三人が斬りに来たりて――返り討ち
上様動画がBANされてしまったので、思わず書いてしまいました……
暦は文久二年の八月。未だ残暑の厳しい折。
勝手方勘定奉行の大蔵肥後守は、表二番町に拝領した屋敷の表御殿で、客人を迎えていた。
「早速ですが肥後殿、こちらの品、お持ちいたしました。どうか、お納めいただきたく」
客人――年の頃は三十前、水色の小袖に濃藍色の袴を着けた若い侍が、そう言って紫色の風呂敷に包まれた品を差し出す。
開かれたその包みの中には、表紙の黒い本が二冊入っていた。
「左京殿、こちらは?」
「一冊は、先だってお話のありました、フランスのエンペラー、一世ナポレオンの伝記にございます。フランスの王が放伐せられたる件のレボリューションにつきましても、よくまとまっております。
ただこちら、仏語にございますれば、翻訳の手間はかかります。オランダもエゲレスも、ナポレオンには怨恨の情もある模様にて、よき書は見当たりませぬ故」
「……それは、蘭語にせよ英語にせよ、翻訳には手間はかかるのはやむなきところだが……」
「私を勤仕並寄合にお回しいただけましたら、こちらも急ぎ翻訳いたしますが」
「また戯れを……そのようなこと、私にできようはずがない。それは貴公も承知しておろうに」
「私は、肝煎殿とお会いする機会もなかなかございませぬ故、勘定奉行様にも、何卒お口添えを賜りたく」
二人がそんな言葉を交わしていた、そのときだった。
「なっ、何やつじゃ?! ぐあっ!」
「おのれ! ここを勘定奉行・大蔵肥後守様のお屋敷と知っての狼藉か! ……がっ!」
不意に上がった声。
「何事だ?」
大蔵肥後守は、立ち上がりふすまを開けた。
左京と呼ばれた侍も、右側に置いていた刀を手に取り、左腰に差して立ち上がる。
長屋門から表御殿に至る庭先に、家来たちも十人ばかり進み出てきた。
対するは、長屋門から入ってきた浪人が二人。
一人は鉄紺色の着流し姿の色男、今一人は黒い小袖と袴に身を包んだ痩せぎすの男だった。
「おのれ狼藉者が!」
「早々に立ち去れ!」
大蔵家の家来たちは、刀に手をかけて浪人たちに向かう。
「おいコラ勘定奉行!」
痩せぎすの方が、大蔵肥後守に向かって声を上げる。
「神奈川奉行を抱き込んで、メリケンとの貿易で散々甘い汁を吸い続けてきたが、それも今日限りだぁ! お前らまとめて、この俺が地獄に送ってやらぁ!」
啖呵を切るなり、痩せぎすの浪人は刀を抜き、家来の一人に逆袈裟で斬りかかる。
「なっ!」
突如斬りかかられて、家来は後ろに飛び退く。身をよろめかせたところに、浪人は左袈裟で更に斬りつけてきた。
「貧しい民百姓を他所に私腹を肥やしやがって」
着流しの男が、そう言いつつ刀に手をかける。
「……てめぇたちの腐った根性は死ななきゃ治らねぇ!」
その台詞とともに、着流しの男は振り向きざまに家来の一人に斬りつける。こちらもよろめき、左腕を軽く切られてしまう。
「ま、待て!」
家来二人が斬りつけられて、大蔵肥後守は縁側から庭に降りる。左京もその傍らに続いた。
「な? おのれいつの間に?」
そこに屋内から上がる声。先ほどまで二人が話していた部屋に、いつの間にか見知らぬ男が姿を現していた。
藍色と水色の縦縞の小袖に茶色の袴を着たその男は、屋敷の主と客が置いていた二冊の本をひょいと拾い上げる。
そこに家来の一人が迫ると、男は仕込み杖を突きつけた。
「なっ! 何をするこのひったこり!」
家来はよほど動揺してか、「ひったくり」という言葉を噛んでしまう。
「てめぇらみてぇな薄汚ぇ悪党どもに、こんな本は渡さねぇよ!」
男は下町風の言葉で啖呵を切った。
「勘定奉行、大蔵肥後守!」
そして、着流しの色男がその名を呼ぶ。
