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上書きした世界で、また巡り会えたら  作者: 小谷杏子
第五章 ミズイロ炭酸水
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第三十五話

 バサバサと灰色の(はと)が飛び立つ音が聞こえ、目を開けた。遠くでカラスの鳴き声もする。不気味な夜の世界は続いており、景色は変わらない。涼香はミギワ堂古書店の前で(たたず)んでいた。

 すると、店の裏口がキィッと甲高(かんだか)華奢(きゃしゃ)な音を響かせた。思わず電柱に隠れる。

 店と隣の古着屋の隙間から小柄な少女が外を窺いながら出てきた。風呂上がりなのか、量の多い髪の毛はぺしゃんこになっている。顔つきは(おさな)く、あどけない小さな口が不満そうに真一文字を結んでおり、丸い目は緊張で強張っていた。

 すぐに、こころだと思った。ブラウスと水色のカーディガン、茶色のキュロットスカートという出で立ちで、彼女は淡い水色のランドセルを(かつ)ぎながら狭い道を通る。裏の勝手口から抜け出してきたんだろう。


「ふぅ。なんとか脱出(だっしゅつ)できた」


 重労働を終えたかのように清々しく息を吸う。そして、きょろきょろと辺りを見回した。


「このへん、全然わかんないなー……駅はどっちだっけ」


 右を見て左を見て、首をかしげる。それをしばらく続けていた。道がわからないらしい。

 涼香はたまらず電柱から足を踏み出した。


「駅はここを抜けてすぐの道から右に行けばあるよ」

「うわっ! だれっ?」


 こころの小さな体が大げさに怯える。不審者を見るような目つきで警戒され、涼香は両手を小さく挙げた。

 そこで目線が同じことに気がつき、涼香は自分の姿を見た。視界がやけに低いと思ったら、自分も六年前の姿に戻っている。不思議に思うも、今はそれどころではない。


「私は……えーっと、近所に住んでる者です。たまたま見かけたから声をかけただけ。子どもがこんな時間に出歩いたらダメでしょ」


 言いながら、自分の言葉の矛盾に気づく。こころの目が不審感たっぷりに細くなる。


「自分だって子供じゃん。なに、その言い方。うざいんだけど」


 そう言い返し、ふくれっ面で涼香を睨んだ。なんだろう。六年前のこころは可愛げがなく、口調もぶっきらぼうで面食らってしまう。


「家出でもするつもり?」


 警戒心を張り巡らすこころに一歩ずつ近きながら、涼香は努めて優しく聞いた。すると、こころは不機嫌そうに眉をひそめた。


「家出じゃないよ。だって、あたしの家はここじゃないもん」


 きっぱり言い、こころはポケットからメモ帳を出した。ファンシーなキャラクターがプリントされたメモ帳の中央に、丸っこい文字で住所が書いてある。


「ここがあたしの元の家。学校も転校になっちゃうし、あともう少しで卒業なのにタイミング悪いでしょ。まぁ、あたしがごねたから離婚が延びたわけなんだけど……とりあえず、卒業するまでお父さんのとこに置いてもらおうと思って」

「それ、お母さんには言ってるの?」

「言うわけないでしょ。お母さんはお父さんのこと、大嫌いだもん。お父さんもお母さんのことが大嫌い。あたしは、どっちの味方にもなれないから一応、大人の言うこと聞いてるけど、もう我慢の限界」


