第三十九話
十月二十四日の空は消えそうな水色で、雲との境界線がはっきりしない。学校を囲む桜の木も葉を落として寒そうだ。むき出しの幹は湿り気を帯びている。いつだってそうだ。しかし、風はいくらか柔らかで心地いい。
ここまでたどり着くのに、随分と遠回りなことをしてきた気がする。大事なことがわからなければ終わっていた時間だった。こんな選択があるなんて思いもしなかった。
教室へ戻る途中、涼香は白い空をぼんやり眺めた。そのとき、タイミングよく教室の窓から羽村が顔をのぞかせた。
「あ、大楠ー! ヨリは戻したかー?」
気になっていたんだろう。しかし、公衆の面前で暴露する度胸はない。
涼香は手で追い払う仕草を見せた。それに羽村は首をかしげる。察しの悪さが腹立たしい。お節介な友人を持つと面倒だ。あとできちんと話そう。
昇降口に戻ると、優也と明は揃って部活に顔を出すと言うので、見送ることにした。
優也の背中が遠ざかる。軽やかな足取りだ。それを見ながら涼香は、逃げようとする明のカーディガンを引っ張った。
「わざわざ悪役になる必要なかったのに」
「なんのこと?」
「とぼけないで」
まったく、その笑顔が憎めない。
明はするりと涼香から離れた。
「一年の文化祭で、優也と大楠に助けられたからね。これで貸し借りなしだよ」
「はー、ちゃっかりしてるなー」
呆れるも、思わず笑った。すると、明はポケットに手を突っ込んで、のど飴を出した。くれるのかと思いきや、それは彼の口の中にコロンと転がる。
「二人にはなにがなんでも、このままでいてもらわなきゃいけないんだよ。でないと、僕が報われないから」
明の言い方はいつか屋上で見たものと重なった。
それがただ申し訳なくなり、心がすくみそうになる。その気配を察したのか、明はふんわりと優しく笑った。
「これ、ずっと言いたかったんだ。好きなら簡単に別れるなよ。末永くお幸せに!」
その言葉と爽やかな薄荷を残し、明はもう振り返らずに体育館へ走っていった。
二人を見送った後、涼香は一人でのんびりと階段をのぼった。
放課後の準備時間は十八時までと決まっている。教室は忙しなく明日の準備に追われていた。
ドタバタと走り回る一年生。妙な被り物を作ってはしゃぐ二年生。三年生は受験勉強の息抜きがてら、作業に勤しむ。
科学室からは小麦粉と砂糖の甘い匂いが漂い、家庭科室からはポップコーンの香ばしい音がはじけ、美術室からはなぜかトンカチを叩く音がガンガン鳴り響き、放送室からは機材が運び出されていた。そうして階段を降りるたびに音が変わっていく。
やがて、ズゥゥゥンと低いベースギターの音が聞こえてきた。ガヤガヤした廊下の隙間を縫って耳に届いてくる。
まっすぐ教室に向かうつもりが、あのベース音を聞いたら導かれるかのように足は音楽準備室へ吸い込まれる。
扉には律儀に「軽音楽部」と書かれたボードが貼られており、窓から中をのぞくと、黒いショートヘアーの女子生徒が弦をつまみながら音を合わせていた。
「郁ちゃん」
無遠慮に扉を開けてみると、女子生徒のまぶたが驚いたように開いた。
「おやおや、珍しい客」
郁音は嬉しそうにはにかんだ。それと比例するようにベース音がさらに重くなる。まるで深海のような深い音で、心臓が震える。
「それ、なんの曲?」
「新曲だよ。文化祭でお披露目するの」
郁音は恥ずかしそうにも、満悦に口の端を持ち上げてにやけた。姿勢を正してベースのボディを太ももの上に置きなおす。
弦をはじく。ピックで震わす重低音。ズゥゥゥンと消えゆく。そしてまた水底から上がるように音が震える。波が渡り、後から後から追いかけてくる。寄せては返す波打ち際へと浮かび上がってくる。
郁音はちらりと目線を上げ、涼香の表情を見た。
「これね、『ミズイロ炭酸水』っていうの。なんと、初恋愛ソング」
郁音は嬉しさを隠せず、早々に種明かしをした。
「へぇ。初なんだ」
「うん。いままでは青春の応援歌って感じだったんだけど、麟が急に恋愛ソング作るっていうからさぁ。あいつ、ろくに恋愛したことないくせに」
ケタケタといたずらに笑う郁音の顔に憂さは一つもない。
「二年間こじらせた私の初恋をバカにしてるんだよ。ま、そのつもりはないんだろうけど」
