第三十七話
「落ち着いた?」
「うん。泣いたらスッキリした」
「それなら良かった」
肩に染み込んだ涙のあとを見ながら、涼香は苦笑いした。
「はぁー……あとは、どうやってここから脱出するかだね」
こころが言う。彼女が満面に笑うので、涼香も口角を上げた。
「困ったもんだねー。あはは」
「あはははは」
「笑ってる場合か。本当にどうすんの」
一転して辛辣に言うと、こころは顔を引きつらせた。
「それについてはずっと考えてるんだけどね……まぁ、あたしたちは過去を変えまくったせいで、世界から爪弾きにされたんだよ」
「はぁ」
「タイムリープって、やり方もいろいろだけど、制約も様々なのね。タイムリープそのものを悟られてはいけないとか、過去改変をしてはならないとか、観測者は過去の人にタイムリープを教えてはいけないとか」
「それ、全部アウトじゃん」
どんどん希望が失せていく。せっかく前向きになったのに、世界から爪弾きにされては元も子もない。
こんな状況にいてもなお、涼香はどこか他人事に考えていた。現実逃避というやつか。
考えることをやめると、こころが横で唸った。
「まず、どうしてこんな場所に閉じ込められたのかだよね。涼香に知られたからだと思ってたんだけど、どうもそうじゃないような気がしてきた」
「というと?」
「涼香もあたしと同じ時間でタイムリープしてると勘違いしていたわけで、その時点で『知られてはいけない条件』は成立しない」
人差し指を立てて言う彼女の声はしっかりしていた。説得力がある。涼香は感心げに頷いた。
「あとは、過去改変をここまで繰り返していていまさらアウトっていうのも考えにくいよね。ここで『過去改変をしてはならない条件』も消える」
二本目の指が立つ。涼香は固唾を飲んで見守った。こころの口がますます真剣になる。
「だからあたしは『観測者は過去の人にタイムリープを教えてはいけない条件』が当てはまったのかなって思ったの。でも、それも違うんじゃないかって思ってる」
「というと?」
「こうしてまた会えたってことが証拠だよ」
気取った口調で言うこころ。どうやら調子を取り戻したらしく、その憎めない笑顔を見ていると悔しくなった。鼻をつまむ。「んにゃっ」と猫のように呻いた。口をパクパクするので、すぐに手を離した。
「あたし、てっきり涼香が助けにきてくれたのかと思ったんだよー」
鼻を痛そうに揉むこころの声。それに対し、涼香は「はぁ?」と大きな声を上げた。
「だって、過去のあたしを助けてくれたでしょ? あそこがあたしの分岐点だったんだね」
こころはにんまりと笑った。
「見てたの!?」
「えぇ、えぇ。こっからよく見えたよ。そしたらね、それまで冷たかったあたしの体が急にポカポカしてきたの。意味わかんないね。あはは」
どうやら、あの一連の様子をここから見ていたらしい。一気に恥ずかしさが全身に回り、涼香は顔をしかめた。
「でも結局、こうなるわけでしょ。考えが甘かったよ。帰り方がわかんないなんて……今までは自動的に戻ってから、そこまで考えが及ばなかった」
どうしようもない。いくら条件をつぶしても、ここから脱出する方法はわからない。
天はどこまでも暗い。手を伸ばすと、暗い色がさざなみを打つ。
しばらく、お互いに沈黙した。しかし、意味のない時間だった。
「こういうとき、小説や漫画だったら、男の子が助けにきてくれるんだよね。ほら、ロマンチックな展開」
こころが笑いながら言った。
「寺坂くん、来てくれないかなー。杉野くんでもいいけどさ」
「あの二人じゃ無理でしょ。優也はともかく、明はタイムリープのこと信じなかったし」
「そっかぁ。まぁ、でもここで杉野くんが来てくれたら、あのひとの株、爆上がりなんだけどな。颯爽と助けにやってくる王子様になってくれればいいのに。論理も制約も吹っ飛ばして、丸く収めてくれて」