 口調は厳しいが、顔が幼いので大した威嚇(いかく)にはならない。こころはランドセルを背負(せお)い、ため息を吐いた。


「だから、あたしもやりたいことをやるの」

「そう。それはいいんだけどさ……実はもうとっくに終電(しゅうでん)過ぎてるんだよね」

「えっ!?」


 こころは丸い目を開かせた。そして、大げさな身振りで頭を抱える。


「や、でも、バスは動いてるでしょ! あたし、知ってるもん、深夜バスとか」

「でも、この住所に行くバスはもう通ってないよ。だいたい、こんな夜中に交通機関が動いてるわけないじゃん」


 涼香はこころのメモを引ったくって言った。それでもなお、こころは納得しない。


「ヤダヤダ、あたしの計画が、こんなとこでっ……まさか、あなた、あたしの計画を邪魔しにきた未来人!?」

「はぁ?」


 思わぬ言葉に大声で驚いてしまう。こころはガックリと崩れるようにその場にうずくまった。


「まぁ、目撃者がいる時点でこの計画はもう終わったも同然なんだけどね……あーあ、最悪」


 どこまで本気だったのかわからないが、決意はもろく崩れたらしい。涼香もしゃがみこんだ。


「ねぇ、帰ろ?」

「………」


 黙り込まれると困る。慰める言葉がすぐには見つからず、涼香は項垂れた。


「えーっと、まぁ、転校は嫌かもしれないけど、そこで新しい友達が待ってると思うよ。だからさ、あんまり暗く考えないで」

「やだ。無理。そんなわけないじゃん。だって、みんな仲良しでしょ。その中にどうやって入っていけばいいのよ」


 未来人の話をしていた元気はどこへやら、手のひらを返すようにこころは素っ気なく言う。

 対し、涼香は呆れた。


「そうやってひねくれて、ツーンとしてたら誰だって近づきたくないでしょ?」


 その言葉はいつかのこころが言ったもの。すると、こころはちらりと顔を上げた。その隙をつくように彼女の頰をつかむ。「むうっ」と呻く声がしても、構わずそのままつかんでおく。


「だって、かわいくないもん。ふてぶてしくブスッとしてたら、かわいくない。いま私が『てめー、なんだこのやろー』って言い出したら、怖いって思うでしょ。それとおんなじ」

「ぶっふふふ。なにそれ、超ウケる」


 こころは口をすぼめて吹き出した。ツボにはまったのか、くすぐったそうに笑った。


「でもその通りかもしれないねー。そっかぁ……」


 納得はしてくれたものの、彼女はまだ煮え切らない様子だ。

 そして、迷うように言う。


「……あたしね、おじいちゃんのことは好きだよ。お父さんもお母さんも。だから、本当は家出なんてしたくないの」

「うん」

「お父さんとお母さんが喧嘩ばかりするのは嫌だし、仲良くしたい。日曜日は家族で遊園地に行きたいし、買い物に行きたい。学校の友達とも楽しく毎日遊びたいの。でも、それがもうできないんだ」


 顔を上げたこころは笑っていた。つらいものを隠すように、目尻が小刻みに震えている。口元は無理やり上に引っ張ったようで、不恰好(ぶかっこう)な笑顔が恐ろしく似合わなかった。


「あたしね、考えてもわからないことがあるんだけど」

「なに?」

「どうして好きなひとと結婚したのに毎日喧嘩するのかな?」


 無垢(むく)で無邪気な問いが、胸に突き刺さる。顔を強張らせるも、こころは純粋な目で続けた。


「どうして好きだったはずなのに、仲が悪くなるんだろ? どうして離婚するなら結婚したの? お互いに嫌いなら、どうしてあたしを生んだの? って……それを聞いたらダメなんだろうね。だからあたしは、ずっと我慢してた」


