第三十一話
考えれば考えるほど、この現象は不可思議で奇妙だ。
おまじないを試しても、即効性がなかった時点で気づくべきだった。てっきり自分が世界を動かしていたのだと信じて、自分を責めて、悔やんだ――どうやら、それは勘違いだったらしい。
目の前のこころが静かに言う。
「……杉野くんと郁ちゃんを助けて、羽村さんを黙らせて、寺坂くんに協力して、告白大成功っていうシナリオを、今回はぜんぶ涼香にとられちゃったね。なんで邪魔するのかなって、思ってたんだけど……まぁ、一緒に何度もタイムリープしてたなら説明がつくよね」
さかさ時計のおまじないを教えたのは、こころだ。いつでも先回りして、あたかも自然を装いつつ、すべてを掌握していたのもこころだった。
「タイムリープをしていたのは、あたしだよ。でも、いつの間にか涼香まで巻きこんでたみたい。そうなんだと思う」
こころは静かに息をひそめて言った。
「少なくとも三回は一緒にタイムリープしてる。杉野くんを助けに行ったとき、あたしは郁ちゃんのバンドを仲裁するはずだったの。それを、二回目の世界では涼香がとっちゃった。それはたぶん、あたしが杉野くんを助けたからなんだろうね」
淡々としていくこころの空気に気圧され、涼香は奥歯を噛み締めた。
まさか、タイムリープの首謀者が別にいるとは想像もつかなかった。
「覚えてる? 涼香がうちでタイムリープの話を持ちかけたの。寺坂くんと別れてから、デジャブがどうのって言ってたでしょ」
「あぁ……そんなこともあったね」
あえて突き放すような言い方をする。こころの顔は蒼白で、手が震えていた。その態度を見ても、涼香は真剣に話を聞くことができなかった。
「どのみち、時間をまた戻すつもりだったから、涼香にもおまじないを試すように提案してそのまま有耶無耶にするつもりだったの。でも、また一緒に戻ってる。涼香は目先のことしか見てないから、どうにかごまかすことができたけど……涼香の具合が悪くなるほどのことが起きるなんて、思わなかった」
認めたくない。でも、すべての黒幕であるこころの声のどこにもふざけた色はなく、痛いほどに現実感が押し寄せる。
こころは淡々と言った。
「正規ルートを言うとね、涼香と寺坂くんが杉野くんを助けて、その裏であたしが郁ちゃんを助けて、羽村さんと話し合う。でも、涼香と寺坂くんの仲をもっと深めるには、もっと大きなイベントがないとダメで。その結果が……杉野くんと仲がこじれるっていう最悪な末路だったわけで。涼香があんなに必死になって、杉野くんと仲直りしたいって言うから、だから……」
聞けば聞くほど、口の中が冷えていく。漠然と感じるのは、拒否。
鋭利な刃物で心臓を一突きされたような、雷にでも打たれたかのような、全身を刺激する衝撃を直に受ける。棒立ちの涼香に、こころは目を伏せた。
軽々しく時間を操作していたことを悔やんでも、もうあとの祭りだ。どれだけ嘆いても、この事実は覆せない。
「じゃあ、なに? こころは明のことを傷つけたから、そのお詫びに時間を戻したってわけ?」
「ちょっと違う」
こころの声も冷めていく。低く固い声音は、彼女のものとは到底思えなかった。なにかに耐えるように、懸命に気持ちを押し殺している。
「あたしは、杉野くんのために時間を戻したわけじゃない」
「謝るって言ってたくせに? 全部なかったことにしたわけ?」
「そう、なるね……」
「なによ、それ」
瞬間、頭に血がのぼる。
こころの肩がびくりと震えたが、構っていられない。
「明のことをあんなに傷つけといて、よくそんなこと言えるよね。羽村だってかわいそうだよ。嘘がつけない優也も悩ませて、それで、こころはみんなの思いを平気で踏みにじってきたの? なんの目的があってこんなことをしたの?」
「……そんなこと考えてたんだ。涼香って、意外と情に厚いんだね」
「私、真面目に言ってるんだけど!」
涼香は堪らず叫んだ。
罪悪感に打ちのめされるのは自分だけでいいと思っていた。それすらも踏みにじられた。すべては、こころが仕組んだことだから。何度も、何度も、無意味に奔走しただけだった。
「……私がやったのは、なんだったの?」
迷って、悩んで、ようやくたどり着いたと思った明るい世界。本当はなにも手を加えなくてよかったのに、考えなくてよかったのに。上書きを続けた世界は、自分の時間ではなかった。
他人から時間を支配されていたと知れば恐ろしくなり、寒気が止まらなかった。
「バカみたいだね。いや、そもそもこの現状こそがおかしいんだけど。私は、こころに振り回されてただけなんだ?」
「ごめん……」
「否定してよ。そんなつもりじゃなかったって言ってよ」
「あたしがそんなこと言う資格はないから」
彼女もわかっている。わかっていながら、何度もこの世界を繰り返してきた。その意図がいまだにわからない。
怪訝に睨んでいると、こころは息苦しそうに言った。
「それでも、あたしは涼香を助けたかった。涼香が迷って悩まないように、世界を変えたかったの」
「は……?」
「すべては涼香を助けるために。だからあたしは、寺坂くんや杉野くん、羽村さんも傷つけた。見てみぬふりをした。涼香のために」
「なに、それ。なによ、その理由……」
それは、重い。重苦しい。親友のために、時間をも操ろうとした彼女の気持ちが重くのしかかる。
涼香はよろよろと後ずさった。同時に、こころはすがるように言った。
「ね、お願い。わかって。この先、涼香が幸せになれるようにがんばるから。絶対にうまくいくようにするから……」
「やめて!」
