年寄りを押し込んで無資格者が適当な介護をして、家族も本当は分かってるけど、どうしようもないなんていう話。あと、前にあったじゃない。無認可の老人ホームで火事がおきて、みんな逃げ遅れたとかさ。スプリンクラーを設置しなきゃならないって決まりも、その辺から出てきたみたい。でも、そうなると補助金どころじゃなくて、そもそも老人ホームとして届け出すること自体ハードルが高すぎるってことになっちゃうのよ」

武雄の話に田島先生は曲がった顔のまま考えこむ。

「この際、お(かみ)の力なんか借りないってのは?」

「どういうこと?」

「老人ホームとして届け出なきゃならない基準ってなんだっけ」

「えっと確か『食事の提供』、『介護の提供』、『洗濯掃除等の家事』、『健康管理』のいずれかのサービスを提供する施設だったかな」

武雄は言いながら自分の記憶力に感心する。

「逆に言えば、それを提供しなければ届出をしなくていいってことでしょう。そうすれば、広さとかスプリンクラーとか職員とか、難しいことはなしで、好きな場所でやれるってことよね」

「そうだけど・・・」

「それって無認可だって思ってるんでしょう」

武雄は頷いた。

「タケコ姉さんは真面目なんだから。確かに年寄りの住む場所だもの。安全な方がいいに決まってるわ。スプリンクラーだって、あるに越したことはないわよ。だけど、それが全ての年寄りに絶対に必要なのかってことよ。ほら、見てみなさいよ。年寄りって意外と元気よ。田中さんも加藤さんも伊藤さんも、いつもどっか悪いって言ってるけど、ちゃんと自分の足で歩いて毎日ここに通ってるじゃない。伊藤さんなんて、この前の台風の日にも、ここに来てたっていうじゃない」

武雄は首を引っ張り上げられたまま、リハビリ室を目だけ動かして見まわす。

ここに来るようになってから、年寄りと話す機会が増えた。

田中さんは八〇歳の女性。夫に先立たれ、五十代の独身の息子と二人暮らし。糖尿を患い右足に軽い麻痺があるが、息子が結婚するまでは元気でいようと毎日リハビリに通っている。

加藤さんは七十二歳の男性。田中さんとは逆に、妻に先立たれ、不幸にも一人娘を事故で亡くしたそうだ。今は小さな持ち家で一人暮らし。膝が痛いくらいで内臓はいたって健康だと医者にお墨付きをもらっているという。内臓が健康だと死にたくても中々死ねないんだと、いつも冗談とも本気ともつかない顔で笑っている。

伊藤さんは、なんと九十歳の男性。二十年前からこの病院に通っているそうだが、台風も、ものともせず、ここに来るところを見ると、かなり丈夫で、もはや何のリハビリに来ているのかさえ分からない。

年寄りは、安いからといって大して悪いところもないのに病院通いをして医療費を無駄遣いしているとは、よく言われることだ。確かに彼らを見ているとそれも一理あるように思える。しかし、ここに毎日来てお喋りをして帰ることが彼らの健康を保っているのもまた確かなようだ。昨日は何を食べただの、嫁がけしからんだの、家族に苛められているだの、彼らの話の真偽のほどは定かではないが、こうして顔見知りが増えると、その日来ていない人のことが気になるようになる。そうすると、近所の人に尋ねてみたり、誰かが様子を見に行って来ようなどとなるわけである。実際、噂好きの彼らのおかげで、風呂場で転んで一晩中、動けなくなっていた人が発見されたこともある。

「管理人でもいいのよ。いつも誰かが顔を見にきてくれる、緊急時には駆けつけてくれる人がすぐ傍にいる。それから自分の身体が不自由になった時、死んじゃった時、どうしてほしいのかを理解してくれる人がいる。そういうことだけでも、いいんじゃないかな。お上に期待してちゃあ、金持ちしか年寄りの住まいは造れないわよ」

さすが田島先生だ。ただ勉強ができるだけの武雄とは違い、柔軟な頭をもっている。高齢者と言っても、まだまだ自分で身体を動かすことはできる人は多い。それでもやはり家族もなく、特別親しい友人もいない人にとっては、一人暮らしは、いつもどこか綱渡りのような不安が付きまとう。実際、よくリハビリ室で耳にすることがある。ある日、突然倒れて動けなくなったらどうしよう。そのまま死んでしまって、誰にも気が付かれなかったらどうしよう、自分が先に死んでしまったらペットはどうしよう・・・。年寄りの不安は、自分自身を含め、誰も似たりよったりなのだ。

もちろん煩わしい人間関係は嫌だ。いちいち他人に干渉され、年寄り扱いされて暮らすのは我慢ならない。多くの高齢者にとって現実的でちょうど良い住み家。大金を払ってしかそれを手に入れられないとしたら悲しいことだ。

「とは言え問題は場所よねぇ。どこでもって言ったて、ある程度の規模は必要だろうし」

二人して考え込んでいると、受付のあたりがなんだか騒々しい。

「あの、ちょっと、リハビリの方じゃないですよね。困ります」

「うるさいわね。ちょっと知り合いがいるって言ってんじゃない」

あの声は・・・。武雄と田島先生は首を吊られたまま、眼球だけを動かし視線を合わせた。

「あ、やっぱりいた!タケコ姉さん」

やはりミッチーだ。しかもミッチーの後ろには、なぜか堺さんがいる。手をひかれているところを見ると無理やり連れてこられたのだろう。

「何なのよ。騒々しい。何も病院まで押しかけてこなくても」

「早く教えてあげたくって・・・」

と、ミッチーの目がある一点にくぎ付けになった。

「田島先生・・・何、その顔・・・」

遅かった。ミッチーは腹を抱えて笑っている。

「超ウケるんだけど」

不機嫌な田島先生の様子にも気が付かずにミッチーは涙を拭いて言った。

「タケコ姉さん、見つかったよ」

「何が」

「終の棲家」

ミッチーは「ねえ!堺さん」と言ってニッコリ笑った。

 武雄と田島先生はミッチーに急かされて病院を出ると、十分程歩かされた。

「ここ」

武雄と田島先生は、腰の高さ程にまで育った雑草を掻き分け、二階建てのアパートを見上げた。階段や手摺などの鋼材は錆び付き、一部は腐食して欠けている。おどろおどろしい蔦の絡まった外壁は汚れに汚れ、もはや何色だったのかさえ分からない。極め付けは誰の悪戯か、上下に3戸ずつある部屋の内、上階の端っこの部屋のドアが、きれいになくなっており、青いビニールシートが張り付けられている。

「これ・・・?」

動揺する武雄にミッチーは自信満々の笑顔で頷く。

「土地成金の堺さんに話したらね、月一万円で全6室貸してくれるって」

「6室で?」

土地成金と言われても堺さんは一向気にする様子もなく頷いた。

「水臭ぇじゃないかよ。この辺じゃ不動産王の堺って言われてんだ。俺に相談しないで誰に相談すんだ」

「それも他の人に賃貸してもいいっていうんだよ。こんないい話ないよ、タケコ姉さん」

「住み手もつかねぇし、潰しちまいたいんだけどよ、金がかかる上に、更地にすっと固定資産税が跳ね上がんだよ。改装するなり、人に貸すなり好きにしてくれよ。家ってのは人が住まないと、どんどんダメになる一方でよ」

「確かに有難いけど・・・」

「ほら、来て」

ミッチーは武雄を強引にアパートの前に連れて行くと、握りこぶしで外壁をコンコンと叩いた。

「おんぼろに見えるけど、基礎はしっかりしてる。地盤も悪くない」

「なんであんたがそんなこと分るのよ」

「勘よ」

「そんなこったろうと思ったわ」

「大工の勘」

「え?」

ミッチーはニヤリと笑った。

「私、中学卒業して十五歳の時から大工やってたんだよ」

「嘘・・・。なんで辞めたの」

「可愛い恰好できないじゃん」

ミッチーはそう言ったが、それ以上は話そうとしなかった。

「手摺や階段は取り替えるとして、外壁は・・・そうだね。レモンイエローなんかいいよ。屋根や窓枠は白に塗りかえて。内装の壁紙は入居者の希望の色や柄にしてあげるってのはどう?すごく可愛くなるよ」

武雄に背を向けたまま、ミッチーは楽しそうに一人頷く。武雄は、その後ろ姿を見ながら、彼女の過去を思った。彼女だけではないが、店にいた人間の過去は、本人が言いでもしない限り聞かないのが自分たちにとって暗黙のルールだ。大切なものをたくさん失い、思いもよらぬ人生を歩むハメになった自分と同じように、ミッチーも、どうにもならない何かに翻弄されて、ここまでやってきたのだろう。

