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上書きした世界で、また巡り会えたら  作者: 小谷杏子
第五章 ミズイロ炭酸水
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第三十二話

 涼香は記憶の海に身を投げた。まばたきをすればするほど視界の色が()せ、解像度の落ちた世界に沈んでいく。

 こんなはずじゃなかったのに、現実はどんどん冷たく(にご)っていく。

 考えたくない。なにも考えたくない。なにも知らなかった時代へ帰りたい。


 ***


 四月十日。

 涼香はその日、高校一年生になった。晴れやかな気持ちでいたわけではなく、あくびが絶えない朝だった。

 校舎を囲む葉桜がまるでモザイクのように目障(めざわ)りで陽気な春。浮き足立つ両親のカメラを適当にあしらい、そそくさと新しい教室へ駆け込んだ。地元の学校なので、教室には同じ中学の顔見知りが何人かいる。


「あ、おはよー、涼香」


 声をかけてくるのは中学から仲が良かった美作郁音だった。すらっと長い片手を挙げて涼香を呼ぶ。

 黒板に貼られている席表では校庭側の最後列が自分の席だった。郁音は反対側の廊下側。涼香は口だけで「おはよ」と短く言い、自分の席に座ることを選んだ。

 郁音はどうやら、自分の周りの席にいる女子生徒と楽しげに話をしている。その間に入りこむほど爛漫(らんまん)な性格ではない。

 とは言え、一人でホームルームまで待つのは退屈(たいくつ)だ。ふと、ベランダを見やる。

 ふわふわの三つ編みの小柄な女子生徒が教室に背を向けて校庭を見つめているの姿が目に入った。そろそろと彼女の背後まで近づき、ポンと肩を押す。


「ねぇ」


 なんとなく声をかけてみると、彼女は怯えたように振り返った。


「わっ……わー?」


 目をしばたたかせ、驚きの声を上げるも続かない。そんな彼女の困惑を受け、涼香は愉快に笑った。


「はじめまして」


 かしこまった挨拶をしてみると、彼女も慌てて「はじめまして」と返してくれた。ぺこりと一礼する。


「あ、あの、あたし、右輪こころです」


 ふんわりとした明るさを持った彼女に、すぐに好印象を抱く。それまで気だるいと思っていた入学式や春の空気が、たちどころに淡いうららかな陽気を帯びるようで、急に心が軽くなった。


