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上書きした世界で、また巡り会えたら  作者: 小谷杏子
第五章 ミズイロ炭酸水
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第三十八話

 青。

 青い弾丸がはじけ飛ぶ。飛びのいて回避すると、色はそのまま教室の床に落ちた。


「ごめん、大楠! 絵の具かからなかった?」


 羽村が大げさに慌てふためき、そのせいで教室中がわずかに静まった。

 気を遣われているのが丸わかりで、周囲の視線が痛い。そんな空気で、涼香は勇気を出して笑い飛ばした。


「ちょっと、羽村ー。顔にかかったらどうしてくれんのよ」

「いや、全然無事じゃん。あっぶな。焦ったー」


 羽村は刷毛(はけ)をバケツに突っ込み、拝むような仕草をした。


「まったくもう、しょうがないなー」


 周囲の空気がいくらか緩和されるものの、一旦注目を浴びると、目のやり場に困った。

 ちらりと優也を見ると、彼は慌てて目をそらす。

 このところ、ずっとこれだ。教室にいると気まずいが、文化祭準備も差し迫ったこの時期、穴を空けるわけにはいかない。


「絵の具かかってたら嫌だし、顔洗ってくるわ」

「かかってないのにー。大楠ってば、ちょっと神経質じゃない?」


 羽村は空気を読まなかった。そんな彼女に目で合図する。優也を気にするようにちらりと見れば、羽村はようやく察知した。


「お、おー。そうだね! 行ってきなよ!」


 ごまかし方が下手なので呆れるしかない。ため息を吐いて、涼香は伸びをするように立ち上がった。


「じゃ、あとは任せた」


 手を振って教室を出ると、固まっていた空間がようやく動きを取り戻す。まったく、クラスメイトたちの心境(しんきょう)はわかりやすい。ドア越しに様子をうかがっていると、羽村が無言で優也を見ていた。こういうとき、彼女は頼りになる。

 責めるような視線から逃げようと、優也もまた教室を出た。後方のドアを開き、すぐに目が合う。気まずい沈黙が流れた。


「えーっと……本当にかかってないの?」


 優也が先に声をかけてきた。主語が足りないので、涼香は意地悪に首をかしげた。


「なにが?」

「なにって、絵の具」


 いま聞きたいのはそんなことではない。涼香はジャージのポケットに手を突っこみ、ふてぶてしく顔を持ち上げた。


(おのれ)を振った女の心配をする必要はないと思いまーす」


 ふざけて間延(まの)びした口調で冷やかすと、優也はなにも言えずに押し黙った。責められるのならまだしも、茶化してもてあそぶのはやりすぎだったとすぐに反省する。

 涼香はゆらゆらと大げさに体を左右に振りながら近づいた。


「……まぁ、なんて言うの。この前は、突然あんなこと言って悪かったよ」

「本当に悪いって思ってんのか? 全然そんな風に見えないんですけど」

「うん。だからさ、ちゃんと話そう」


 優也の肩を叩いてうながすと、彼もまた腹を決めたように、一歩遅れてあとを追いかけてきた。



 始まりと同じ場所で別れを告げたのは、意地悪だったかもしれない。でも、やっぱりここで話をしなくてはお互いに未来へ進めないと思う。

「別れよう」と切り出したのは、つい三日前のことだった。涼香自ら言い出したことで、優也にはなんの落ち度もない。強いて言うなら、彼は優柔不断だった。

 進路と恋愛を両立するのは難しい。他県の遠い大学でバスケを続けるなら、遠距離恋愛になってしまう。それが続けられるのか不安で仕方ないと言っていた。一緒にいられないのも耐えられないし、一緒にいれば恋愛に偏ってバスケが疎かになる。