「あんた、ここに住みたいの?」

武雄が聞くとミッチーは頷いた。

「私も歳をとったらね。でも、もう少し一人で頑張ってみるよ」

そう言うミッチーがここに越して来る頃、自分は生きているだろうか。武雄は、きれいなレモン色になったアパートの姿を思い描いた。そして、各部屋には化粧をした愉快な住人たち。武雄は思わず微笑んだ。悪くない。何より、ここなら安価な家賃で住人たちに田島先生の言うようなサービスを提供できるかもしれない。

武雄は、ふと隣にいる田島先生を見た。なんだか様子がおかしい。下を向いたまま頭が小刻みに揺れている。

「具合でも悪いの」

武雄が肩にそっと手を置き、顔を覗き込む。顔色も悪い。

「うぅ~」

奇妙な呻き声を発する。

「悲しかったわねぇ・・・もっと、ここに居たかったわねぇ。大丈夫よ、わたしもここに住むから」

田島先生は訳のわからないことを口走っている。

「一体どうしたのよ」

「やっぱり居るのか・・・」

境さんが一人納得して頷く。しかも何故か涙目だ。

「居るって?」

「ハナさんだよ」

「ハナさん?」

境さんは鼻を一つ啜ると話し始めた。

 もう五十年以上前の話だという。当時は、このアパートにも住人がいた。不思議と似たような住人が集まるのか、問題が絶えなかった。暴走族あがりのチンピラ、怪しげな出稼ぎ外国人、すぐに男と傷害沙汰を起こす風俗嬢・・・。家賃滞納、夜中の騒音、生ごみの放置は当たり前。近所の苦情もしょっちゅうで、堺さんは頭を痛めていた。そんな時、このアパートに入居希望者が現れた。ピンクのフリルだらけのワンピース姿に大きな花をあしらったツバ広の帽子を被り、その下から覗く顔にはゴテゴテに化粧がほどこされていた。年齢は六十五歳。田中ハナと名乗った。

「男だってすぐに分かったよ」

堺さんは笑った。

 どんな経緯で此処にやってきたのかは分らないが、ハナさんは、その前は福岡に住んでいて、仕事は引退してきたという。年齢のせいでアパートを貸してくれる家主が中々見つからず困っている、とハナさんは言った。困っている人を放っておけないタチの堺さんは、条件つきでアパートを貸してやることにした。その条件とは、部屋を貸す代わりに、ならず者の集まるアパートの管理人になってほしいということだった。

堺さんは、ハナと名乗るその奇妙な人間に、何故か好意を抱いたという。突拍子もない出で立ちをしていたが、ハナさんのどこからか、人間味のある生真面目さが感じられたのだそうだ。

堺さんの読みは当たった。ハナさんは引っ越してきたその日から、草をむしり、ゴミ置き場を片付け、汚れた廊下をきれいに掃除した。その任務の遂行ぶりたるや感心するほどで、指定外の日にゴミを出さない住人には、厳しく説教、家賃滞納者には支払計画書まで書かせる徹底ぶりだった。しかし、不思議とハナさんを嫌う人はいなかった。1年が過ぎた頃、庭に造った花壇には、色とりどりの花が咲き、アパートは見違えるようになっていたという。

「ここは、あの時が一番良かったな」

堺さんは遠くを見つめて言った。ハナさんは、病気で倒れて亡くなるまでの十五年間、このアパートの管理人として働いたそうである。そしてハナさんの死後、住人達の間で奇妙な噂が立ったのだ、と堺さんは言った。

「毎朝、音がするんだよ」

「音?」

堺さんは頷いた。

「サッサッとさ、廊下を箒で掃く音が。なあ、今もまだここに居るのか?ハナさん。心配すんな、タケコもよぉ、あんたに負けず劣らず真面目な人間だから」

堺さんは勝手にハナさんと話しこんでいるが、武雄にとったら気味が悪いだけだ。

「なんかハナさんって、タケコ姉さんみたいじゃん。きっとハナさんに呼ばれて来たんだよ」

ミッチーまで好きなことを言う。

「いやよ、幽霊屋敷なんて」

「いいじゃん。悪いことばっかりするってのは幽霊に対する偏見だよ。毎朝掃除してくれるんだから助かるじゃん」

「でも、ほら、田島先生も具合が悪いみたいだし、やっぱり、こういう場所は良くないんじゃ・・・」

助けを求めるように田島先生を振り返る。と、田島先生が涙を浮かべ武雄を見た。

「ハナさんが言ってる」

「何を?」

武雄は恐る恐る聞く。

「タケコさん、ここをお願いしますって」



手術後一週間はICUに入る予定だったサユリだが、思ったよりも経過が良く、五日目には個室に移ることが出来た。

 武雄は、術後の経過を説明する主治医の言葉に一つ一つ頷いた。

「目に見える腫瘍は全て取り除きました」

 主治医はそう言った。十八時間にも及ぶ手術はひとまず成功したようだ。これから一か月かけて体力の回復を待ち、口から食事が摂れるようになったら放射線治療と抗がん剤治療を開始するという。抗がん剤と聞いて武雄は思わず顔をしかめた。副作用で髪がばっさりと抜け落ち、洗面器を抱えて嘔吐に苦しむイメージしかない。医師によると、もちろんそういう患者もたくさんいるが、副作用には本当に個人差があり、今は薬も進んでいるので上手く副作用に対処する薬を投与しながら、無理をせずに行うと説明した。

武雄にとって意外だったのは放射線治療だ。むしろ薬よりもその副作用の方が確実に予測できるのだそうだ。しばらくすると口にひどい痛みや口内炎が発生し、口から食べ物を摂取できなくなるので、あらかじめ腹に小さな穴を開け、管を通して直接胃に栄養食を送り込むための小手術を行うのだそうだ。 “胃ろう”という処置なのだ、と医師は紙に書いて教えてくれた。放射線治療を終え、再び口で食べられるようになれば、胃ろうは外すことができるが、どこまで食べられるようになるかは個人差があり、退院後も胃ろうを付けたままにしておく患者もいるそうだ。

話は既にサユリ本人にも伝えてあるという。どこまで治療するかの選択権は本人にあることも伝えたが、サユリは全てに承諾したと医師は言った。

「癌治療のフルコースっていうところですかね」

医師は、そう言って微笑むと席を立った。

武雄は面談室を出るとサユリのいる病室に向かった。静かな廊下を歩きながら、武雄は思った。一体サユリはどこまで治療に対して覚悟しているのだろう。ちゃんと考えたのだろうか。何でも勢いでやってしまう人間だ。根性とは無縁のサユリの性格を考えると、本当にそんなハードな治療に耐えられるのだろうか。自分のことでもないのに武雄の気持ちは不安になるばかりだった。

武雄は病室の前で立ち止まった。サユリのいる部屋だ。武雄は怖かった。手術直後の腫れあがった顔、口から盛りだした移植後の舌、管だらけの身体・・・。ICUのガラス窓越しに見たその姿は悲惨だったが、あの時はまだ本人の意識はなかった。今は起き上がることも声を出すことも許されていないそうだが、変わり果てた姿になり、意識を取り戻したサユリに、どういう顔をして会えばよいのか分からなかった。

武雄は一つ息を吐くと、思い切って部屋に入った。ベッドサイドのテーブルには「飲食・起きあがり厳禁」の札。呼吸は喉からつながった管、栄養補給は鼻の穴に通された管で行っているらしい。耳の下から顎にかけてくっきりと見えるフランケンシュタインみたいな縫い目が痛々しいが、主治医の言葉通り、顔や移植した部分の舌の腫れは引き、ちゃんと口の中に収まっていた。武雄は少しばかりほっとすると同時に、現代医療の力に驚いた。一昔前なら、サユリはきっと死んでいただろう。

サユリの大きな目の玉だけが動いて、武雄の姿を捉えた。太った身体と禿げ頭も健在だ。

「あらあら完全におっさんの姿ね」

憎まれ口を叩く武雄をじっと見たまま、サユリはパチパチと瞬きをする。嫌になるが、これが腐れ縁というやつなのだろう。武雄は、サユリの言いたいことがすぐに分かった。武雄は鞄の中から買ってきたホワイトボードとペンを取り出し、サユリに渡してやった。サユリはペンを動かし、武雄に見せた。

“モドリは元気?”

武雄は、サユリからペンを受け取り、モドリの様子を書こうとした。と、サユリは武雄からそれを奪い取る。そして、またペンを走らせた。武雄はホワイトボードに書かれた文字を読んだ。

“あんたは口で話しなさいよ”

「あ、そっか」

武雄が笑うと、サユリの目尻も少し笑った。

「モドリはとってもいい子にしてるわ。毎晩、田島先生やミッチーが来るから寂しくないみたいよ」

一瞬、サユリの顔に疑問の色が走った。

“ミッチーも?仕事は?”

