第九話
背景にロックバンドの三重奏を乗せて、一年の文化祭は華やかに幕を閉じた。
しかし、それからはとくに変わりなく平凡に平穏に日常は過ぎていく。時に訪れるのは優也との衝突というカップルにありがちな倦怠期。気だるくて不穏な日と優しくて甘い日が交互にやってくる。
しかし、進路という壁が立ちふさがれば、二人の生活は険悪一色となり果てた。その流れはどうにも止められないようで記憶のフィルムが急速に回転し、その終着点で景色は寒々しい別れの模様を描いた。
***
「――涼香、聞いてる?」
意識が徐々に目の前の現実を受け入れ、涼香はハッと我にかえった。
ぼうっとしたまま見返すと、優也は固い声で言った。
「ごめん、涼香……別れてほしい」
風が凪いでいき、あたりはやけに静かだ。夢から醒めたかのように突きつけられる現実に涼香は瞳を泳がせた。
「えっ……どうして……」
告白の時間も場所も上書きしたはずなのに、未来は同じ道をたどっている。まるで水の中へ放り込まれたかのような、そんな気持ちだ。
「……ほら、もうすぐお前も受験だろ」
「………」
「俺はスポーツ推薦の枠が取れたし、うまくいけば進路はそっちになるし」
「………」
「遠距離になるだろ」
「………」
決められたセリフを吐くように優也の口が動く。その声もだんだんフェードアウトした。
悔しい。胸の中は冷たくて、なんだかザラザラする。頭が痛くなってくる。全身に力が入らないのに、それでも足はしっかりしていた。息をすると肺が苦しい。
「なんで……?」
――だめ。
「なんで、別れるなんて言うの?」
――だめだってば。やめて。
「私、優也のこと……」
「ごめん。涼香」
声を掠め取られたように遮られ、もうなにも言えない。ぐっと言葉を噛み殺さないと、感情に押しつぶされそうで怖い。
しばらく優也は黙りこくった。その間、空を見上げて目を乾かす。絶対に涙は見せたくなかった。わがままを言って、優也を困らせたくない。
「ごめんな、涼香。でも、このままズルズルとやってくほうがだめだと思うんだ」
優也は優しいから、ちゃんと考えてくれている。お互いの時間のことを考えて考えて、考えた末の結論がそれ。頭では理解している。
「俺、バスケを続けたいんだ。プロになりたい。その夢が目の前まできてるんだ。どこまでやれるかはわからないけどさ。だから、その夢にお前をつき合わせるのは、違うなって思って。それに、俺もいまはバスケに集中したい」
地元を離れて夢を追いかける。その足かせになるわけにはいかない。もし、優也が夢の途中で挫けても、すぐには飛んでいけない距離まで離れる。そのうち、メールや電話だけでは満足できなくなる。逆もある。物理的に離れてしまえば、心も遠くなっていく。そうなると、お互いにダメになってしまう。そんなこと、頭ではわかっている。
「俺、ほんと最低だよな……でも、両立できるほど強くない。お前のことを傷つけるかもしれない。だから」
名は体を表すとはよく言ったものだ。この優しいひとを手放すのが惜しい。
涼香は宙を見上げ、息を吐いた。完敗だ。優也の思いを否定できるわけがない。
「じゃあ、しょうがないよね……わかった」
我ながら物分りがいいと思う。しかし、きれいな終わり方は――思いつかない。
見上げると、そこには薄く白んだ空。桜の木は秋風に震えて葉が萎びている。突如、舞い上がる風で砂と枯葉が旋回する。
呆れるほど、最初の世界と同じだ。
***
別れから三日。文化祭準備も佳境に入るこのごろ、涼香は心ここにあらずだった。頼まれた備品のチェックをしているが集中できない。
ふと、上空が陰った。見上げると後ろ向きの男子生徒が迫っている。彼らは教室の飾り付けをしていたようで、涼香が足元にいるとは気づいていない。
涼香の背中にふくらはぎがあたり、彼はそのまま後ろに倒れこんできた。
「うわっ」
「えっ、ちょっ! 待って待って……!」
とっさには避けられなかった。前のめりに倒れこみ、目の前にあったペンキ入れに手をつっこむ。
黄色。どろっと、ぬめやかな絵の具をつかんでしまった。油性のアクリルインキがべったりと涼香をおそう。
文化祭の準備で大忙しの教室がしんと静まりかえった。
「大楠さん、大丈夫!?」
いっときの間が空いて、羽村が駆け寄った。
「うっわー、最悪。絵の具まみれじゃん! 川本、ちゃんと見なさいよ!」