「王道展開ね……でもさ、女の子が女の子を助けに行ったっていいじゃん」
「それもそうかー」
こころはくすぐったそうに笑った。その横顔に人差し指を突き刺す。
「て言うか、もし戻れたとしても明とは喧嘩しないでね?」
「うーん。それは杉野くん次第」
いたずらな返答に、涼香はため息を吐いて諦めた。これは前途多難だ。しかし、いつまでも現実逃避していてはいよいよ帰れない。大事なことがわかったいまこそ、彼らの元へ帰るべきだ。
涼香はゆらりと立ち上がった。
手を伸ばしても、景色はとくに変わりない。膨大な闇の世界に早くもうんざりしている。
「そう言えば、さかさ時計のおまじないって、なんで『さかさ時計』って言うの?」
ふと思い当たったことをこころに聞く。彼女は思案げに首をかしげた。
「過去にさかのぼることができるから、じゃない?」
「だったら『過去時計』でもいいじゃん」
「えー? 語感がよくないよー」
「そういう問題か」
真面目に聞いたこちらがバカだったと反省する。
呆れて腰に手を当てていると、こころはなにかに引っかかった。顎に手を当てて真剣に考える。
「さかさ……さかさま……逆巻き。逆巻きの時空間」
それは彼女が読んでいた本のタイトルだ。
「ここは時間の狭間。記憶の海の底。右輪こころが家出をしない世界で止まっている状態」
ゆっくりと思い当たるようにつぶやいていく。
「いまここで、さかさ時計のおまじないをしてみたら、どうなると思う?」
こころの問いに、涼香の思考は錆びついた歯車のように鈍った。
「どういうこと?」
「だから、逆さまなの。いま、ここは過去の世界。いわば、あたしたちが住むべき場所の反対世界。ここでおまじないをしたら、未来方向へ進めるってわけ! 帰れるんだよ! うん、絶対そうだ!」
こころは興奮気味にまくしたてた。その勢いに乗せられ、涼香の頭の中で砂時計がくるりとひっくり返る。しかし、不安は拭い去れない。
「本当にそううまくいく?」
「理論上ではね」
「なにその都合がいい展開」
改めて確認し合うと、お互いに顔が引きつった。その顔を見て、吹き出す。二人は口を押さえ、体をくの字に曲げて笑った。
明るい声が反響すると、天の水面が激しく震える。波紋が広がっていき、四方八方が音の渦をつくった。
目尻に涙がたまってしまい、指で拭い取る。こころは目を腫らしているから痛そうだ。
「一人で行わなければならない、〇時に行わなければならない、北極星を軸にするっていう方法が見事に破られるわけだけど、試す価値はある」
ひとしきり笑い、こころはかしこまるように直立した。涼香も合わせて、彼女の目の前に立つ。二人で向かい合い、なんとなく手をつないだ。
「涼香」
「ん?」
「もし、あたしたちが出会わない世界にたどり着いたら……」
打って変わって静かなこころの声。彼女の指は少しだけ震えていた。それを包むように強く握る。震えが伝染しそうで怖かった。
「大丈夫だよ。そのときはさ、また会いに行けばいいじゃん。家近いんだし」
「そうだよね……うん。大丈夫。あーもう、誰かさんの鈍感がうつればいいのに!」
この期に及んで、そんな言い方はないだろう。文句を言いかけるも、言葉が出てこなかった。かわりに愉快な笑いがこみ上げてしまう。
「それじゃ、元の場所で答え合わせしよっか」
いつか交わした約束を思い出しながら言うと、こころは「あいたた」と顔をしかめた。
「そんな約束もしたね……じゃあ、お互い健闘を祈ろう!」
こころが手を振り払った。一歩後ずさって、反回転。同時にきびすを返すと、こころの姿が見えなくなった。互いに背中合わせで深呼吸を三回繰り返す。
そのとき、真っ暗だった視界が反転した。白い光がまぶたを刺激する。体が上昇していく。
耳元でギュルギュルとフィルムを巻く音がした。