「この宮坂英之進が、てめぇの素っ首もらい受ける!」
そう言って、着流しの色男は刀を構えた。
「ま、待て! これを、これを見てくれ!」
大蔵肥後守は、懐に手を入れて、中の物を右手に取ってかざす。
それは、黒地に金色で三つ葉葵の紋所が描かれた印籠だった。
「これは、恐れ多くも水戸烈公より拝領した印籠だ。当家は、烈公ご存命中に格別の恩顧を賜っている。この印籠に免じて、今日はおとなしく引き取ってくれ」
大蔵肥後守は、浪人たちに向けて印籠をかざして言う。
「何言ってんだお前は!」
痩せぎすの浪人が、高い声を上げて、そしてふらりと大蔵肥後守の前に立つ。
大蔵肥後守は、手にした印籠をその相手に向ける。
「……なんだそりゃ」
そう言うと、痩せぎすの浪人は刀を右袈裟で斬り下ろす。
「なっ?!」
大蔵肥後守はとっさに身を引いたものの、印籠は真っ二つに割れ、自身の右手にも切り傷がついた。
その刹那。
ヒュン――と風を切る音が鳴る。
そして、着流しの色男の首筋に、刃がピタリと寄せられる。
水色の小袖に濃藍色の袴を着けた若い侍――左京は、身じろぎ一つせず、刀を構えていた。
その背後で、痩せぎすの浪人の身体がゆっくりと傾き、そして地に崩れ落ちた。
「な……何が起きて……」
大蔵肥後守は、眼前に倒れた浪人の身体を、無傷の左手でひっくり返す。
その胴は、右下から左上へと鋭く切り裂かれていた。
浪人の意識は、既になかった。おそらくは、その命も既に今世にはないだろう。
「て、てめぇ! 何しやがる!」
着流しの色男は、首筋に真剣を突きつけられて、甲高い声を上げた。
「恐れ多くも水戸葵の御紋を斬りたる素浪人を、無礼討ちにしただけですが?」
対する左京は、眉一つ動かさずに淡々と言う。
「てめぇ、何者だ!」
「貧乏旗本の次男坊、それ以上名乗るほどの者ではありません」
着流しの色男に問われた左京は、丁寧な口調で淡々と答える。
「あ、こいつ!」
屋敷に上がり込んでいた浪人が、声を上げて指を指す。
「若様! こいつぁ、神奈川奉行の渡良瀬左京亮だ!」
続く言葉に、着流しの色男の顔が朱に染まる。
「神奈川奉行だぁ? てめぇが黒幕かぁ! でやあっ!」
叫びとともに、着流しの色男は手にした刀を横薙ぎに振る。
同時に、左京――神奈川奉行・渡良瀬左京亮は刀を斜めに斬り下ろす。
「ぐああっ!」
色男は大声を上げて、その手から刀が落ちる。その左袖はまっすぐ切り裂かれ、二の腕から血がにじみ出てきた。
「宮坂英之進殿でしたか。小姓組番頭、宮坂伊予守殿の係累ですか?」
渡良瀬左京亮は、着流しの色男――宮坂英之進の眼前に刀を突きつけて問いかける。
「なっ? てっ、てめぇ、親父を知って……」
「宮坂伊予殿は、家禄二千五百石。ご本人はお役目を退かれても勤仕並寄合でしょうけれども、ご子息は小普請組でしょう。まあ、まずはそちらで学をおつけなさい」
渡良瀬左京亮は、宮坂英之進に向かって、淡々と――否、冷淡に言う。
宮坂英之進は、左腕の血がますますにじみ、もはや抗うこともできない趣だった。
それを見て、渡良瀬左京亮は屋敷に目を向ける。
「お待ちなさい、そこのひったこり」
大蔵家の家来が噛んでしまった台詞のままに言うと、部屋から退こうとした浪人の足が止まる。
「その書は、私が購入して肥後殿に献上したもの。それがなぜ、貴殿の手にあるのです?」
そう言いつつ、渡良瀬左京亮は刀を下段に構えて縁側に上がる。
「今の加役は、取り締まりの相手方たる盗人の手口をまねるに至りましたか?」
渡良瀬左京亮は、室内に進んで男に刀を向けた。
「な、なんのこったか、さっぱりわからねぇなぁ」
「しらを切るならそれでもかまいませんよ。先手鉄砲頭火付盗賊改方加役、坪倉左膳殿」