倒れこんできた男子にすぐさま叱りつける羽村。そんな彼女に、涼香は慌てて言った。
「いいよいいよ。気にしないでー」
――あぁ、また。
この光景、なんだか見たことがある。デジャブってやつだ。でも、前はもっと最悪な状況だったはず。はっきりと覚えているし記憶にも新しい。まるで記憶のフォルダがもう一つあるみたいだ。
涼香は頭を振って手を守るように覆い、廊下の手洗い場へ小走りに向かった。
手についた絵の具は全然落ちない。爪の間や指紋にしつこく残っていて指がふやけそう。しかも、よりによって黄色。いまのブルーな気持ちとは正反対でムカついた。ついてないっていうレベルじゃない。
「あれ? 大楠?」
背後から呼ばれた。ハスキーな柔らかい声。後ろにいるのが明だというのは、すぐにわかった。
「はーい、大楠でーす」
振り返らずに間延びした返事をする。気分が悪かったので、声音は随分とふてぶてしくなった。
「どうした? 大丈夫? 絵の具につっこんだの? あーあ、やっちゃったね」
「うーん、まぁ、うん。事故に巻き込まれてさ」
「事故!? なにそれ、やばくない? 大丈夫なの?」
「大丈夫だから。本当に大丈夫」
過剰な反応が鬱陶しい。冷たく突っぱねてポニーテールをひるがえせば、明はすぐに不安の色を崩した。
「大楠」
彼は頬を引きつらせて笑った。
「落ち込んでるよね?」
「別に」
「あれについては、大楠が気負うことはないからさ、元気出しなよ」
涼香は居心地が悪くなり、目を伏せた。明の笑い声がだんだん枯れていく。彼は目をそらして首筋を掻いた。
心配されるのは苦手だ。よどんだ空気を払拭しようと、涼香は息を吸い込んだ。
「もう大丈夫だよ。優也もいろいろ考えてくれたんだしさ」
「嘘。そんなこと思ってないくせに」
「嘘って、あんた。私のなにを知ってるのよ」
「知ってるよ。クラスはずっと違ったけど、二人がずっと仲良くて、どっちも思い合ってるのなんて。二年も見てればわかるよ」
明は常に応援してくれていた。優也が悩んでいるときは真剣に聞き、また涼香の悩み相談も受けてくれる。バスケ部ではプレーでも人間関係でもフォローがうまいとか。散々、優也から聞いている。それがまた優也の面影を浮かばせるから胸が痛む。
彼の優しい慰めがひどく耳障りだ。
「でもまぁ、忘れてしまおうよ。いつまでも引きずってたって、状況は変わらないし、優也も覚悟決めて……」
「やだ!」
思わず両耳をふさいだ。濡れた手から水滴が鼓膜へ入り込む。自分でも驚くほどに大声が出てしまい、たちまち空気が凪いだ。飛び出した拒否の声に明が固まってしまう。
心にヒビが入る音がした。もう見て見ぬふりができない。
「お願い……これ以上、私を惨めにさせないで」
涼香の声を、明は真正面から受けて息を飲んだ。冷たくて暗い、張り詰めたものが淡々と空気を圧迫する。
そのとき、二人の間にこころの鋭い声が割り込んだ。
「涼香!」
文化祭実行委員の彼女は、頼まれていたものを運ぶ途中だったらしい。段ボールを両手に抱えたまま涼香の元へ走ってくる。
「ちょっと、杉野くん! 涼香になにしたの?」
「なにもしてないよ」
敵意を向けるこころに、明は慌てて両手を振った。
「僕はただ、大楠を慰めようと……」
「じゃあなんで、涼香がつらそうな顔してるの? おかしいよね? どういうこと?」
「こころ、大丈夫だから。明は悪くないから」
しがみつくようにこころのカーディガンをつかむ。すると、こころは険悪な空気をわずかに解いた。
「そう? でも、杉野くん、傷心の女の子にすぐ近寄っちゃだめだよ。誤解されてもしょうがないんだから」
ビシッときつく言い放たれれば明は言葉に詰まり、枯れた苦笑を漏らした。
「あー、うん。ごめん。そうだよね……」
「もう! 気をつけなさい!」
ようやくこころの声がおどけた調子に変わる。涼香はほっと安堵し、明を見やった。彼も目元を緩めている。そして、ため息混じりに言った。
「……でも、このタイミングで別れるなんて、意味がわからないよ。僕もあいつとは付き合い長い方だけど、ほんと理解不能」
こういうときに限って、彼のフォローは裏目に出る。かえって逆効果となり、涼香は無言で教室へ戻った。
「んもう! 杉野くんのバカ!」
こころの罵声が飛び、明の不満そうな唸りが背中を突き刺した。