第七話
「はー、なるほどねぇ。それでアイスパンケーキに」
こころが感心深げに言った。ポップコーンとからあげ、焼きそば、わたあめを抱え、頭には狐のお面をつけている。文化祭を満喫しているようでなによりだ。
「あ、郁ちゃんのライブ、最高だったよ!」
そう言ってスマートフォンを見せてくる。動画を撮ってくれていたらしく、画面に指が触れると、たちまちギターとノイズが混ざった音が反響した。大音量が耳をつんざく。すぐさま動画を止めたが、パンケーキを食べる客の視線が痛い。
「し、失礼しましたぁー」
涼香は慌てて裏声を出した。こころが申し訳なさそうに頭を下げる。
「面目ない」
「もう……その動画、あとで送って」
「了解」
こころはすごすごとスマートフォンをカーディガンのポケットにしまった。
「まぁ、アイスの件は売り上げがかなりいいので、むしろうちの成績も爆上がりでさ」
涼香は得意げに笑った。横では優也が電卓をパチパチ鳴らして計算している。
「ほう、どれどれ」
こころが優也のノートをのぞき込む。赤字どころか一組の材料費も還元できそうだった。しかし、優也は腕を組んで難しい顔をしている。
「でもまぁ、約束は約束だしな。うちも材料分使い切ってるし、もう店もしめないと」
時刻は十五時五十五分。一般開放時間は残り五分を切った。客足もそぞろになっており、ジュースだけが余っているような状況だ。
「涼香、片付けはあたしがやっとくし、いまのうちに色々見てきたら?」
こころが元気よく提案した。
「そーだね。でも、こころがからあげ買ってきてくれたし、これでいっかな」
味見のために甘いものを食べすぎて腹は満たされているが、やはりしょっぱいものも食べたい。こころが抱えてきたものをパクパク口に放り込んでいく。
「うーん。それじゃあ、あたしはもう一回、まわってこよう……化学同好会の『ばけがく実験室』に行きそびれてて」
「行っておいでー」
軽く手を振って追いやる。こころは嬉しそうに目を輝かせた。
「んじゃ、涼香のために動画撮ってきてあげるー!」
「いや、別に、ばけがく実験室には興味ないんだけど……って、行っちゃった」
追いかけるように言うも、こころは猛ダッシュで教室を出て行った。
「……行かなくていいの?」
横から優也が苦笑まじりに言った。
「うーん……まぁね」
優也と一緒にいたいから、なんて口が裂けても言えない。曖昧に返事をしてしまい、優也は「ふーん」と軽々しく唸る。
「じゃあ、あとは後夜祭だなぁ」
その声が切なげに響く。
祭りが終わる。楽しかった時間は必ず終わってしまう。えも言われぬ寂しさを涼香も感じた。このままでいたい。でも、時間は無情だ。
やがて、十六時のチャイムが鳴った。
『放送部からのお知らせです。これをもちまして、一般開放を終了させていただきます。また、生徒は後夜祭の準備のため、十六時半以降より後片付けを始めてください。ご協力よろしくお願いします』
「あーあ。終わっちゃうね」
思わず言うと、優也も気まずそうに頷いた。
「そうだな。ライブ、観たかったなー」
「あとでまた観たらいいじゃん。郁ちゃんも出るってよ」
「そうなんだけどさ」
なんだか煮え切らない。優也はそわそわと落ち着きなく、肩を回した。これは告白のタイミングをうかがっているのでは。
そう予想していると顔が熱くなり、涼香は教壇から降りた。
「どこ行くんだよ」
聞かれてすぐには答えが思いつかない。引き止めるような言い方に、涼香は戸惑った。逡巡する。不自然な間があいた。
「えーっと……トイレ」
「あ、行ってらっしゃい」
優也は頰を引きつらせて眉をひそめた。手で追い払われる。それに甘えて、廊下へ逃げた。
足取り軽やかにトイレへ急ぐ。しかし、急ブレーキをかけて立ち止まった。トイレの奥に人影が二つあった。同じクラスの女子二人。一方はこころで、もう一方は羽村だった。入口から遠ざかり、壁に張り付いて見守る。
どういうことだろう。こころは化学同好会の催しに出かけたはずだ。
「ほんとのところ、どうなの? 大楠さんからそういう話、聞いてないの?」
羽村の問い。切り取った言葉の筋からなにも読み取れず、涼香は固唾を飲んだ。
「うーん。まぁ、そうだなぁ。涼香って、そういうの隠したいひとだし」
「はぐらかさないでよ。だって、寺坂は大楠さんのことが好きでしょ? 見てれば分かる」
羽村のいらだった声に涼香は息を飲んだ。すかさず、こころの緩やかな笑いがこぼれる。
「確かに寺坂くんってわかりやすいよねぇ。あたしも困ってるんだよー。見ててやきもきしちゃうっていうか」
「そういう話をしてるんじゃなくて!」
きつい声がトイレ内を震わせた。あまりにも切迫しているので、涼香もこころも羽村でさえ息をひそめる。少しの間をあけ、羽村は声を落とした。
