第三十三話
「——涼香」
耳に届くのは柔らかな優也の声。
「大楠、聞こえる?」
不安を押し殺したような明の声も聞こえる。
目を覚ますと、二人の顔があった。視界が明るくなれば、その光に頭蓋骨が悲鳴を上げた。
顔をしかめると、二人が息を飲んで顔をのぞきこんできた。ぼやけた視界がクリアになる。
「大丈夫? 体育館裏で倒れてたんだよ」
すぐに言ったのは明だった。優也は安堵の息を吐いて、天井を見上げた。
「ここは?」
「保健室だよ。病院に連れて行こうかって、先生たちが慌ててたけど、貧血みたいだったからひとまず様子を見てて」
「そう、なんだ……」
白いカーテンの中でベッドを囲む二人を見やり、深く枕に頭を埋めた。大騒ぎになったであろう状況を想像すると恥ずかしくなる。
どのくらい眠っていたんだろう。外を見ると、赤い夕焼けが眩しかった。
「まったくもう……受験勉強のしすぎじゃない? がんばりすぎるのもほどほどにしなよ」
明が体をのけぞらせて笑った。いっぽう、優也も頰を引きつらせたまま苦笑する。
「あんまり心配させるなよ」
どうしよう。頭が働かない。寝ぼけたように見れば、彼らはそれぞれ不思議そうに首をかしげた。
「涼香、本当に大丈夫か? 頭打ったんじゃないか?」
言い方はぶっきらぼうだが、優也の声は深刻そうだった。その扱いに、涼香は反射的に体を起こした。
「大丈夫だよ! ちょっと色々あっただけだから……っ!」
少し声をあげただけで、頭の奥がキーンと痛んだ。思わず項垂れてしまうと、明がたしなめるように優也の太ももを殴る。
「おい、優也」
「ごめん」
優也は素直に謝った。そして、大事そうに涼香の手を握る。
「無理すんな。今日はもう帰ったほうがいい。早く寝て、早く元気になって」
「うーん……そうする……」
ひたいを揉んで痛みを緩和すると、少しはマシになった。まぶたを抑えて、頰をつまんで顔を上げる。
優也と明が並んで座っていると、胸がほっこりとあたたかくなるようだ。安堵のおかげか、顔が自然と笑う。すると、明が人懐っこく言った。
「もうすぐ文化祭なんだからさ、ゆっくり寝て、体を休めてね」
「うん。ありがと……」
「疲れたときは塩だからな。塩なめとけ」
「優也、それ、彼女に言うセリフ? ほかにもっと言うことあるだろ」
こういう場面は久しぶりに見るような気がする。のんびりと穏やかな空間だ。
あの亀裂が嘘みたいに――
「ちょっと待って」
たまらず二人の間に割って入った。明がキョトンと目を丸くし、優也は眉をひそめてこちらを見る。
涼香は優也の手を握り返し、おそるおそる聞いた。
「あの、いま、私たちって何年生?」
「は?」
「いいから答えて」
変な質問だというのはわかっている。すがるように言えば、彼らは顔を見合わせた。
「……三年だけど」
明が言う。涼香は食い気味に次の質問をした。
「じゃあ、今日は何月何日?」
「おい、涼香」
「いいから! お願いだから答えて!」
その剣幕に、優也はごくりと喉を鳴らして驚く。そして、ぎこちなく答えた。
「十月二十日」
何度も繰り返した、繰り返させられた日だった。
いつの間にか時間が飛んでいる。一年の文化祭だったはずなのに、でも、眠っていた時間は二年というわけではないようだ。どうにもこの矛盾が解消できない。
「涼香、もういいから寝ろ。疲れてんだよ。親には連絡入れとくから、スマホ貸せ」
心配からのいらだちが彼の手から伝わってくる。
涼香はカーディガンのポケットから素直にスマートフォンを出した。優也に渡すと、彼は顔をしかめたまま「ん」と唸った。いっぽう、明は涼香と優也を交互に見ており、その場から動こうとはしなかった。
優也が涼香のスマートフォンを操作し、保健室を出て行こうとする。
「明、涼香のこと見といて。こいつ、大丈夫じゃないのに大丈夫って嘘つくから」
「わかった」
あしらわれてしまうことにモヤモヤするが、それよりもこのタイムパラドックスを処理するのに忙しい。いや、矛盾はないのかもしれない。確実に過去は上書きされている。ということは、過去改変が完了したことを意味するのだろう。
これが、こころが望んだ世界か。
涼香はあたりを見回した。すると、はだけたシーツを明が掛け直そうとした。優也の言うとおり、涼香を寝かしつけてくる。
「そんなわけだから、親が迎えにくるまで寝よう」
「待って待って。その前にもうひとつだけ聞いていい?」
「えぇ?」
ためらう明だが、構っていられない。涼香は間髪をいれずに聞いた。
「こころはどこ?」
「え?」
「こころだよ! 右輪こころ! あの子はどこにいるの?」
彼女の姿が見えないから、余計に不安になる。こういうとき、絶対に横にいてくれるはずなのに。
最後に彼女を見たときは、随分とひどいことを言った。自分の弱さを押し付けた。
謝らないと。
でも、その前に彼女の安否が気になる。妙な胸騒ぎが止まらない。
明は困ったように眉をひそめた。天井を見上げ、枯れた笑いをこぼす。やんわりと、こちらの事情を汲もうとするも、彼の問いはストレートなものだった。
「えーっと……だれ、かな?」
そんな言葉は聞きたくなかった。
***
スマートフォンの中にあるはずの、こころの連絡先を調べた。しかし、どこにもなかった。そのあと、郁音と羽村にメッセージを入れた。翌日、教室で机を確認した。担任教師にも聞いた。
しかし、誰もが不思議そうに口を揃えて返してくる。
【だれの話?】
右輪こころという存在がどこにもなかった。繰り返してきた時間の上書きの代償に、こころが消えた。
入学式の日、教室のベランダで話しかけたあの時間も、何度もやり直してきた文化祭もなかったことにされている。
文化祭――間もなく、高校生活最後の文化祭が迫っていた。時間はあざ笑うかのように止まってくれない。
涼香は、もの足りない教室でただ呆然としているだけしかできなかった。そして、文化祭前日というこの日もひっそりと教室から離れ、体育館裏でぼんやりとうずくまっていた。
グラウンドでは明日の祭りに備えようと制服姿の生徒と、部活動に励むユニフォームがせめぎ合う。すると、外を走る男子バスケ部の生徒たちの掛け声が聞こえてきた。屋内競技の部活は外で体力トレーニングをしているらしく、その中には引退したはずの優也の姿もある。その様子をフェンス越しにぼんやり眺めた。
時の流れが無情で、居場所がどこにもないように思えてくる。あの思い出全部が幻なのではないかと、虚無感にさいなまれる。
どうしてこんなことになったんだろう。また道を間違ってしまったんだろうか。こころが消えてしまう世界が正解だったとでもいうんだろうか。
「違う。そんなこと、絶対違う」
こんな結末は望んでいない。
じゃあ、なにが正しかった——?