第八話
「おい、大丈夫か? 具合悪い?」
涼香は顔を上げて彼を見つめた。動揺を悟られたくないのに、すがるように見てしまう。
「ごめん、大丈夫。全然、平気……」
「無理すんなよ。顔色悪いぞ」
「う、うわー、最悪。寺坂に見られたー」
あえて抑揚のない声でおどけたが、虚しいだけだった。優也は笑ってくれない。心配そうに肩をつかんで、中庭へうながされる。ちょうど、ベンチがあったのでそこに座らされた。彼は涼香の前に仁王立ちする。
「全然来ないからさ、不安になって来てみれば。具合が悪いなら、わざわざ来なくてよかったんだよ」
「だから違うってば! ただ……ちょっと……」
なんて言えばいいんだろう。頭の中がぐちゃぐちゃでまとまらない。
——いまの私は、一体どこにいるの?
急に足元が見えなくなってしまい、怖気づいた。そんな不安を彼に話したところで解決するはずがなく、むしろ変な目で見られそうで怖い。
その時、グラウンドからの大歓声が突き抜けた。
『どうもー! 軽音楽部期待の新星、BreeZeでーす! 今日は本当に楽しかったです! ありがとう!』
郁音が所属するバンドが登場したらしい。部長の麟が元気よく声を張り上げる。
『初めてつくった曲を、いまから披露したいと思います! みんな、盛り上がっていきましょう! popshower!』
その前振りから、すかさずドクンと心臓が跳ねるようなベース音がはじけた。ギターとドラムが重なる。アップテンポの曲が、どうにもこの場にそぐわない。
『怖気づいたって 世界は待ってくれないんだ 切り拓いてけ いまそこに新しい世界が待ってる』
爆音と爽やかな詞が駆け抜けた。随分と荒っぽく力強い詞。あのときと同じ。でも、シチュエーションが少し違う。
背中を押すようなフレーズを受け、先に動いたのは優也だった。
「なぁ、大楠」
「はい……」
優也につられ、涼香もかしこまって返事する。その反応に優也は顔をしかめて笑った。えくぼがへこんで、くっきりと見える。
「なんか今日のお前、いつもより女子っぽい」
「はぁ? なによ、その言い方! 私、これでも一応女子なんですけどー」
ひどい言い草につい文句を飛ばしてしまう。すると、優也は安心したように笑った。
「そうそう、それ。やっぱそっちのほうがお前らしい」
「かわいくなくてごめんなさいねぇ」
「別にかわいくないなんて言ってねーだろ」
優也はゆるゆるとしゃがみこみ、涼香を見上げた。目と目が合い、同時にそらす。
「……俺が呼び出したのはさ、お前に話があって」
「うん」
「えーっと……」
声が徐々にトーンダウンする。彼も緊張で言葉がうまく出てこないらしい。それはわかっていたが、彼の言葉を聞きたいばっかりに思わずせっついた。
「なに?」
「いや、えーっと、だから……」
「もう。はやく言ってよ。あんた、朝からずっとそんな調子じゃん。こころがどれだけ世話を焼いてくれたと思ってるの」
「そうだけど! あー、くそっ。なんでバレてんだよ」
「ほら、早くして」
いらだたしく急かしたら、彼の口はますます固くなった。
いつもこうだ。普段はおしゃべりなのに二人きりになると黙り込んでしまう。それをからかうのが楽しく、あの不安が一気に吹き飛んだ。
涼香はライブの音に合わせてパタパタ足踏みをした。
「BreeZeが歌ってるよ。『怖気づいたって世界は待ってくれない』『グズグズすんな 顔上げろ』」
「うーん……」
「『クヨクヨしたって始まらない 愉快な世界で彩ってみせろよ』」
歌詞をそのまま引っ張り出して言えば、優也もうるさそうに顔をしかめてくる。
「あーもう! うるせーな! お前、ちょっと黙れ」
手すりをつかんで、彼は涼香の肩をつかんだ。顔が近い。唇が触れる。彼のまつげが近くて、目の中に入ってしまいそう。頭は真っ白で、体は自分のものじゃないように思えた。
突然のことに時が止まった。
「……っ」
いつの間にか離れる。それでもまだ、息ができない。さっきまで塞がれていた口をなぞって、涼香は目を大きく開かせたまま唖然と優也を見つめた。心臓が痛いほど激しく脈打つ。耳が赤くなっているような気がし、涼香は思わず耳たぶを引っ張った。
すると、優也が慌てて言った。
「ごめん! ほんと、ごめん……いや、だって、お前があんまりにもうるさいから」
無理やりキスしておいて、こちらのせいにするとは何事だ。
「嫌だったら、ごめん。ってか、嫌だよな。ほんとごめん」
彼はしきりに謝り、逃げるように涼香から離れた。手すりを離し、立ち上がる。その腕を思わずつかんだ。
「いや、じゃ、ない……よ」
喉を振り絞って出たのは弱々しく小さな声。思わぬハプニングに頭がついていけない。唇をなめると薄荷の味がして、透き通った爽やかさに甘さを感じた。
「だから、ごめんとか、言わないで」
手のひらの熱がそのまま彼に伝わってしまうんじゃないかと不安になった。でも、いま彼の手を離したら、どんな未来が待っているかわからない。
「そ、っか……」
優也も掠れた声で返した。慌てて咳払いして、照れくさそうに笑う。
「あの、大楠」
「はい……」
「俺と、付き合って」
かがり火とにぎやかな声と群青、そして超高速のギターサウンドを背にして。ギュルギュルとフィルムを巻くような音がする。
「俺、本気だから。お前のこと、好きだから」
「うん……」
手首をつかんで、不安そうな目を向ける彼をじっと見つめる。もう、絶対に離したくない。
「こんな私で、いいの?」
「うん」
「私、口悪いじゃん。すぐ叩くし、怒るし、冷たいし、優しくないよ」
「お前は優しいやつだよ。面倒見もいいし、頼りになる」
きっぱりと言われ、涼香は顔を上げた。ただただ純粋に嬉しくて、心が舞い上がっていく。
「本当にいいの?」
涼香は震える声で聞いた。
「いいよ」
優也は力強く言った。喉が干上がって声が出ない。息だけが上がって、心臓が早く鳴る。心音がうるさく、それは一体どちらのものかわからなかった。
「——優也」
思わず名前を口にした。その瞬間、優也の顔が強張る。
「ん?」
「ギュって、していい?」
それは彼が言うはずだったセリフ。
優也が好きだ。いままで自然と目で追いかけていた。仲が良くて、話をしていたら楽しかった。悪態も照れ隠しで、気を引くためだった。そうだと思う。彼への気持ちがいまになってはっきりと色濃くなった。
優也は迷うように、黙ったまま両腕を広げた。その中に飛び込むと、優しく抱きとめてくれた。
視界は白。少し陰る。汗くさい。懐かしい彼のにおい。
優也は広い手のひらで涼香の頭をなでた。その動きがぎこちなく、指先は震えていた。それを感じとって、涼香はただただ優也のシャツに顔をうずめたままでいる。耳を澄ませると、彼の心臓の鼓動が速い。
「私も、優也が好き」
ありったけの勇気を振り絞って言ってみた。その声は、届いただろうか。
返事がないので、おそるおそる顔を上げる。
「えっ……?」
甘やかな空気を残したまま優也の姿が消える。
視界が暗転した。
涼香の意識は遠く離れていく。時間が早送りされていき、気がつけばあの中庭にポツンと佇んでいた。