 それがこころが抱える喪失感。ずっと塞がらない隙間だらけの心で「楽しいことを探さないといけなかった」と語るあの横顔を思い出す。

 虚しい衝撃がじわじわと目頭を刺激した。目の前にいるこころも瞳を潤ませる。


「なんで、幸せって壊れちゃうんだろうね。あたしが悪いのかな? みんなと仲良くしたいだけなのに、その願いはいつも届かないよ」


 こころは自嘲気味に笑う。十二歳にしては大人びた言い方に、涼香は胸が締め付けられた。


「って、初対面の人になに言ってんだか。ごめん、忘れて……」

「こころのせいじゃない!」


 遮るように強く言うと、こころは両目をこぼれそうなほど大きく見開いた。


「え?」

「こころのせいじゃない。絶対に違う。そんな風に考えないで」

「そっか。ありがと……そうだったら、いいな……っ」


 こころは無理矢理に、頰をつまんで口角を持ち上げようとする。その目から、涙があふれた。

 そうやっていつも、涙をこらえていたんだろう。本当は涙もろいくせに、笑って我慢していたんだろう。たまらず抱きしめた。


「多分ね、好きなひとと一緒にいられない世界もあるにはあるんだよ。うまくいかないことの方が多いの。だったら、大事なひとを傷つけないようにするしかないんだと思う」

「でも! でも、お母さんたちは大事にしてくれないよ。あたしのこと、大事にしてくれない」


 悔しげに言うと、こころはたちまち声をあげて泣いた。つらくて苦しそうに泣く彼女を見ていられなくて、涼香も涙が我慢できなくなる。


「大丈夫。大丈夫だよ。こころが大事にしてあげたら、応えてくれるはずだよ。おじいちゃんは優しいでしょ。ね、絶対できるから。こころは涙より笑ってる顔のほうがいい」

「笑えなくなったらどうしたらいいの?」

「私が笑わせてやる。うんざりするくらい笑い疲れさせてやるから。だからさ、こころ。お願いだから、いなくならないで」


 静かに鼻をすすってしゃくりあげるこころを強く抱きしめる。次第に視界がぼやけていき、涙が止まらなくなった。


「ごめんね。こころはずっと考えてくれたのに、私は(ひと)りよがりで鈍感で、気づこうともしなかった。そんな私を助けようとしてくれてたのに、私、友達失格だよ」

「……ごめん、なに言ってんのか全然わかんない」


 こころが涙を拭いながら身をよじる。気が抜けた風船みたいに笑う彼女に、涼香も泣きながら笑った。


「そうだよね、ごめん。なんか、私の友達と重なって」

「そっかぁ。その友達も大変なんだろうねー。あたしとおんなじ名前だし。あはは」


 こころはポケットから小さなティッシュを出した。盛大に音を立てながら自分の鼻を噛むと、こちらにもティッシュを差し出してくれた。一枚もらい、涼香も鼻を噛む。もう一枚もらって涙を拭いた。

 しばらく二人で鼻をすすり、照れ臭くなって同時に笑う。

 こころが咳払いして言った。


「その、あなたの友達の〝こころちゃん〟も嬉しいと思うよ」

「そうかな?」

「うん。だって、あたしが嬉しいから。ありがと」


 えへへと照れくさそうに笑うから、涼香は彼女の赤い鼻をつまんだ。「んにゃっ」と猫のように呻く。


「子どものくせに生意気」

「えー? どういうことー? あたし、なんで怒られてんのー?」


 励ますつもりが励まされてしまったことに悔しくて、それを言えるわけがなく、涙でふやけた鼻をつまんでからかう。すると、こころが逃げるように涼香の手を叩き落とした。


「んもう! これ以上、鼻が高くなったらどうしてくれるのよ!」

「そんなに高くないよ」

「なにをー! 失礼な!」


 どうやら本当に怒らせたらしく、こころはすくっと立ち上がった。


「よし、帰って寝よ。いつまでもウジウジしてらんない」

風邪(かぜ)ひかないようにあったかくして寝るんだよ」

「んもう、子ども扱いしないで! だいたいね、あなた、同い年くらいでしょ。学校、同じになったら友達になってよね」


 ビシッと指を突きつけられ、涼香は両手を小さく挙げた。そして、耐えられなくて苦笑する。


「オーケー、約束する」

「言ったなぁー? 絶対だからね、えーっと……名前なんだっけ?」


 少しだけ、名前を教えるのをためらった。しかし、ここで迷うわけにいかない。涼香も立ち上がりながら、ゆっくりと言った。


「大楠涼香」

「すずかちゃんね、覚えた。よろしくね!」

「うん。よろしく」


 気恥ずかしい挨拶をした後、こころはすぐさまランドセルを担ぎ、建物の隙間へと足を踏み入れた。ちらりとこちらを振り返る。


「バイバイ」

「バイバイ。もう家出しないでね」

「わかってるー!」


 明るい声が闇に消えていく。その後ろ姿をいつまでも見送った。

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