「大楠さんは、寺坂のことどう思ってるかを聞いてんの!」
「だからぁ、そういう話はしたがらない子だからぁ」
「仲がいいなら聞いてるでしょ? 教えてよ。でなきゃ、私、いつまでたっても諦められないじゃん」
悲痛にも似た言葉が、涼香の胸に突き刺さった。体が硬直して動けない。羽村の気持ちを、いままで一度だって考えたことがなかった。
彼女も優也のことが好きだった。だから、いつも涼香に突っかかってくる。それは三年に上がっても変わらない。どうして気がつかなかったんだろう。
「そっか。そうだよね……羽村さんも、つらいよね」
こころもおどけた調子を崩しており、真剣に言った。ため息を吐いたのはどっちだろう。二人の間に沈鬱な空気が流れる。
「涼香はね、いい子なんだよ」
やがて、こころが苦笑交じりに言った。
「無愛想だから誤解を招きやすいんだけど、実はよく笑うし、よく食べるし、恥ずかしがり屋で、めんどくさがりで、飽き性で、目の前のことしか見えてない。みたいな」
「はぁ」
「でね、恋愛に疎いの。自分の気持ちに気づかなかいほど鈍感なの」
「ん? それって」
「うん。まぁ、そういうこと。素直じゃないから認めてくれないだろうけど、あたしはそうだと確信してるね」
自信たっぷりに言い切ってくれる。こころの透き通ったまっすぐな言葉に、涼香は口を抑えた。うっかり息を漏らしそうになった。
そんなこちらの感動もつゆ知らず、話は続く。
「あーあ。羽村さんってば、真剣だからさぁ。これじゃあ、どっちを応援したらいいかわかんないじゃん」
羽村はぎこちなく唸った。彼女も悪気はないのだろう。気まずそうなため息がとめどなく漏れている。
「気持ちはそのままでもいいと思うよ。忘れずにとっときなよ。次のひとのために」
「それ、遠回しに諦めろって言ってるよね」
「まぁまぁ、恋心というのはどんな困難にも立ち向かえる希望なんだよ。ね、そう思えばこんな失恋もかすり傷だよ」
そっとのぞくと、羽村は顔をうつむけていた。カーディガンの袖で目元を拭う。
「……あーもう、わかったよ。引き止めてごめんね」
敗北の声は無理をするような明るさがあった。そこにこころが穏やかにも咎めるような言葉をかける。
「じゃあ、もう涼香にきつい言い方しないでね?」
「うん。そうする。でも、やっぱり大楠さんもはっきりしてくれなきゃ、嫌かも」
「そこはあたしがなんとかするよ」
こころはなおも自信満々に言った。どこからその自信が湧くのだろうか。呆れを通り越して感心してしまう。これには羽村も不審感を抱いたらしい。
「ほんとかなー?」
声をうわずらせ、彼女はきびすを返した。トイレから出てこようとしている。慌てて階段まで逃げ込むも、羽村はこちらに気がつかず、教室へ戻って行った。
こころもトイレから出てきた。やけに清々しそうな顔をしている。
「ふぅ。いいことしたなぁ」
「……こころ」
階段から呼びかけると、こころの肩がびくりと飛び上がった。
「え? あれー? なんで!?」
頭の裏で手を組んで体を横へ傾ける。その大げさな仕草に呆れ、涼香は階段を駆け上がった。こころの脇腹に親指をねじ込む。
「うあっ」
地味な攻撃にこころがくずおれた。
***
濃い青空と、西に向かう夕陽の色がやけにきれいだった。青とオレンジの隙間に緑と黄色のグラデーションが滲み、さながら水をたっぷり含んだ水彩画のよう。
『さぁ、みなさんお待ちかね! 今年もきたぞ! 後夜祭の時間だーっ!』
開会式とは打って変わって、生徒会長のテンションが高い。グラウンドステージでは全校生徒が思い思いに集っている。
涼香とこころは後列にいた。前列は三年生がほとんどで、最後の文化祭を楽しんでいる。そんな彼らに向かって、生徒会長もステージ上からマイクを片手に堂々たる司会進行をしていく。
『今年も無事、後夜祭を開催することができます! 毎年先生たちに交渉するの大変なんですよー。まぁ、来年も開催できるようにがんばりますので。みなさん、ご協力よろしくお願いします!』
生徒たちの熱気がグラウンドに充満した。ざわめきが波打つ。
『それではさっそく、毎年恒例、部門賞の発表をします! 模擬店部門、栄えある第三位は——』
「ねぇ、こころー」
涼香はふと、こころの袖を引っ張った。ステージを見ようとぴょこぴょこ飛ぶこころがおとなしくなる。
「なーにー?」
「寺坂に変なこと吹き込んだでしょ?」
「へ?」
こころは上げていたかかとを落とした。首をかしげてキョトンとする。
「やだなぁ、なに言ってんの、涼香」
「とぼけても無駄。さっきの羽村とのやり取りもそうだけど、裏で寺坂と私をくっつけようとしてるのはもうバレている」
優也はどこにもいなかった。それに、制服の群れから優也の背中を探り当てるのは不可能だ。彼が中庭にいることは知っているが、涼香はあえてこころに揺さぶりをかける。
