第六話
『ごめんね、涼香。私、そっち行けそうにないわ』
スマートフォンの向こうで、郁音がしきりに謝ってくる。申し訳なさそうな声を聞いても、涼香は不機嫌なため息を投げた。
「でも、当番は決まってるし……午後のライブが終わったら来れるって話だったじゃん」
『本当に申し訳ない! そこをなんとか! いま、現在進行形で超やばいんで!』
「いま、現在進行形で超やばい状況ってなに?」
あまりにも抽象的でわけがわからない。
同じクラスの郁音も、クラスのパンケーキ屋で当番をする運びになっていた。午後一番のステージで彼女が所属するバンドのライブが行われ、その舞台は成功したはずだ。
『いや、それがさぁ……生徒会から後夜祭のライブに出てくれって頼まれて』
低い声音で言うも、言葉の端々には浮かれた感情がにじみ出ている。しかし、友達の成功談を素直に喜べる状況ではない。
一年二組のパンケーキ屋はそこそこの反響だった。それに、当初から組んでいたスケジュールに穴があくのはよくない。クラスの雰囲気を壊しかねない。郁音のバンドは応援したいが、どちらを優先したらいいのか。
『とにかく、麟が練習するって聞かなくて。だからお願い! 頑張って!』
「あ! ちょっと、郁ちゃん!」
そうこうしているうちに通話が切れた。
「大楠さーん、ジュース運んでよー」
後ろから羽村が声をかけてくる。不審めいた声に、涼香は慌てて反応した。
「ごめんごめん」
「んで、美作さんは?」
「郁ちゃんは、ちょっと戻れそうにないらしい……」
「えぇ? 嘘でしょー?」
悪いのはこちらじゃないのに、なぜか責められてしまう。やはり、こういうハプニングはクラスの雰囲気を悪くするものだ。
——このあと、どうしたんだっけ。
必死に思い出そうと記憶を手繰り寄せる。すると、当番じゃない優也が教室に現れた。
「どうかした?」
「あ、聞いてよ、寺坂ー」
すぐさま羽村が告げ口しようとその場から離れる。涼香は客にジュースを配りながら、その様子をちらりと盗み見た。
「──そうか。まぁ、しょうがないよ。美作も忙しいんだし。あいつが楽しいんなら、俺は嬉しいよ」
優也は羽村の文句を笑ってなだめた。小さなえくぼが困っている。それを見れば、羽村も不服ながら頷いた。
「その分、大楠が頑張ってくれるからさ!」
感心しかけていたらこれだ。まさかこちらに面倒を押しつけてくるとは思いもしない。
羽村がこちらを見やる。その視線に、わずかな憐れみが見えた。しかし、彼女はそれで納得したらしい。
対し、こちらはますます不満だ。涼香はさっさとジュースを運び終え、教壇のカウンターに戻った。すると、口を開く前に優也が満面の笑みで肩を叩いてくる。
「な、大楠! 俺たちでがんばろうよ」
「まぁ、いいけど……」
「俺たちで」という言葉に、少しだけ気持ちが浮つく。にやけそうになるのをこらえようと、わざと不満な態度をしてみせる。すると、優也の眉がハの字に曲がった。
「え? いやか?」
「いや、じゃ、ない……」
自然と答えるも、すぐに羞恥が回ったので優也の足を踏んづけた。それを優也はあっさりと飛びのいて回避する。さすがバスケ部。反射神経がいい。
その時、優也のズボンのポケットからスマートフォンの電子音が鳴った。
「お、明? どうしたー?」
思わぬ相手が口から飛び出し、思わず耳を澄ませる。優也に近づくと、彼は少しだけ肩をそらして涼香を見た。動揺の色を浮かべている。こちらに意識を向けているせいで、スマートフォンが耳から離れていった。
『大変なんだよー、助けてくれよー』
明の嘆きが丸聞こえ。優也は電話に集中しようと、その場から逃げていく。涼香は堪らず追いかけた。
「まじかー。おー、そりゃあ大変だなぁ。やべー」
教室から出て高笑いする優也。彼の足は隣の一組に向かっていた。隣と言っても階段とトイレに挟まれた校舎の最奥である。