武雄は、しまったと思った。

「なんかね、その・・・辞めたらしいのよ」

“どうせ首になったんでしょ”

サユリは、呆れたように鼻から息を吐いた。

「まあ・・・人間関係が難しかったみたいね」

まさか店の人間を殴って首になったとも言えず武雄は適当に誤魔化した。

「失礼します」

ちょうど良いところで看護師がチューブのついた機械を押して、部屋に入ってきた。

「お世話になっております」

武雄が会釈すると、若い看護師の女は、一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに可愛らしい笑顔に戻った。サユリの担当看護師であるらしい。

「荒木さん、痰の吸引の時間です」

看護師はサユリの顔を覗き込む。武雄が邪魔にならないように後ろに下がって立っていると、看護師が武雄をふりかえって気遣うように言った。

「見ていていただいても結構なんですが、ちょっと苦しそうで辛いかもしれません」

若いが優しく利発そうな娘だ。武雄は頷くと部屋の外で待つことにした。引き扉の隙間からサユリの足が見える。分厚くて、硬そうで、青白い。好きなことをしながら65年間、歩き続けたその足は痰を吸引する濁った音が聞こえる度に、苦しいのかベッドの上で時々ピクピクと揺れている。

 痰の吸引が終わり看護師が出ていくと、武雄は大きなバッグの中から買い揃えておいたティッシュや寝巻、下着を出した。起き上がれるようになった時のためにスリッパやヘアブラシ、鏡も用意してきた。ベッドサイドにある棚の中に持ってきたものを収めてやりながら、結局また、こいつの面倒を見るはめになったのかと武雄は苦笑した。せっせと荷物を片付ける武雄にサユリは無反応だが、テーブルの上にモドリの写真立てを置いてやると、手を伸ばそうとするので持たせてやった。

「オカマのための高齢者住宅を造ろうと思ってるの」

モドリをじっと見つめていたサユリの目が動いた。武雄はミッチーがその話を提案したこと、色々なことを知っていくうちに安心して老後を過ごせる家を造りたいと自分自身も思い出したこと、そして堺さんの紹介してくれた妙な物件のことなどを話して聴かせた。

「退院したらさ、あんたも、そこに住む?」

サユリは興味なさそうに視線を横に向けたと思うと、

“私は誰の世話にもならないわよ”

と書く。予想通りの反応だ。

「あ、そ。一人が良ければ一人で暮らせばいいわよ。別にあんたのために造るわけじゃないから。これから住みたいっていう人を見つけるつもりだし」

サユリは天井を見上げたままだ。予想していたことだが、相変わらず可愛げのないヤツだ。

「じゃ、また来るから。必要なものがあったらメールして。入院中だけは面倒見てやるわよ」

武雄が上着に袖を通し、帰りかけた時だった。コートの裾を引っ張られ武雄は後ろを振り返った。サユリは何やら書き込んだホワイトボードを武雄に押しつけた。

“そこ、ペット可?”



「おめぇ、もっと丁寧にできねぇのかよ!」

ポニーテールに土方服姿のミッチーが棟梁に後ろから頭を叩かれている。

「うっす!おやっさん」

「ったく・・おめぇは昔っから雑なやつなんだから。手ぇ抜くんじゃねぇぞ」

「うっす!」

劣化が激しくドアの開かない押入れ冊子の枠材を交換していたミッチーは太い声で返事をした。棟梁は床板の張り替えを行う他の若い衆二人の仕事ぶりもチェックして歩く。

「うっす!」

若い衆は次々に尻を蹴られたが、ここでも気合いの入った返事。元ヤン丸出しの剃りこみの入った若い二人も、巨体に薄紫色のとんぼ眼鏡、極めつけはパンチパーマの棟梁の迫力には到底およばない。

アパートの改装工事が始まった。ミッチーが昔世話になった棟梁に連絡を取ると、面倒見の良い棟梁は既に引退後だったにも関わらず、破格の値段で工事を引き受けてくれることになった。軽費削減のため、ミッチーも久々に大工として復活することになったのだ。

武雄はハナさんの後継者として、このアパートを蘇らせる決心をしてから、ミッチーの人脈の広さに驚いた。大工・塗装屋・クロス屋・建築士はもちろん、内装材を豊富に扱う大手ホームセンターの役員、水道管会社の社長、ミッチーはあらゆる人に連絡をつけた。なぜか人に嫌われないミッチーの厚かましさのおかげで、彼らには工事や仕入れに随分便宜を計ってもらえた。

ミッチーは、不動産投資のカリスマと呼ばれる男も連れてきた。いかにも脂っこい人間を想像させる異名とは逆に、気の弱そうな線の細い大学生風の男。しかし、なんとこの男、誰も見向きもしないボロアパートを安値で買い上げ、大規模なリニューアルもせず首都圏のアパートを何十件も満室にしている資産家なのだという。カリスマは手取り足取り工事計画について相談にのってくれた。しかし顧問料を支払いたいという武雄の申し入れは頑なに辞退した。どうやらミッチーの新しい恋人であるらしい。

カリスマの教えその一。まず大切なことは入居者のターゲットを絞ること。それによって、何を残し、何を取り換えるのかが明確になり無駄な支出を抑えることができる。

カリスマの教えその二。入居者のターゲットを決めたら、ターゲットが必要とする投資は惜しまない。

武雄は部屋の真ん中で腕を組み熟考した。玄関を開けると小さな上り框、そのすぐ横に台所、トイレ、風呂。同じスペースに四畳半の食堂、襖を開けた奥の部屋は六畳の和室。典型的な昔ながらの2DKである。駆け落ちした男と東京で最初に借りたアパートのようだ。忌まわしい記憶を払拭させるためにも、見違えるような部屋にしたい。若い単身者をターゲットにするならば、この古い間取りの広さを生かして壁をぶち抜き、全面フローリング仕上げの1ルームにしたり、ロフトを設置したりするのだろう。しかし、ターゲットは武雄と同年代もしくは、それよりも上の高齢者だ。

武雄は、整形外科のリハビリ室で老人たちの行動を毎日、注意深く観察した。そして、ある単純なことに気付いた。彼らは忘れるのだ。彼らは、昨日も一昨日も喋ったことを、まるで最新ニュースのように話す。診察券もよく失くす。決してボケているわけではない。齢をとれば記憶の空き容量が少なくなるのは誰だって同じだ。しかし、よくよく考えると忘れるということは生活の安全を脅かすことに直結しているのだ。火の切り忘れ、鍵の閉め忘れ、風呂の空焚き。どれも、重大な事故に繋がりかねない。

ということは・・・。武雄はカリスマの教えに従い、忘れっぽい住人たちのために、思い切って台所のコンロは全てIHヒーターに、玄関には鍵の必要ない番号入力式のオートロックキーを、そして風呂には自動給水機能を採用することにした。歩行にも配慮し、転倒しても危なくないフローリング風ビニールタイプの床、廊下・トイレ・浴室には手摺を設置することにした。年寄りにはブロードバンドもインターネットの使い放題も必須ではないのだから、これらは必要な投資だ。

カリスマの教えその三。使えるものは使う。何もかも取替える必要はない。設備そのものはちゃんと生きている水回りは、塗装やタイルの交換などで美観を整えるに留め、内装はなるべく安価に済ませることにした。といっても、武雄たちのような種類の人間は美意識の高いことが多く、見た目の美しさにはこだわった。既存の押入れはクローゼットタイプに変更し、その広さを生かして布団の出し入れが容易なようにキャスターのついた布団収納棚を標準設置するというミッチーのアイディアを採用した。部屋の段差はそのまま残すことにした。資金的に難しいのもあるが、武雄はバリアフリーは身体の動くうちには必要ないのではないかと考えた。祖母は病気になるまで高齢でも畑仕事に出てピンピンしていた。ひとたび外に出れば段差だらけなのだし、なるべく若い時と同じように身体を動かしておいた方が心身ともに良い結果を生むような気がしたのだ。

カリスマの教えその四。外装は絶対に手を入れること。やっぱり人間も物件も第一印象は重要である。部屋が古くても外装を美しくするだけで住み手がつくことがあるほどパワーがあるそうだ。

ボロボロだった階段と廊下の手摺は、錆びにくいアルミ製のものに取り換えた。外壁はミッチーの提案通りレモンイエローのペンキで塗り替える予定だ。

武雄は工事の邪魔にならないよう外に出ると、足場を張り巡らせたアパートを見上げた。乏しい老後の資金のほとんどを使い果たし、こんなことをして一体これから自分はちゃんと生きていけるのだろうか。しかし、このアパートが最後の住み家になるのだと思うと、不思議とたまらなく楽しい気持ちになるのだ。故郷を捨ててから初めて、帰る場所を見つけたような気がした。

武雄は庭の端っこで崩れかけた花壇に目をやった。そうだ、レンガと花の種を買いに行こう。素敵なスコップや如雨露(じょうろ)も。武雄は思わず微笑んだ。人生最後の引越しくらい、ワクワクしたって良いではないか。