こころは口を横に引き結んで、笑いをこらえた。頬がプルプル震えている。
じっと見つめていると、観念したのか、こころは肩を落とした。止めていた息を吐き出す。
「サプライズのほうが、涼香も告白オーケーするかなぁって思って」
「好きでもない相手から急に告白されてもオーケーするわけないでしょ」
ピシャリと言い放つと、こころは衝撃を受けたように口を大きく開いた。「はわわ」と口を震わせ、彼女は校舎の最上階を見やった。やはり、中庭を選んだのはこころだった。
「……でも、あいつのことは嫌いじゃないから、別にいいんだけどね」
「えっ? ってことは?」
落ち込んだこころの目がとたんに生き返る。その視線から逃げようと、涼香も校舎の最上階を見た。優也の姿を探すも、彼の影はどこにもない。
その時、ステージ前方が歓喜の声で湧き上がった。
『模擬店第一位は、野球部の焼きそば亭! おめでとうございます! 代表者は上がってくださーい』
太い絶叫と拍手。この歓声に気を取られ、涼香はカーディガンのポケットにあるスマートフォンの着信に気づけなかった。しかし、こころの耳が鋭く、敏感に察知してくれる。
「涼香! スマホ! スマホ鳴ってるよ!」
「え? あ、ほんとだ!」
慌ててポケットを探る。画面の表示は「寺坂優也」だった。待ちかねた連絡に、胸がドキリと高鳴る。
「もしもし? 寺坂?」
『……悪い、大楠』
返ってきたのは、盛り上がるステージに負けそうなほど弱い声。画面を耳に押し当て、もう一方の手で耳を塞ぐと、優也の長いため息が聞こえてきた。
『えーっと……いまから図書室に来てくれ。大事な話があるんだ』
告白だ。
心臓はせわしなく動く。記憶の中では、このとき彼に向かって散々な文句を垂れていた。それをこころがおさめ、半ば強制的に中庭へ連れて行かれた。でも、いまは違う。
「わかった」
優也の言葉を聞きたい。今度は優也に見捨てられないように。
そんな思いが強くなる。どこからかみなぎってくる感情の波に流されていく。
通話を切り、スマートフォンをポケットに押しこんだ。ふと、こころと目が合う。
「いがーい」
彼女は冷やかすように笑った。なんだか、優也にも同じことを言われたような。
「意外ってなによ」
「だって、いつもの涼香なら拒否って罵倒くらいはしてるでしょ」
「今日の私は、いつもとは一味違うんだよねぇ」
ふふんとひと差し指を立て、ニヒルに笑ってみせる。こころが盛大に吹き出した。
「みたいだね! 文化祭効果? やだぁ、超かわいいー!」
口に手を当ててはやしたててくる。トンっと肩を押され、涼香は群れから追い出された。
「んじゃ、行ってきなよ」
「うん」
集いの群れから一歩ずつ離れる。こころが手を降って見送ってくれ、涼香も小さく手を振り返した。
——ありがとう、こころ。
用意周到な親友の作戦に悔しく思いつつ、涼香はひっそりとした中庭へ向かった。
やっぱり、こころにはかなわない。
『次はゲーム部門にいきましょう! 第三位——』
生徒会長の声が遠ざかっていく。グラウンドの熱気とは反対に、中庭はしんとしずかで一切ひと気がない。ところどころに祭りの残骸があり、あの高揚が忘れ去られたように寂しい。
エモーショナルな気分になると余計に緊張感が募った。一歩進むごとに期待がふくらむ。心音が耳に近い。脳がどくどくと膨張する。心臓の鼓動が速くなり、息が上がった。顔が熱い。血流に飲まれて目眩がしそう。
落ち着け。落ち着いて、慌てないで、冷静になって——でも、ダメだ。先がわかってるせいで、余計に感情が忙しくぐるぐると循環する。
もし、優也から告白されて付き合うことになったら。それはきっと、甘く楽しい生活のはじまりだ。浮き足立った妄想がめくるめく。
しかし、それもつかの間で、涼香はふと足を止めた。
「……待って。このままじゃ、私、優也と破局するんじゃ」
冷水をかぶったような感覚がし、期待と高揚が一気に沈んだ。お祭りムードと初恋気分に浸っていたせいですっかり忘れていた。
自暴自棄になって、なにもかもうまくいかなくなる。そんな世界への道順をもう一度たどるつもりか。ここまで順当に過去をさかのぼっているだけで、ほとんど変わっていない。涼香は頭を抱えた。
夢なら夢のままでいい。それにしてはリアルな世界だ。たとえ夢の世界だけでも最善な道を選びたい。どうしたら、変えられるんだろう。
グラウンドではすでにかがり火が上がり、オレンジの火の粉が青い夕焼けに向かって散る。壁に当たり、くぐもったエレキギターのジィィィンと絞るような音が聴こえ、後夜祭もフィナーレを告げていた。グズグズしている暇はない。
それなのに──
「大楠?」
立ち尽くしていると、心配そうな優也の声が聞こえた。