「私は大楠涼香。よろしく」

「んふふふ。こちらこそ、よろしくね」


 まだ緊張が残る笑いを交わす。

 教室の熱よりも、ベランダの爽やかな温度がちょうどいい。会話が走らずに済み、緩やかな間が空く。涼香は教室を見やりながら、こころに言った。


「この学校、ほとんど同中(おなちゅう)だった子が入学してるんだよね」

「あ、なるほど。どうりで、みんな仲良いなって思ってた」

「右輪さんは、どこ中だった?」

紅林西(くればやしにし)中学校だよ」


 紅林西と言えば、この窪地域から電車で三駅離れた場所にある。中学生のとき、バスケの試合観戦のために一度だけ行ったことがある。


「へー。遠いとこから来てるんだね」

「ううん。地元はこっち。いろいろあって、転校しなかったんだけどね」

「ふうん?」

「あたしの家、くぼ商店街の中にあるミギワ堂古書店なんだけど、行ったことある?」

「あー、何回かあるかも。ってか、私の家から近いよ」

「そうなの!? わー、すっごい偶然!」


 しきりに嬉しそうな声をあげるので、こちらまで嬉しくなってくる。


「あたし、友達できるかすっごく悩んでたから、いますっごく安心してる。あー、良かった! 涼香ちゃん、声かけてくれてありがとう!」

「涼香でいいよ」


 涼香は口の端をプルプルと震わせた。気恥ずかしく、思うように笑えない。


「じゃあ、あたしもこころって呼んで」


 人懐っこい彼女は笑ったプードルみたいだ。愛嬌たっぷりの彼女の笑顔につられてしまう。面倒だと思っていた新生活も、彼女がいれば楽しめそうだ。

 そう思っていると、教室に勢いよく走りこんでくる気忙しい音が鳴った。教室がわずかに時を止める。


「おはよー! おー、お前も同じクラスか! なんだよ。かわりばえしねぇな」


 教壇に上がって全員を見渡すのは、テンションの高い男子生徒。こちらもよく知っている顔だ。


「うるせーよ、寺坂」


 彼に肩をつかまれた男子生徒が文句を言えば、その場にいた全員からどっと笑いがあふれる。寺坂優也の堂々たる登場に、涼香は冷めた息を吐いた。


 ——あいつも同じクラスか。


 ただでさえ教室の温度が高いのに、優也のはしゃいだ声が混ざれば騒音となってしまう。


「あのひとも同中?」


 こころが聞いた。あっという間にクラスメイトに囲まれる彼の人気ぶりに驚いている。涼香は煩わしいとアピールするように顔をしかめた。


「寺坂っていうんだけどね。私、中三の時もあいつと同じクラスだったんだけど、うるさいのなんのって」

「ほほーう。なんか面白そうな人だねぇ」

「まぁ、ムードメーカーと言えばそうなんだけどさ」


 優也に対する涼香の評価はそれほど高くはない。呆れた様子で見ていると、優也が人懐っこい笑顔をこちらに向けた。


「あー! お前もいたかー、大楠!」


 ツノのような寝癖がたった髪型で、彼はバタバタと机の間を縫って涼香のもとにやってくる。


「やだ、こっちにこないで。鬱陶しい」

「いいじゃん、俺とお前の仲なんだしさ」

「誤解を招く発言はやめて」


 そういう調子のいい態度が嫌だった。彼の腕をバシッと思い切り叩くと、スナップの効いた力加減に優也は驚いて目を丸くした。


「暴力反対!」

「あーもう、うるさい! ほら、こころが困ってるじゃん。あっち行け」

「こころ?」


 優也の目がようやくこころをとらえた。同時に、こころが頬を緊張させて笑う。


「あ、あの! あたし、右輪こころっていいます」


 急なことに面食らったのか、彼女はぎこちなく言った。対し、優也は軽い。


「おー! 新顔発見! いやぁ、かわり映えのない連中ばっかで新鮮みっていうの? そういうのがないからさー。良かったぁ。あ、俺、寺坂優也です! よろしく!」


 畳み掛けるように失礼な発言をする優也に、涼香は彼の胸にパンチした。こころが吹き出す。パンチを食らった優也は涼香のひたいをはじこうと構えていたが、それを素早くかわす。

 この一部始終を、こころは感心げに見ていた。ぷくっと頬をふくらませ、笑いをこらえている。


「仲いいんだねー」

「よくない!」


 言ったのは涼香だった。それに(ともな)い、こころは大仰に笑った。すると、優也が調子に乗る。


「こいつ、すぐ暴力振るってくるからなぁ。右輪さんも気をつけろよ。大楠もむやみに俺を罵倒するな! でないとお前の本性を知って右輪さんが逃げるかもしれねーからな。友達なくすぞー」

「はぁ? なにそれ。意味わかんないんですけど」


 本性もなにも、いまだって素のままの自分だ。優也の言い方に呆れるも、いっぽうでこころは絶えずに笑いころげている。それをたしなめるように涼香は言った。


「そんなに笑うと寺坂が調子に乗るから」

「あははっ。だって、面白いんだもん……ふふっ。みんな仲良くていいね」


 涼香も優也も顔を見合わせた。その不思議そうな顔が愉快だったのか、こころは体をくの字に曲げて笑った。


 はじまりの日は陽気な色についていけず、気後(きおく)れしていた。でも、なじませていけば色が混ざるのと同じように、こころはあっという間にクラスに溶け込んでいき、それに合わせて涼香も正体不明な煩わしさから少しは解放された。

 みんな仲が良くて楽しかったあの日々。懐かしくて胸が爪弾(つまび)かれそうで、地味にじくじく痛みだす。

 いままで、不干渉(ふかんしょう)で鈍感だった。だれかの心を救っているなんて、思いもしなかった。また、だれかを傷つけているなんて思いもしなかった。どうせなら痛みにも鈍感でいられたら良かったのに——。


 耳元でギュルギュルとフィルムを巻く音がする。

 目を開けると、空が(まわ)っていた。

 濃紺とオレンジと、水色と白。黄色の光源が点滅し、一定の間隔で横切る。色が反発し合う。ぐるぐるとかき混ぜられ、次第に渦を巻いて溶ける。やがて色がもつれ、淡い色は濃い色に吸収された。

 その極彩色の天井へ思わず手をのばすと、涼香の腕までもが一気に飲み込まれた。

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