 アパートの改装工事が始まってから一月程した頃からだった。あんなにメールの苦手だったサユリから三日と空けずにメールが届くようになった。その内容は、治療の辛さを訴えるものばかりだった。医師の言っていた通り、治療の本当の辛さは術後からだった。放射線治療の副作用は一週間ほどで現れ始めたようだ。

「口が痛い」、「口が熱い」、「口の中が溶けちゃいそうなの」、「もう本当は治らないのよ」、「駄目。もう限界かもしれない」・・・。日を追うごとにサユリの言葉は弱気と疑心暗鬼に塗りつぶされていった。

その度に叱咤激励の言葉を送るのだが、武雄自身の心も自然、重くなっていった。それでも、たまに皆で見舞いに行って、アパートの仕上がり具合をミッチーから教えてもらうと、サユリの気持ちは落ち着くようだった。興味なさそうにしていたくせに、ここはもっとこうした方がいい、ああした方がいいだの、口出しをしてくるのが多少、面倒ではあるが。

 声を出すことを許されるようになったものの、お喋りの上手かったサユリの口は、すっかり不自由になった。何度か話すうちに言っていることの八割方は理解できるようになったが、初めて会った人にとっては何を言っているのか解らないだろう。毎日リハビリを続けているようだが、なんせ舌を三分の二も切除したのだ。どこまで回復するかは予測不能だ。

武雄は、舌がないと、どんな感じになるのだろうと、試しに舌を動かさずに喋ったり、物を飲み込んだりしてみた。喋ることにおいては、舌を上顎につけて発音しなければならないタ行やラ行は無理だった。食べるのもかなり困難だ。舌は味わうだけでなく、咀嚼した食物を口の中で一箇所にまとめ、少しずつ喉に送り込む役目をしていることも初めて解った。サユリは人間にとって何と大切な部位を奪われたのだろう。気分が落ち込むのも無理はない。

サユリの身体は、みるみるペシャンコになっていった。胃に開けた穴からの栄養剤のみで生きているので、その体重は術後二か月で二〇キロも減少した。これでは念願のダイエット成功も嬉しくないだろう。パジャマ姿の、すっかりペラペラになったサユリは、オヤジを通り越して、いつの間にか老人になっていた。自分と同じ分だけ生きてきた人間が急激に老いてゆく姿を目の当たりにするということは、とても心細い。ひどく遠いところまで歩いてきてしまったことに、ふと気付かされる。

「え?何言ってるか分んないよ」

ミッチーが何やら話すサユリに向かって遠慮なく言う。

「わあいを へあは ひんうあ いい」

「わたしの ヘアーは 品がいい?」

「ちがうわよ!」

「あれ!『ちがうわよ』は上手いじゃん。『ちがうわよ』って十回言ってみて」

「ちがうわよ、ちがうわよ、ちがう・・・」

「上手い、上手い!」

素直に繰り返すサユリを見て、ミッチーは声をあげ、嬉しそうに笑う。

「『わたしの部屋はピンクがいい』って言ったのよ」

武雄が言うと、ミッチーが確かめるようにサユリを見た。サユリが頷いた。

「タケコ姉さん、やっぱ、すごーい。以心伝心」

「冗談じゃないわよ」

「でも、趣味悪いから却下ね」

そう言ったが、翌日、ミッチーは知り合いの業者にピンクのクロスを発注してやっていた。

 



☆家賃3万円。


☆敷金・礼金不要。


☆一日一回、24H常駐管理人による“お元気確認”で安心!


☆IHヒーター、自働追い炊き機能、番号式オートロックキー完備でさらに安心・快適生活!


☆ご希望の方には、お好きな色・柄の壁紙を選んで頂けます


☆お出かけタクシーによる送迎や、月一回のレクリエーションで元気に楽しい生活を!(自由参加)



「こんな感じでどうですかね」

カリスマが、工事の様子を見学に来ていた武雄と堺さんにA4版の紙を一枚ずづ手渡した。入居者募集のチラシだ。

アパートは外装補修を終え、一部屋だけ内装まで完成した。一部屋だけ先に仕上げたのは、モデルルームとして使うためだ。アパートの完成に先立ち入居者探しを始めるのだ。

 武雄は紙面に目を落とす。澄んだ秋空の空で撮影された外観のレモンイエローは、大きな白い雲とのコントラストが素晴らしい。室内は、床と壁の白が清々しい。あえて洋室の一部に残した畳スペースは日当たりが良く、モダンだが暖かみがある。写真の下にはアパートの宣伝文句がバランス良く配置されている。

最後の“お出かけタクシー”というのは、武雄のアイディアだ。高齢者の暮らすアパートの管理人と言っても、自分自身も若くはないのだ。身体を動かさないのは良くない。ミッチーの運び込んだ本の中で、介護タクシーの申請というのは、自家用車さえあれば、わりあい簡単であることを知った。ちょっと遠い場所への買い物や病院通いをする住人のために、アパートに介護タクシーを常駐させてはどうかと思ったのだ。料金は距離ではなく時間制にすれば利用者の負担も少なくなる。しかし、中古だとしても自家用車の購入・維持費用を考えると採算がとれるだろうかと武雄は心配していた。相談するでもなく皆に話したところ、意外にもカリスマが反応を示した。カリスマは日常の送迎に加え、月一回の日帰り旅行を企画し、参加希望者の送り迎えをするのはどうかと提案した。料金はやはり時間制にして、利用者にとっては乗る人が複数いれば折半して払えばよいので民間の交通機関を使うよりも安いし、自分たちのことを良く知っている人に付き添ってもらうのは安心感もあるという。どんどん歳をとっていく入居者の引き込もりを防ぎ、心身共に健康を保つ効果も期待できる。そして、カリスマの考えには隙がなかった。彼は近くのデイ・ケア施設や病院も回り、アパート常駐のタクシーを外部の人にも利用してもらおうと考えたのだ。もちろん希望者がいれば月一回のレクリエーションに参加してもらうこともできる。

「みんな年寄りの一人暮らしを面倒がるけど、僕は入居者として彼らは優良顧客だと思うんですよ。しかも長期安定型のね」

武雄はカリスマの言葉に深く頷く。

「一度、入居すれば長く住んでくれる可能性が高いんです。加えて、やはり彼らは世代的に真面目なんですよ。僕の親世代になるんでしょうけど。家賃滞納も少ないし、近隣に迷惑をかけないように生活してくれる人が多いと思うんです。このアパートのように、ちょっとしたサービスを追加するだけで、もっと気軽に高齢者に家を借すことができる。なんか嫌じゃないですか。まだ元気なのに介護付老人ホームとか。それに、財産を守る苦労を抱えて暮らすより、出来るなら若い時と同じように賃貸で自由に暮らしたいって、僕なら思うけどな」

そんな風に金に執着しない彼が若き資産家だというのだから面白いものである。どうかミッチーと別れませんように。武雄は心からそう願った。

「カリスマが作ってくれたんだからね。大丈夫だよ!絶対、集まるって。堺さんも頼りにしてるからね!」

いつの間にか現場の人たちの弁当を両手に下げたミッチーがチラシを覗き込んでいた。

「おう。任せとけ!ここいら沿線のオカマに片っ端から宣伝してやっからよ」

堺さんが胸を叩く。

「ところでここ、まだ空けてあるんですけど」

カリスマがチラシの一番下を指差した。アパートの名前だ。

「うん・・・。まだ迷ってるのよ。もう少し待ってもらえるかしら」

「よく考えたらいいよ。なんせタケコ姉さん、ここで死ぬかもしれないんだし」

ミッチーは武雄の肩を叩いて一人頷く。

「うるさいわね。あんただって、わたしが死んだ後は、ここの管理人になるのよ」

「あ、そしたらタケコ姉さんも幽霊になったらいいじゃん」

何やら想像して笑うミッチーを呆れた目で見ていると、ふと、みんな死ぬんだな、と武雄は思った。幽霊になったハナさんも、これからここで暮らす人たちも、そして自分自身も。誰かを見送るのは辛いけれど、ミッチーが言うように幽霊になりたいと思えるくらい、ここで楽しい最後を暮らせたら嬉しいではないか。



 遠い昔の夢を見た。武雄の顔には、まだシミも皺もなくて、お洒落と好きな男のことしか考えていない。狭いアパートでテレビを見ながら鍋からラーメンを啜り、サユリと笑い転げている。サユリは、いつも一人前で足りると言ったのに、やっぱり食べ終わると、もう一人前作ってくれという。ラーメンを美味しそうに啜るサユリは時々コホコホとむせる。熱いものを食べる時はいつもそうだ。美味しそうに、たくさん食べている。

ああ、楽しい。今が一番楽しい!