とぼけようとした男は、渡良瀬左京亮の言葉に両目を大きく見開いた。
「加役のお働きが認められて京都町奉行に御栄転、との噂もお聞きしていましたが……坪倉殿、これは何のお戯れですか?」
そう言葉を続けつつ、渡良瀬左京亮は男に向かってにじり寄る。
「ま、ま、待て、待ってくれ! ……いや、待たれよ! お待ちください渡良瀬様!」
間合いに入られた男は、後ずさりしてふすまにぶつかり、そのまま尻餅をつき、手にした本も取り落としてしまう。
「俺……いや、そ、それがし、家禄わずか千石、京都西町奉行となっても役料通りの千五百石しか入りませぬ! 昨今の京は、尊攘の輩がますます跋扈し、与力同心のご機嫌を取るだけでも一苦労という噂、手勢もなしにお役目など、とても務まりませぬ!」
男――坪倉左膳は、侍言葉となりまくし立てる。
「それで、肥後殿を脅して金子をせしめよう、と?」
渡良瀬左京亮の刀の切っ先が、坪倉左膳の顔に触れる。
「う……いや、その……手勢を、内与力として使う手勢を……」
坪倉左膳は、そこでとうとう土下座した。
「京都のお役目は、ご辞退つかまつります! それがしも、小普請組にてやり直します! どうか、どうか命だけは!」
恥も外聞も捨てて、金切り声で懇願する坪倉左膳。
「……わかりました」
渡良瀬左京亮は、そう言ってため息をつく。
その気配に坪倉左膳は顔を上げ、文字通り目と鼻の先にあった刀の切っ先を見て、ヒィッ、と悲鳴を上げて飛び退いた。
「そこな宮坂英之進殿を連れて、早々に立ち去りなさい。その本は、当然置いて」
その言葉に、坪倉左膳は何度も首を縦に振り、這いずって縁側に向かう。
坪倉左膳は、左腕から更に出血した宮坂英之進を引っ張り、倒れた素浪人の死体は捨て置いて、這々の体で屋敷から逃げ去った。
それを見送った渡良瀬左京亮は、懐から懐紙を一枚取り出して、刀についた血を拭い取り、ひょいと放り投げる。
それから風を切って血振して、鞘に当てた刀をすらりと下げて持ち上げる。束を持つ右手と鞘を押さえた左手が引き合うように近づいて、刀が静かに鯉口に戻った。
放られた懐紙は、素浪人の足下に舞い降りた。
「肥後殿。早々に奉行所と医者を呼び、後始末と手当をされないと。江戸でもコレラの病がまた流行っており、本因坊の跡目殿もそれで先日落命されたとも聞きます」
その言葉に、無傷の家来たちが駆け出した。
「いや、不覚を取ってしまった。水戸の印籠なら、尊攘の輩も退いてくれると思ったのだが」
右手の傷を押さえつつ、大蔵肥後守が言う。
「そうお考えになるのが当然でしょう。葵紋を斬るなど、無礼にもほどがあります」
そう言うと、渡良瀬左京亮は開かれた門に目を向ける。
「直参旗本にしてあのていたらくとは、世も末にございますな」
――時は文久二年八月。江戸幕府の崩壊まで、既に六年を切っている。そのことを知る者は、この場にはいなかった。
文久二年八月は、西暦でいうと1862年8月25日から9月23日までです。
時代劇定番のシーンだけを抽出しました。
長崎奉行と勘定奉行は時代劇の悪役の定番ですが、だからといってずかずか乗り込んで「斬る!」とか言い出したら、正当防衛くらいされるよね?というお話です。
(まして神奈川奉行は、遠くで私服を肥やすとかそういう性格のお仕事ではありませんので)
このお話では、視点キャラのいない完全客観描写を試してみました。
あと、諱にも一切触れていません(「大岡越前守忠相」の「忠相」には触れない形)。
そもそも、水戸烈公(徳川斉昭・万延元年八月十五日(1860年9月29日)薨去)と本因坊の跡目殿(本因坊秀策・文久二年八月十日(1862年9月3日)にコレラで死去)以外は史実の人名ではありませんが。