 だから、きっぱりと身を引くつもりだった。この時間の流れに抗う気はなく、それでも身勝手に寂しく思っている。時間を空けて、ゆったりと最適解を探した。


「優也のこと、好きだよ。でも、そのせいで優也が迷うなら、私はその邪魔をしたくない。夢を追いかける優也のことが好きだから」

「そんな風に言われると、ますます別れたくないんだけど」

「夢と私で揺れるくらいなら夢を選んだ方がいいよ。将来の方が大事じゃん。それを、ここでフイにしちゃうのはもったいないよ」


 悩ませるくらいなら潔く身を引こう。ズルズルと関係を続けていくのは、結局どちらも甘えが生じてしまう。

 優也は力なくゆるゆるとしゃがみこんだ。


「あーあ、情けねぇ。お前がそんなに気丈だと、ますますお前から離れられなくなる」

「そうなるのがダメだから別れようって、私から言ったんでしょ。こうでもしなきゃ、決められないんだから」

「そうなんだよ。俺、お前がいねぇとダメなんだよ。でも両立できねぇんだよ。あー、もう」


 だんだん自虐的になっていく優也だが、そんな彼の頭を優しくなでてなだめたくても、それはやってはいけないと自戒(じかい)する。優しさはときに残酷な毒になるから。

 理想は常に甘いのに、現実はつらい。それでも、踏ん張っていくしかない。まだ鈍感なうちに。

 空気がしんみりする。

 その時、背後から急な横槍(よこやり)が入った。


「おい、優也。いい加減にしろよ」


 ハスキーな柔らかい声。後ろにいるのが明だというのは、すぐにわかった。

 言葉とは裏腹に、彼はなんだか愉快そうな気配だ。


「なに? 盗み聞き? サイテー。羽村だってそんなことしないよ」


 すぐに言えば、明は苦笑しつつ拝むような仕草をした。


「だって、喧嘩になったら僕が止めなきゃいけないと思って」

「そんなことするわけねぇだろ」


 優也は不機嫌な声を投げつけた。それに怯んだ明が涼香のほうへ近寄る。これを邪険に手で追い払えば、彼はすかさず肩を落とした。


「で、なんだって? 俺が元カノに未練タラタラな場面を見て、お前はやけに嬉しそうだな」


 矢継(やつ)(ばや)に優也が責める。

 つい先日、二人が揉めたらしいことは郁音から聞いた。これは生徒会経由で各部長らに広まった。まさか自分の彼氏の揉め事を他人から聞かされるとは思ってもみない。

 これがきっかけで、涼香はとっさに破局に踏み切った。


「そんなことないよ。いまなら告白大チャンスだ、なんて思ってないから」


 明はあっけらかんと言った。いま、確実にこの場に三本の亀裂が入る。これ以上、事を荒立てないでほしい。たしなめようと口を開きかけると、先に明が言った。


「でもさ、まだ好きなら別れなくてもいいじゃん。遠距離がつらいから? バスケも辞めたくないから? なに甘ったれたこと言ってんだよ。二年間片思いしてきた僕をバカにしてるとしか思えない」


 その言い方は棘があった。涼香もむやみに責めることはできず、優也と明を交互に見る。

 優也はムスッと黙り込んでいた。


「それにね、あんまりグダグダされると僕もすっきりしないんだ。大楠のこと、僕が取ってもいいっていうんなら話は別だけど」


 時が止まった。

 優也はいらだたしげに頭を掻き、せわしなく空を見上げ、また頭を掻き、ため息を吐く。

 対し、明はいたずらっぽく笑うまま。


「俺は大丈夫だからって、さっさと言えよ。それでも自信がないなら、僕が大楠とつき合う。それでいい?」

「明……」


 思わず口を出すも、明が意地悪に笑うのでなんとも言えずに黙ってしまう。明の気持ちに気づいたのはつい最近だった。これでも彼は真剣だ。だから、妙に気まずく、調子が狂う。


「優也、本当にいいの? お前が手放すんなら、僕がもらう」

「いや、お前にだけは絶対取られたくねぇ」


 優也は明の肩をつかんで引っ張った。歯を食いしばりながら言う優也の答えは単純明快だ。これに、明がニンマリと勝ち誇ったように笑う。


「ほら、大楠も変な意地張らないでさ、そうしなよ。優也を助けられるのは、大楠なんだから。ね?」


 明の目は、わずかに潤んでいたように見える。

 涼香は天を仰いだ。この選択が正しいのか、どうなのか。誰にもわからない。

 迷っていると、唐突にふわふわの三つ編みを思い出した。ミギワ堂古書店に住む友人は学校が違う。この場には関係ないはずなのに、なぜ、いま急にあの子の顔を思い出すんだろう。


「涼香?」


 優也が怪訝そうに聞く。ハッと我にかえり、涼香は優也を見た。彼は苦々しい顔つきで涼香の答えを待っている。

 別れたくない。彼の目と自分の気持ちが一致し、涼香は照れくさくなって笑った。


「……うん、そうだね。そうしよう。大変そうだけど」

「だってよ、優也。おめでとう!」


 明は力強く優也の肩を叩いた。涼香も二人に近づいた。


「優也」


 差し出した手を、彼はしばらく見つめて悩んでいた。やがて頷いて、手を取る。珍しく冷たい彼の手をぎゅっと握り返すと、熱が蘇った。その上に明の手が重なる。


「まぁ、優也に飽きたら僕のとこに来てよ。いつでも待ってるから」


 軽々しく誘う彼の口車には絶対に乗りたくないと思った。そんな明の鳩尾(みぞおち)に優也が思い切り肘鉄(ひじてつ)を入れる。この不意打ちに驚いた明がその場に崩れたのは言うまでもない。


「調子にのるな」


 優也が冷たく見下ろした。

 涼香も一瞥(いちべつ)した。そんな二人の視線を浴び、明は枯れた笑いを浮かべた。憎めない笑顔が力なく言う。


「救世主にその態度はひどい……」


 正論が返ってきたので、涼香と優也は顔を見合わせて笑った。明もまんざらでもなさそうで、腹をおさえて涙目で笑った。

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