 

目が覚めたら、六十五歳になっていた。自分は皺だらけのオカマに、サユリは、胃の真ん中に穴を開けたペラペラのジイさんになっていた。

枕に、ふいに涙がこぼれた。最近、哀しみや不安が、こんな風に朝の布団の中で突然やってくる。歳のせいだろうか。武雄の枕を半分占領しているモドリの暖かい毛玉がありがたい。武雄は頬ずりをすると布団から抜け出した。今日は特に用事はないが、こんな時は無理やりにでも起きて、外に出た方が良い。

そう思ってコーヒーを入れていたら、電話が鳴った。堺さんからだ。

「タケコ、来たぞ。バアさん・・・いやジイさんか」

「え?」

「入居希望者だよ」

 今は堺さんの息子が社長をしている不動産屋に行くと、奥のソファに、なぜか鼻の下を伸ばした堺さんの顔と、彼と向かい合って座る女性の後ろ姿が見えた。

堺さんが武雄に気付いて手招きをした。

「どうも、お待たせしまして」

武雄は入居希望者の顔を見た。初めまして・・・と言いかけて武雄は目を見開いた。

「嘘でしょう・・・」

「久しぶり。タケコちゃん」

「おや、知り合いか」

堺さんが二人の顔を交互に見た。武雄は半信半疑のまま頷いた。でも間違いない。花楓ママだ。駆け落ちした男と別れ、行く場所もなくなった武雄を雇ってくれた花楓ママ。あの時から武雄の新しい人生が始まった。

武雄は改めて彼女を見つめた。黒髪を後ろで一つに縛り、形の良い額を出したヘアスタイルも、華やかな顔立ちもそのままだ。目尻に刻まれた皺は深いが、やっぱり綺麗だ。その辺を歩いていたら、引退後の女優くらいには見える。誰も男だなんて思わないだろう。

「俺は、こんな綺麗な人、女でも見たことねえべ」

堺さんの不躾な視線にも花楓ママは涼しい笑みを浮かべている。

「それにしても、どうして・・・」

「まあ座んなさいよ」

武雄は、花楓ママの隣に腰を下ろした。そして、思わず彼女の手を両手で包んだ。赤いマニュキュアをした手は、しっとりしているけれど、無数に深い皺が刻まれている。聞くと、来年で七十五歳になるそうだ。

「ママ、元気だった?」

武雄の胸に、いっぺんに色々な思いが込み上げてきた。店を離れ、サユリと店を持つことになった時、花楓ママは武雄に幾ばくかの退職金を持たせ、快く送り出してくれた。いい年をして男に金をだまし取られ、世話になった花楓ママに恩返しもできないまま店を離れてしまった自分の不義理を、武雄は、いつも心のどこかで後悔していた。十数年前のことだが、武雄は一度、花楓ママの家に電話をしてみたことがある。しかし、もう引っ越したのか繋がらず、かつて働いた店もなくなっていた。

「懐かしいわねえ。わたしもすっかりバアさんになったでしょう」

武雄は首を横に振った。

「変わんないわ。でも、嬉しい。まさか会えるなんて・・・」

「私もびっくりしたわ。ほら覚えてる?坂本先生。タケコちゃんのこと気に入ってた気前のいいお医者さん」

武雄の脳裏に、いかつい体つきをした目つきの鋭い男性客の顔が浮かんだ。見た目と違い、話せば気の良い人で、酔って機嫌が良くなると、必ず梅沢富雄の『夢芝居』を歌っていた。武雄の鼻の奥に一瞬、当時の匂いまでが蘇えってきて、懐かしいような、切ないような気分になった。

「その坂本先生がね、最近、息子に総合病院を任せて、この近くで糖尿病専門のクリニックを開業したのよ。私も糖尿をかかえてて、坂本先生にお世話になってるの。相変わらず先生、遊びが大好きでね。ジジイのくせに最近、女装にも目覚めたそうよ。で、どうやってか巡り巡って先生のもとに、面白いチラシが回ってきて、わたしに紹介してくれたってわけ」

花楓ママがカリスマの作ってくれたチラシを指でつまみ、ヒラヒラとさせて見せた。

「場所を見てピンと来たの。すぐにタケコちゃんの顔が浮かんだ。でも、まさか本当に会えるとはね・・・」

それから花楓ママは、武雄が店を離れてからの経緯を話して聞かせてくれた。

武雄が辞めてしばらくした頃から、店の売り上げは落ちる一方になったそうだ。世の中のニューハーフブームも去り、バブル崩壊の煽りを受け、とうとう店をたたむことになった。しかし、もともと商才のある花楓ママは、その後、まだ女に目覚める前に勤めていたという大手下着メーカーのノウハウを生かし、ランジェリーブランドを立ち上げたそうだ。もちろん普通の女性も身に着けられるものだが、花楓ママ曰く、性別不明の人たちも購入できるよう豊富なサイズとデザインを展開した。しかもテレビ通販を中心に売り込んだのが勝因だった。まだインターネットが普及していなかった時代である。店頭でランジェリーを買いづらい人も購入できたのだろう。順調に業績を伸ばしていった。

「 ブラック・カモミールって知ってる?」

花楓ママは傍らの髪袋から黒のガーダーベルトがついたセクシーなパンティを出してみせた。武雄は驚いた。よく夜中のテレビ通販番組で紹介される下着ブランドだ。なぜか3Lだとか4Lサイズから売り切れていくのだ。武雄も気に入って何度か購入したことがある。

「まさかママが、あのブランドの社長なの?」

花楓ママは頷くと、下着の詰まった紙袋を武雄の前へ置いた。なぜか堺さんが受け取ろうとするので、慌てて武雄が奪い返した。

「でも、なんでそんなお金持ちがこんなアパートに?」

「そんなに持っちゃいないわよ。なんか嫌になっちゃって。何処で嗅ぎつけたのか、私のことを一家の恥だって言ってた家族や親戚が、金をくれだの貸せだのって連絡よこしてきたわ。いいのよ。実際たくさん迷惑かけたわけだし、出来ることはしたいって思ってるんだけど、なんか最近ふと虚しくなっちゃったのよ。わたしって結局、一人だったんだなって」

花楓ママは、顔を歪めるようにして笑うと、去年の暮れ、一緒に暮らしていた人が亡くなったのだと言った。きっと、大切なパートナーだったのだろう。彼女の哀しみを思うと胸が痛んだ。しかし、その歳まで心の通い合うパートナーを持つことのできた彼女が武雄には羨ましくもあった。

「そろそろ潮時。頭も歳とって、新しいことも思いつかなくなってきた。会社は甥っ子に任せて私は引退するつもりよ」

「でも、花楓ママならもっといいとこに住めるでしょ」

花楓ママはかぶりを振ると「ねえ、早く部屋を見せて」と、待ちきれない様子で武雄の顔を見た。

武雄は少しばかり困惑しながらもアパートの鍵を持って立ちあがった。

「なに、あの人めっちゃ綺麗じゃん」

工事中のミッチーが興奮して武雄の元にやってきた。

モデルルームに上がると、花楓ママは窓やドアを開け、部屋のあちらこちらを見た。今は、さぞかし素敵な家に住んでいるのだろう。こんなところでは満足できないのではないか。武雄は心配になった。

「狭いから大きな高級家具とかは置けないけど・・・」

武雄が不安そうに花楓ママの背中に声をかけるも、彼女は満面の笑みで振り返った。

「契約書ちょうだい」

と言った。

「え?」

「だから、必要なんでしょう?入居するには契約書」

「本当に、ここでいいの?」

「ここがいいの」

花楓ママは満足そうに小さな窓から見える広い空を見上げた。


「サユリちゃんは元気?」

帰りの道すがら、花楓ママが武雄に尋ねた。

「ああ、あいつなら相変わらず死にぞこないで頑張ってるけど」

武雄は浦安に店を持ってからの三十年間のこと、そしてサユリが今は入院中であることを話した。

「そう、癌に・・・」

聞くと花楓ママの一緒に暮らしていた人も癌で亡くなったのだという。

「大腸癌。なんであんなもんが身体にできるのかしらね。癌て、コピーミスされた細胞なんだって。言わば偽物よね。偽物のくせに、どんどん本物と入れ替わって、根こそぎ栄養を吸い取っていっちゃうの。怖いわね」