郁音の恋はやはり実らなかった。そんな予感をしていたが、彼女がさっぱりとしているので涼香は怪訝に見つめた。
「失恋したのに元気だね」
「そりゃあもう、空元気だよ。あ、そうそう。これね、私が詞を書いたんだよ」
多分、これが言いたくてうずうずしていたんだろう。この高揚がすぐに伝染し、胸の内が躍動した。
「そうなの? すごいじゃん!」
前のめりになって言うと、やはり郁音はくすぐったそうに笑った。彼女はずっと浮かれている。失恋したとは思えない陽気な顔だ。
「ちょっと歌ってみてよ」
「しょうがないなぁー。ファン第一号のお願いなら断れなーい」
あっさり快諾され、これにも拍子抜けだったが、涼香もワクワクが止まらなかった。
すぅっと空気が震える。そして、郁音の口が柔らかに音を奏でた。
「『ぐっと飲み干してしまうのも もう何回目? 君が僕の前を走っていく それに追いつけなくて もどかしい』」
小さく囁くようなアカペラが部室の中で淡くはじけた。それを濁すように、郁音はベースを鳴らす。低い音の中で彼女の高く恥ずかしげな声が浮かんでは消える。
「『だからまた飲み込んでしまうんだ 淡く弾ける炭酸水 飲み干すと水色の味がした』……って感じ」
「おぉー! きれいな歌。しかもちょっと切ないやつだね」
「まぁね。私の初恋をぶつけてやったわ」
どうやら、彼女の憂さはとっくに晴れていたようだ。
***
紫と赤を組み合わせた市松模様の古風なタイルに、濃い青のリボンのような装飾。おしゃれなレタリングで「第四十五回 青浪高校文化祭」と描かれたアーチが建てられている。実行委員会と美術部の共同制作だ。
アーチをくぐり抜けると、そこは非日常の極彩色。枯れた桜の葉も色づいていて、まるで紅葉のよう。
どこかでトウモロコシを焼く香りがする。体育館では音合わせをするギターの派手なカッティング。グラウンドでは管楽器がはずむ。中庭からは合唱部のハミング。そして、高い笑い声。学校全体は高揚感に包まれていて、楽しくも寂しい空気を感じた。
こころがいないと物足りないと思うのは、ミギワ堂古書店に出入りするようになって、彼女に出会ったからだろう。高一の春、なんとなく立ち寄ったら、同い年くらいの女の子が店番をしていたのですぐに仲良くなった。とても気が合うのに、学校が違うから同じ時間を共有できないのが悔やまれる。
「すーずーかー!」
伸びやかに明るい声が聞こえて振り返ると、ふわふわの三つ編みが満面の笑顔を振りまいていた。
レモンクリームのセーターに、空色のスカートを合わせたこころが手を振る。手には文化祭のパンフレットを握りしめて、好奇心旺盛なプードルよろしく駆け寄ってくる。
涼香も校門のアーチから引き返し、駆け込むこころの前に立ちふさがった。
「早いね。まだ一般解放じゃないよ。よくもまぁ一番乗りでやってくるね」
「うん。だって、楽しみにしてたんだよー! それに、今年は最後じゃん!」
なんだかこちらよりもテンションが高い。アーチを見上げて興奮気味にジャンプしている。落ち着きがない。
――まぁ、いっか。
「涼香」
不意に、こころが手のひらをくすぐった。
「ん?」
「ここまで連れてきてくれて、ありがとう」
横でささやく彼女の言葉にハッとする。
その瞬間、いくつもの世界が一気に脳内を駆け巡った。こころとの出会いが必然だったかのように、色彩にあふれた時間を思い出す。
「朝起きたら思い出したんだよねー。不思議なこともあるもんだねー」
こころがのんびりと言う。どうやら、彼女もすっかり忘れていたらしい。
迷って悩んでもがきながらもたどり着いた、ここが新しい分岐点。出会いはどうあれ、世界はどうあれ、縁は切っても切れないのだろう。まったく、人生というやつは不思議がいっぱいで、面倒なくらい手間がかかる。
だんだん気恥ずかしくなってしまい、涼香は照れ隠しに空を見上げた。
感傷に浸るのは「らしく」ない。いまは目の前に広がる世界に、ただただ無邪気に飛び込んでしまえばいい。
「なんのことー?」
「なんでもなーい」
涼香のとぼけた声に、こころは含むように笑った。
「さぁ、〝最後〟の文化祭だ!」
やけに張り切ったこころの声が、祭ばやしの中を駆け抜けた。
〈完〉