優也はスマートフォンを切ってポケットに押しこんだ。その足は迷いがない。
「うっわー。本当にやべーな」
そんな声が聞こえ、涼香も一組をのぞいた。仕切りで見えない。
「そうなんだよ。やばいんだよ。それもこれも全部、僕の発注ミスのせい」
どんよりと暗い明の声が聞こえた。涼香は仕切りからこっそり顔を出してみた。
「大丈夫?」
見てみると何段も積み重なったクーラーボックス。その一つに敷き詰められた大量のカップアイスがざっと二十、いや三十個ほどか。これがあと四ケースもある。
「なんとか売ろうとがんばってたんだけど、もう十四時でしょ。一般開放が十六時までなのに、まだ半分以上も残ってるの」
一組の実行委員である女子生徒が小声で教えてくれた。
「しかも、ここって階段とトイレに挟まれてて、あんまり目立たないんだよね。場所が悪すぎ」
明を見ると、彼は深刻に思い詰めた顔をしていた。いまにも泣き出しそうな。とにかくどんよりと暗い。
「売り子して校舎の中もまわったら?」
「それは朝からずっとやってる。でも、今日は気温も低いし、あんまり売れ行きがよくないみたいで」
優也の提案に明がすぐに返す。全員が沈黙する中、涼香は素早く頭を働かせた。
「……じゃあさ」
全員の目がこちらに集中した。目のやり場に困り、とりあえず優也を見る。
「うちで半分引き取ろうよ。二組のパンケーキに使おう」
「それはちょっと、厳しいんじゃね」
優也は煮え切らない様子でもごもごと言った。どのクラスも材料費は決まっており、売り上げによっては赤字を切る。その調整は生徒会が担っているが、急な予定変更をされては多方面に迷惑がかかるだろう。
「んじゃあ、こうしよう。これの三分の一をうちで引き取る。で、はけそうならまた追加で引き取る。一組はもうこの際、後夜祭返上で売り子してがんばるしかないよ」
強い口調で提案すると、優也が頷いた。明の顔がパッと華やぐ。
「ありがとう! 助かる!」
「がんばるのはそっちだからね? うちは、あくまで手伝うだけ」
「それでもいいよ! ってか、それしかないよ! うわぁ、二組マジ神様」
調子のいいことを言うが、明も朝からずっと悩んでいたんだろう。一組全員からの非難を受けるのはつらい。せっかくのお祭りなのに。
「優也、ありがとう! この恩は一生忘れない!」
明は優也に頭を下げた。そして、アイスのケースをまたいで涼香の元へ行く。
「君もありがとう! 名前は? あなたはどこの女神様ですか?」
調子のいい言葉なのに、顔が真剣なので涼香は拍子抜けした。勢いに押され、後ずさる。
——そっか、明は私のこと、まだ知らないんだ。
「大楠です。大楠涼香」
「ありがとう、大楠! この恩は一生忘れないから!」
「大げさだなぁー」
奥で優也が笑い飛ばした。アイスのケースを抱え、涼香の肩をつかむ。
「そうと決まれば、さっさと売ろうぜ」
そのまま廊下までズルズルと引きずられた。明が拝みながら見送る姿が遠のいていく。
「……大楠、ありがと」
二組へ戻る途中、優也が耳元で言った。
「あいつ、同じバスケ部の杉野明っていうんだけど」
知ってる。でも、いまは知らないふり。
明は目立ったプレーはしないが、並外れた持久力とテクニックがあり、部活仲間としても友達としても最高だという。でも、本番に弱くて、たまに変なミスをする。一度ミスしたら不調が続いてしまうとか。この件も明ならやりかねないミスだ。
涼香は小さく笑った。想定外の事態に巻きこまれるのも意外と楽しい。お祭りにはうってつけのイベントだ。それに、この事件はあとあと功を奏することを知っている。
涼香は余裕たっぷりに笑った。
「全然いいよ、これくらい。だって、友達でしょ?」
「うわ、超やさしー。いがーい」
「なにが意外よ」
「だって、いつもはそんな優しくないしー?」
照れ隠しに冷やかしてくる。そんな彼の腕を親指で突き刺した。