色々なことを思い出したのだろう。花楓ママは顔をしかめた。

「ああ、ごめんね。でもサユリちゃんは助かったのよね」

「これからどうなるか分らないけど。でも、悪運の強いやつだから」

「まだまだ長生きして楽しいことが出来るといいわね」

「あいつが長生きしたって楽しくなんかないわよ。昔っから、ろくなことしないんだから」

「でも、やっぱり運命の人なのね。結局、人生の最後を一緒にする羽目になりそうじゃない」

「ああ、やめてよ。なんか背後霊みたい」

武雄は背後霊を振り払うべく、自分の肩を手のひらで叩いた。花楓ママは可笑しそうにそんな

武雄を見ている。

「タケコちゃん、好きな人はいないの?」

「男はこりごり。結局、生涯一緒に居てくれる人には出会えなかった。わたし、何のためにこんな風にして生きてきたのかな」

「みんな同じよ。でもやっぱり、こうなるしかなかった」

武雄は、父に逆らい、家を飛び出した時のことを思い出した。嘆き悲しむ母の声に切り裂かれるような痛みを感じはしたが、同時に、あの時、生まれて初めて幸福というものを感じることができたのだ。結局のところ、心の自由以外に人を幸せにできるものなどないのだろう。そして残念ながら、ここにいる皆は、それを得るために人よりも多くの犠牲を払わなければならなかったということだ。

「そうね。仕方なかったのよね」

武雄は自分へ言い聞かせるように呟いた。そして、ふと思いついて花楓ママに聞いた。

「店にいた他の仲間は?」

花楓ママは首を振った。

「みんな行方しれず・・・あ、でも、サリーって覚えてる?」

武雄の脳裏に、すぐ浮かんだのは、けん玉だった。サユリが行方知れずになってから色々と助けてくれた同じ店の同僚だ。けん玉検定一級という風変りな経歴を持っていて、いつも競馬新聞か本ばかり眺めていた、。弁護士一家の末っ子として生まれ、武雄と同じように父親に厳しく育てられ、自分の心の中で起きていることを誰にも言えず、ずいぶん苦しんだそうだ。得意のけん玉をしている時だけが無心になれる時間で、気が付いたらプロ級の腕前になっていたそうだ。口数が少なく、一見冷たそうにも見える彼女は、しかし話してみると、温かく、サユリとは真逆の、自分自身とよく向き合う内省的な人間だった。深く知るほど親しくなり、武雄が男に騙され無一文になった時は、何も言わず金を貸してくれて、居候までさせてくれた。

「もうずいぶん前のことだけど、彼女から、赤坂で小さなショットバーを開店したっていう知らせがきたことがあったの。私は店を潰して大変な時期で、結局、顔を出せずじまいになっちゃって。確か店のの名前が・・・ カップ・アンド・ボールとかいったかな」

「けん玉」

「え?」

「カップ・アンドボール。英語で、けん玉っていう意味」

「けん玉?なるほどね。やっぱりタケコちゃんは頭がいいわ」

花楓ママは笑うと、サリーの開いたその店は、十年以上前になくなってしまったようで、連絡先もわからなくなってしまったのだと話した。


花楓ママは、武雄に大きく手を振り、改札に入っていった。そして、思い出したように後ろを振り返ると「今度、家具選びに付き合ってくれる?」と嬉しそうに言った。

笑顔でママに頷きながらも、武雄の頭の中では、さっきからずっと、けん玉の音が寂しく響いていた。



サユリから電話があった。と言っても何を言っているのか解らない。しかし、テンションが高いのだけは伝わってくる。

「なんで電話なのよ。メールしてきなさいよ」

「だああ、あいいん」

「あいいん?志村けん?」

「ちがうわよ!あいいん」

「ちがうわよ!は、やっぱ上手いわね」

「あいいん」

「あいいん?・・・あっ、ひょっとして退院?」

「うん、うん!」

「退院が決まったの?」

「うん、うん!」

聴き取り困難を承知していながら電話を寄こしてくるとは、よっぽど嬉しかったのだろう。まだ何か喋っているが、よく解らない。

「おめでとう。よく頑張ったわね。でも何言ってるか、まだよく解らないから、あとはメールにしてよ」

「うう・・・」

何だか不服そうな声だ。

「帰って来てリハビリを頑張れば、そのうちちゃんと電話も出来るようになるわよ」

励まして電話を切りかけた時、武雄は、ふと思いついてサユリに聞いてみた

「あんた、赤坂に昔あったショットバーでカップ・アンド・ボールって知ってる?」

「うぅん?うぅ・・・ああ!」

「何よ、まさか知ってるの?」

「うん」

 十数分後、サユリからメールがあった。今日で全ての放射線・抗がん剤治療を終え、一か月間、副作用で失われた体力の回復を待ってから退院になること、ここまでハードな治療に耐えられる人は珍しいと、先生に褒められたこと、自分がいかに強靭な精神を持つ患者であったかを長々と説明した後、ようやくカップ・アンド・ボールのことが触れられていた。

 武雄から金を借りたままトンズラした後、サユリは、ほとぼりが覚めるまで主に六本木・赤坂を拠点に生活を送っていたそうだ。どうせ嘘ばかりついて回っていたのだろう、ともかく社交家のサユリは、ここでも様々な交友関係を作り、中でも親しくしていたのが、赤坂一の高級クラブのママだったそうだ。女性だが何故だか馬が合い、仕事が終わると、しょっちゅう一緒に飲み歩いていたらしい。

そんなある日の帰り道のことだ。路上で何やら騒ぎが起きている。見ると、中年男が女の胸倉を掴んでいたそうだ。男女の痴話喧嘩かと思ったら、胸倉を掴まれていた方が、女装した男であることに気が付いた。しかし、サユリは、さして興味もなく通り過ぎようとしたが、一緒にいたクラブのママが動こうとしない。どうしたのかと聞くと、ママは胸倉を掴んでいる方の男を知っているという。品よく見えるその男性は「赤坂先生」だと、ママは教えてくれた。赤坂先生は、赤坂の一等地に事務所をかまえる弁護士で、冗談のような名前だが本当に苗字を赤坂というそうだ。赤坂先生は、ママと目が合うと、バツの悪そうな顔をして、そそくさとその場を去っていった。長い髪をしたオカマは、乱れた洋服を直すと、通行人に頭を下げ、小さな店に入っていった。それがカップ・アンド・ボールだったという。普通なら忘れているところだが、赤坂先生の名前のエピソードと、悲しげな顔をしたオカマの顔と重なって、たまたま印象に残っていたらしい。

武雄はメールを閉じると、腕を組んだ。そして、いつかサリーの話していたことを注意深く思い起こした。弁護士一家に生まれた末っ子。ぽろりと漏らした本名は、確か秀一といったっけ・・・。

ベッドの上で壁に背をもたれ、人間の様に座っているモドリと目が合った。武雄はモドリにむかって言った。

「会えるかもね」

武雄の頭には、閃くものがあった。記憶力の良い自分を褒めてやりたくなった。そして、迷惑人間サユリは、こうして意外な時に役に立ったりする。


 武雄の読みは当たった。スマートフォンを使って「赤坂」「 弁護士」というキーワードで検索をかけた。数件ヒットした弁護士事務所に片っ端から電話をかけ、赤坂先生という弁護士がいるかを確認した。赤坂先生は、三件目で見つかった。知り合いの者だと言い、電話を繋いでもらった。

「北原と申します」

「どういったご用件で」

「赤坂秀一さんのことで」

柔和で人当りの良い声が、一瞬にして警戒心を露わにした。やっぱりそうだ。当てずっぽうだったが、サリーが自分の本名を秀一だと言っていたこと、そして弁護士一家の末っ子として生まれたという話から、もしかすると、サユリが目撃した赤坂先生は、サリーの兄ではないかと思ったのだ。

「突然、申し訳ありません。私は彼の友人です。もし御存知でしたら、彼の今、住んでいる場所を教えてくれませんか」

赤坂先生は沈黙したままだった。何か自分の不利になるような要求をしてくる人物ではないか、用心深く考えている様子だ。

 武雄は、サユリからメールで教えられたこと、ちょっと変わったアパートを経営し、入居者を探していることなどを正直に話した。

「弟をそこに住まわせたいと?」

「いえ、元気で暮らしてらっしゃるなら、それでいいんです。ただ、どうしているか気になって」

「あいつにも友達なんて、いたんですね」

赤坂先生は諦めたように息を吐いた。

「弟とは縁を切りました。僕自身、歳をとって、もう感情的な嫌悪感は薄らぎましたが、あいつが一生懸命やってくれた親に背いて、その最後も看取らなかったのは事実です。親が亡くなって、私と弟は他人になったと思っています。彼もそう思っているはずです」  

赤坂先生によると、十年以上前の話だが、行方知れずになっていた弟が、突然、連絡を寄こしてきたそうだ。誰にそそのかされたのか、怪しげな投資話に手を出し、金に困っているという。元に戻れるなどとは思わなかったが、一応、肉親としての情は残っていたし、困っているなら一度だけ金を工面してやってもいいと思った、と赤坂先生は話した。

しかし赤坂先生は、いざ弟の変わり果てた姿を見た瞬間、猛烈な怒りに襲われたのだそうだ。武雄には、赤坂先生の気持ちがよく分かった。

「なんだかね、我慢ならなかったんですよ。あいつだって苦しんだのでしょうが、残された私たち家族も、弟を見捨てたっていう負い目をかかえて生きてきたんです。母が、どんな思いで死んでいったか・・・。それなのに、なんでこいつは、こんな恰好をして能々と生きてやがるんだって」

結局、赤坂先生は金も渡さずに弟と別れたきりになったそうだ。ちょうど、そのシーンをサユリとクラブのママが目撃していたというわけだ。

しかし数か月前、赤坂先生はふと弟の行方を調べたのだそうだ。縁を切ったとはいえ、お互い歳をとった。生きているのか、死んでいるのかくらいは知っておきたかったという。調べてみると、弟はある病院に入院していたのだという。多分、今でも弟はそこにいると思う、と赤坂先生は言った。

「どういう病院かは、ご自分で調べてください」

赤坂先生は、サリーの入院している病院名と場所だけ教えてくれた。恐らく彼は、その病院を訪れたことも、これから訪れることもないのだろう。

武雄は丁寧に礼を言って、電話を切った。



 神奈川県の住宅街からは少し外れた場所に建つその病院は、武雄の思い描いていたイメージとは違って近代的で清潔な建物だった。

 武雄は、赤坂先生に教えてもらった病院について少しばかり調べてみた。そこは、介護療養型医療施設というものに分類されるようだ。武雄は、ミッチーのおかげで、手にすることになった豊富な知識を辿り、それがどういう施設なのかを理解すると同時に、暗い気分になった。武雄の時代で言えば、所謂“老人病院”である。つまり、重度の介護を必要とする高齢者、或いは身寄りがなかったり経済的に貧しい高齢者が長期入院している施設だ。

 サリーがどういう経緯で、そういう場所に入院することになったかは分らない。しかし、ともかく武雄が病院に電話で問い合わせたら、彼女は確かに、まだそこにいるという。

 

武雄は、人気の少ない正面玄関の自動扉を抜けると、受付で名前を記入し、エレベーターで入院病棟のある八階に上がった。

 事務員に教えてもらった部屋を覗くと、年老いた男たちが四人、それぞれのベッドで横たわっている。テレビと繋がったイヤホンから漏れ聞こえてくる音だけが、彼らの生活音だった。しかし、窓際のベッドに背を向けて寝ている男の前にだけは、テレビがない。代わりに何冊かの本が積まれているだけだ。

名札を見た。サリーだ。

ブルーのパジャマに包まれたその背中は、肩甲骨の形がはっきりと見てとれるほど痩せていて、何かを頑なに拒否しているように見えた。かつて艶のあった彼女の黒髪は、しばらく散髪もしていないのか、白髪だらけで、無造作に肩まで伸びている。

 サリーは自分と会いたくなんかないだろうか。武雄は彼女の後ろ姿を見ていたら、そんな気持ちに捕らわれた。手に持ったゼリーの詰め合わせが入った包みを見た。武雄は考えた。自分は、こんなものを渡すために彼女に会いに来たのだろうか。

武雄は踵を返すと病室を出た。エレベーターで下まで降り、受付の女性に、近くにショッピングモールはあるかと尋ねた。

武雄は教えられた場所で目的の物を購入すると、息を切らして病院に戻った。病室に入ると、今度こそ迷わずに声をかけた。

「サリー」

彼女の細い肩がぴくりと揺れた。サリーは、ゆっくりとこちらを振り向くと、疑るような視線で声の主を見上げた。そして、武雄の顔を見て、その目を見開いた。口を開けたまま声も出さない。その、あまりに驚いた顔が可笑しくて、武雄は思わず笑ってしまった。

「元気?」

「見ての通り。頭は元気よ」

サリーは、気まずいような、それでいて、どこか安堵したような表情を浮かべると、その口元に小さな笑みを浮かべた。

「いい場所があるの。外に出ない?」

サリーはそう言って起き上がると、松葉杖を手にとった。長い廊下を歩き、外に出て、手入れの行き届いた院内の庭に出た。サリーは、器用に松葉杖を使い、武雄の息が切れるほど、どんどん先に進んでいく。

「ここ、ここ」

木々に挟まれた細い道を入ると、小さなベンチがあった。サリーは、そこに腰を下ろすと、脇に松葉杖を置いた。武雄も隣に座り、辺りを見回した。なるほど、何本かの木々の間を、秋晴れの暖かな陽光が揺れ動き、小さな人口池を硝子のように輝かせている。サリーが好みそうな静かで美しい場所だ。

と、武雄の足元に、何か柔らかいものが触れたような感触があった。

「下になんかいる」

「ベガよ」

サリーは腰を屈めると、ベンチの下に手を入れた。すると、黒白のキジトラ猫がぴょんとジャンプして、武雄とサリーの間に座った。

「毎日ここに来てたら仲良くなっちゃったの。最初は赤ちゃんだったのよ」

サリーはパジャマのズボンのポケットから小さな袋を取り出し、手の平に中身を空けてやると、ベガという猫に差し出した。どこで手に入れたのか、キャットフードだ。

「あんたと私の仲は内緒なのよねえ。病院の人に怒られちゃうもの」

サリーはベガの頭を撫でた。

「なんでベガなの?」

「アドマイヤ・ベカから頂戴したの。私の大好きだった競争馬の名前。この子、顔が似てるの」

馬と猫の顔が似るものなのか分らないが、モドリに劣らず、なかなかの器量良しではある。

「相変わらず好きなのね。競馬」

「今はやれる身分じゃないけどね」

サリーは、ベガが食べ終えるのを見届け、小さな池の水面に目を移すと「みっともない姿でしょう?」と、呟くように言った。

武雄は首を左右に振ると言った。

「歳って嫌ね。私も最近、鏡を見ると落ち込むわよ。皺だらけの男の顔に化粧してさ、きっと世間の人から見たら気色悪いんでしょうね」

「そんなことない。綺麗よ。タケコは昔から美人だったもん」

サリーは懐かしそうに目を細め、今日、会ってから初めて武雄の顔を真っ直ぐ見た。

「私、来月で退院になるみたい」

「あら、おめでとう」

武雄の言葉に、サリーは自嘲するように顔を歪めると、小さくかぶりを振った。

「おめでたくなんかないわよ。ここを出ても行くあてなんかないんだから」

「そうなの?」

サリーは頷くと、一つ溜息を吐いて、これまでのことを話した。

「ちょうど八か月前。脳梗塞で倒れたの。コンビニで買った幕の内弁当持ったまま。店のおばさんが救急車を呼んでくれて、こことは違う病院に運ばれたの。少し左足に麻痺が残ったんだけど、先生が言うには、寝たきりにならなかっただけラッキーだったんだって。だから、ちょっとの間リハビリしたら帰れると思っていて、住んでいたアパートもそのままにしてきたの。それがさ、ついてない時は、とことんよね。なんと私、病院の階段から落っこちたのよ。見事右足を骨折して、このザマよ。両足使えないようになって、長期入院確定。でも、最初に運ばれた病院は差額ベッド代が高くて、年金暮らしの身にはさすがに堪えてさ。で、なるべく費用の安い病院を探して、何とかここに潜り込ませてもらったってわけ。でも、最近なぜか後遺症の麻痺は回復しちゃって、こうして松葉杖でも歩けるようになったから、もう退院しなきゃいけないみたい。仕方ないわよね。貧乏人の年寄りを長居させても病院は儲からないんだから」

「残しておいたアパートは?」

「今の病院に入院が決まった時に一旦解約した」

「退院したら、どうするの?」

「わかんない。病院の人に色々相談にのってもらってはいるんだけど、いよいよ生活保護かしらねぇ。ほんと、人生って予想外ばっかり。ここは看護師さんも先生も優しいし、ご飯も三食きちんと食べさせてくれるし、この際、もう一回骨折しようかなとか思ってる」

サリーは冗談とも本気ともつかない顔で笑った。

武雄はサリーの膝にアパートのチラシを置いた。

「何これ」

武雄は、自分たちのような一人暮らしの人間たちでも安心して住める場所を造りたくて、古いアパートを改築していることを話した。

「すごい。タケコったら大家さん?」

「大家というか、管理人というか・・・」

「タケコもここに住むの?楽しそうね」

サリーの顔に笑みが浮かんだ。

「まだ空きがあるの。来ない?引越しなら手伝うわ」

しばらく沈黙すると、サリーは「私は、いいわ」と言った。

「どうして?」

「自信がない」

「自信て、何の自信?」

「なんていうか・・・何かを始めたりする自信がないの。何にもする自信がないの」

武雄は、はっとして、持っていた紙袋をサリーに手渡した。さっきショッピング・モールで探してきたものだ。

「何?」

サリーは不思議そうな顔をして紙袋を開いた。そして、驚いたような顔をして、中の物をそっと取り出した。けん玉だ。

「何とかなるわよ」

武雄はサリーの肩を叩いた。

「こんなもの、あったわね」

「ベガが来たいって言えば、連れてくるといいわ」

「ふへははは・・・」

変な笑い声が漏れてきたと思ったらサリーの目から涙が噴き出した。







「ちょっと、もういいじゃない。こんなもん捨てなさいよ!」

「だめよ!そえは使うの」

武雄が壊れた目覚まし時計をゴミ袋に入れようとするとサユリが止めに入る。

「使わないでしょ!それに目覚まし時計がなんで五個も必要なのよ」

一番きれいな物だけを残し、あとのものは無理やり捨てた。サユリは不服そうだが構ってはいられない。

 アパートの完成を間近に控え、まだ体力の戻りきらないサユリの身体を気遣って武雄は引越しの準備を手伝ってやっていた。

一週間前サユリが退院した。家に戻れることがよっぽど嬉しかったのだろう。サユリは経口だけでは充分な栄養を取ることができないかもしれないから、そのままにしておいてはどうかと勧められた胃ろうを無理やり外してもらった。もちろん固形物は食べられない。しかし、介護食や栄養ドリンク、豆腐やプリンを食し、それなりに生活している。根性なしと思っていたが、会話のリハビリも相当がんばったらしく、退院前の何週間かの上達ぶりは目を見張るものがあった。今では何とか電話もできるようになった。

がんばったことはさておき、武雄はサユリの部屋の中を見回して眩暈がしそうだった。武雄の部屋とは対照的に、彼女の部屋には無駄な物が溢れ返っていた。もっと言えばゴミ屋敷寸前だった。

冷蔵庫の中はいつ買ったのかも分らない食べ物がぎっしり詰まっていて、糸を引いた胡瓜が、なぜかそのまま棚に置かれている。

箪笥の中で値札も外されていない服は、汚れた洋服と一緒に丸められ、びっしりと白カビが生えている。

そうかと思えば押入れの中には、ティッシュやヘアスプレーの空き容器が整然と並んでいる。

「なんで捨てないのよ!」

「ねえ、見て。なつかしい」

サユリは、いつの間にか古い写真の入った箱の前に座り込んでいる。サユリは嬉しそうに写真を見せた。武雄は無視するが、サユリは一向気にする様子なく、写真に見入っている。動いても邪魔になるだけだ、そう自分に言い聞かせ、放っておくことにした。

なぜかコレクションのごとく並べられた空き容器たちを次々とゴミ袋に移しながら武雄は思った。こいつは忘れることのできる人間なのだ、と。洗濯物も、買ってきた洋服も、そして捨てるのが面倒だったこのゴミたちも、一度どこかに入れてしまえば、すぐにその存在を忘れてしまえるのだ。そして何事も無かったように新しいことを楽しみ、また忘れていくのだ。良くいえば天真爛漫、悪くいえば病的な健忘症だ。

しかし、と武雄は溜息をつく。サユリの傍には相も変わらず人がいる。この自分を含めて。

「そえにしても大丈夫なの?」

写真を見ていたと思っていたら、いつの間にかベッドに寝そべって鼻をほじっているサユリが武雄に聞いた。

「何が?」

「だかあ、住人たち。七十五歳の胡散臭い金持ちババアとか、けん玉のジュリーとかさあ」

「花楓ママは胡散臭くないわよ。あとジュリーじゃなくてサリーだから」

「なんか変なのばっかい」

「あんたもじゅうぶん変よ」

イラつく武雄のことも気にせず、サユリは大音量で鼻をかむ。武雄は腕時計を見て、はっとした。

「あ、そろそろ時間」

「なんの?」

「今日はこのくらいにして、また明日来るわ」

「どこ行くの?」

「堺さんのとこにアパートの入居希望者が来てるんだって。なんでも若い男の人らしいけど。まあ、ちょっと他のみんなとはコンセプトが違うけど、まだ一つ部屋も埋まってないことだし、一応会ってみるわ」

「わあいも行く」

来なくていいという武雄を無視し、サユリは勝手に後をついて来た。

 

不動産屋でその青年と対面した武雄は、年甲斐もなく緊張に身体がこわばった。奥二重の黒くてしっとりとした目、しっかりと鼻梁の通った鼻、すばらしく均整のとれた上下の唇、並びの良い真っ白な歯。さらにソファに座っていても上背があるのがわかる。がっちりと逞しい胸板をしているが顔は小さい。完璧だ。なぜジャニーズに入らなかったのか不思議でならない。

「柏木智久といいます」

柏木君は深々と頭を下げた。初対面の人間から奇異な目で見られることは慣れているが、彼は全く武雄たちの容姿を気にする様子を見せない。年齢を聞くと二十五歳だという。

「どうしてそんな若い方が?それも、こんな・・・」

「変な年寄りばっかりのアパートだって言ったんだべ」

柏木君の隣で煙草を吹かしながら堺さんが言った。事情を聞くと、とにかく安い物件を探していた柏木君は、今朝ふらりと店を訪れ、たまたまカウンターの隅に放り出していたアパートのチラシに目を止めたのだそうだ。

「今住んでいるアパートが取り壊しになるんです。ひどいボロアパートだったし、次のところも同じような所しか見つからないんだろうなと思っていたんです。ところがリフォームしたばかりで駅からも遠くはないし、おまけに敷金礼金なし、家賃も破格に安いときた。お年寄りが住むんですよね?大学までラグビーをやってましたから、体力には自信があります。いざという時はきっと、お役にたてるかと」

柏木君は深々と頭を下げた。確かに若く力のある男が一人いれば何かと安心だ。しかも何より目の保養になる。

「どうしてそこまで安い物件を?」

武雄が尋ねると柏木君は照れ臭そうに答えた。

「役者をやってるんです。とは言っても小さな劇団で細々と。いい歳して親にも、もうやめろって言われてるんですが。どうしても、やめられなくて」

なるほど、どおりで素人離れした容姿をしているはずだ。こんな姿に生まれたら、自分だってきっと役者になりたいと思うだろう。世間は逸材を見逃している。武雄は本気でそう思った。

「私も役者だったの」

サユリは自慢気に言った。また適当な嘘をついている。若い頃、一回エキストラをやっただけじゃないか。

サユリは時代が自分についてきていなかっただけで、続けていれば自分は間違いなく売れていたはずだと話した。だから柏木君も諦めずに続けることだと力説した。柏木君はサユリの訳の分からないアドバイスにもちゃんと耳を傾けている。顔も良ければ中身も誠実そうな青年だ。

「で、どうするべ?」

堺さんが武雄に尋ねた。

「いいわお」

サユリが勝手に答えていた。何であんたが・・・。心の内でそう呟いたが、武雄の胸の中で、ぱっと一凛、美しい花が咲いた。



冷たい季節を乗り越え、川沿いを挟む桜の木が、可愛らしい蕾を付け始めた頃、アパートは、内外装とも全ての工事が終了した。

「おおっ」

武雄とミッチー、田島先生、境さん、オヤッさん、若い衆、そしてカリスマは、一同横並びになって、太陽の下に映える淡い黄色のアパートを見上げ、思わず歓声を上げた。

「とうとう出来上がったね」

汚れた作業着姿のミッチーがカリスマに腕を絡ませる。カリスマも嬉しそうだ。

 武雄は思った。ここに自分とサユリ、田島先生、花楓ママ、サリー、柏木君、そしてハナさんが暮らすのだ。オカマとイケ面と幽霊。何とも馬鹿らしく楽しい取り合わせだ。

「ハナさん、良かったわね・・・」

相変わらずハナさんの声が聞こえる田島先生は、涙を流し、あらぬ方を向いて話しかけている。やはり若干気味が悪いが、そのうち慣れるだろう。

「ところで、決まりました?」

カリスマが武雄に尋ねた。

「あ、そういえば。もう決まってるんでしょ。早く教えてよ」

ミッチーが武雄の横顔を見た時だった。アパートの庭先に軽トラックが止まった。

「ちょうどいいタイミング」

武雄はミッチーに笑みを向けた。

トラックから、作業服を着た二人の男が出て来た。

「こちらにお願いします」

武雄が男たちを案内すると、皆もゾロゾロとついてくる。

「うん。いいわね」

武雄は、アパートを囲む煉瓦で出来た外壁の入口に立った。そして、右側にボルト・ナットで固定された表札を眺めた。鏡面仕上げの白い石に刻まれた柔らかな曲線を描く黒文字。ちょっと高かったけど、やっぱりこれにして良かった。

「へえ。いいね。タケコ姉さん、やるじゃん」

「なんかよお、タケコらしいじゃねえかよ」

堺さんが鼻を啜った。

「どうせ一緒に暮らすんだったら機嫌よく居てもらった方がいいかなと思って」

武雄が微笑むと、田島先生が表札の文字を確かめるように読み上げた。

「メゾン・ド・ハナ」


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