思わず叫ぶと、空気が凍る。わななく声がこころの体を震わせた。
「そんなこと、しないでよ……私のためだなんて、そんな重たいこと言わないでよ!」
空気が重い。あらゆる感情が混在していき、そのどれもが熱となって血に混ざる。
「世界を変えたかった? バカなこと言わないで。私の世界を勝手に決めないでよ。それが善意だと思ったら大間違いだから!」
胸が痛い。大きな爪でえぐられたように傷ついた。こんなに血がのぼったのは生まれて初めてだ。
「それに、いまさらだよ。いまさら遅いよ。私の周りにいるひとたち、みんなの気持ちを知ってしまった以上、もう元には戻れない……」
自分の痛みに気づかず、ずっと鈍感でいたかった。
「嫌だよ……こんな風に悩むのも、怒るのも。痛みだって知りたくないし、怒られたくないし、悲しいことからは目を逸らしたい。見たくないし聞きたくない。私は、鈍感でいたいの」
古傷も生傷も平気な顔で放置したい。苦味は取り除いて、甘いものだけをおいしく食べていたい。友達とも彼氏ともゆるく付き合って、ほどよくちょうどいい世界で、適度に誰かを羨んでいたい。ぬるい浅瀬で奔放に漂っていたい。そんな世界がよかった。それなのに。
「でも、それがもうできない……見て見ぬふりができないくらい、いろんなものを知っちゃった」
「涼香」
「自分のことで精一杯でいたいのに。他人のこと考えて生きるのって、つらいだけじゃん。知りたくなかったよ」
いままで当然のように生きてきたのに、後ろばかり振り返って戻れなくなっている。
涼香はショックのあまり、耳をふさいでしゃがみこんだ。大きな脱力が全身を襲う。
「私は中身のない人間なんだから。期待しないで。重いんだよ。そんなものを押しつけないで。私を巻きこまないで」
この感情をぶちまけても意味はない。でも、吐き出さないと耐えられない。所詮、その程度の人間だ。
「こころ……」
負の感情でふくらんだ頭を持ち上げる。
「懲りたんじゃなかったの?」
認めたくないから口は攻撃的になる。熱と痛みで潤んだ視界は、相変わらず有彩と無彩を繰り返していた。白黒の背景で、言葉を失ったこころの輪郭がブレていく。
「懲りたって言ってたくせに。ぜんぶ嘘じゃん。羽村にえらそうに失恋を押し付けて、明を傷つけて、優也を脅して、私を騙して」
「……ごめんなさい」
「謝って済むこと?」
「ううん」
「じゃあ、意味ないじゃん。あんた、自分がしてきたこと、わかってるの?」
少しでもこの痛みを彼女に感じてほしかった。言葉を鋭く尖らせれば、彼女も痛みに呻くように顔を覆った。肩を震わせて嗚咽を漏らす。
「そんな言い方しないで」
「ここまでやっといて、まだそんなこと言うの? 甘えないでよ」
「わかってる。そんなこと、十分わかってる!」
金切り声で遮られても、傷んだ心はそう簡単に震えない。
こころはしゃくりあげて泣いた。大粒の涙を地面に滴らせ、崩れるようにしゃがみこむ。湿った土の上に座り込み、力なく項垂れた。そんな彼女に、涼香は冷たく言った。
「わかってるんならさ、私の時間、返してよ」
「そんなの……」
「返して。戻してよ。最初の時間に戻して! 過去に戻れるんなら、私の記憶も戻してよ! なにも知らなかった時間まで戻して!」
「っ……できないよ……」
絞り出すような声でこころが言った。足が地面に沈んでいくように、空気が重たい。こころが鼻をすする音と、涼香が息巻く音が立ち込める。
もし、また時間をさかのぼったとしても、この世界に干渉した以上は記憶が戻ることはない。何度同じ時間に戻っても、記憶だけはリセットできなかった。
できるわけがない。それでも責められずにはいられない。
「私、こころがなにを考えてるのか、本当にわかんない」
涼香は投げやりに言った。
いくらか感覚が鋭敏になっても、彼女が抱える自己犠牲精神がいまだに理解できなかった。どうして他人のために、平気で時間を捻じ曲げられるんだろう。あらゆるリスクを抱えてまで、実行する意味がわからない。
答えを待ち望んでいると、こころも観念したように顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった顔が見つめてくる。こころは苦しそうに息を吸った。空気がひりつく。
「——涼香は、寺坂くんと別れたあと、壊れてしまったんだよ」
思いがけない言葉に、それまで溜まっていた鬱憤が急激に消失した。風もない無音で、景色が薄くモノクロになっていく。ふるりと背骨が震え、時間差で寒気が昇った。
「壊れた? 私が?」
「そう。じわじわと、ゆっくり。ふさぎこむようになった。どんどん自分を見失って、誰にもなにも言えずに、殻に閉じこもって」
「ちょっと待って。こころ、なにを言ってるの?」
「あたしにも話してくれなくなった。それも、杉野くんと付き合うようになってから涼香は変わってしまった。そのうち、杉野くんともうまくいかなくなって、自信をなくして……あたしの前からいなくなったの」
一息に言うと、彼女は鼻をすすった。その時間が無限に続くような錯覚を感じた。思考は困惑と恐怖で機能を停止している。
知らない世界を語る彼女がおぞましいものに見えた。そのどれもが現実的ではなく、瞬時に理解できない。この戸惑いを察したか、こころはゆっくりと告白した。
「あたしは、涼香から見れば〝ゼロ番目の世界〟からタイムリープした右輪こころ。もっと最悪な結末を知ってる」
涼香は後ずさった。
つまり、目の前にいる彼女は——同じ時間を過ごした右輪こころではない。最初のタイムリープが一番目だとするならば、いまここにいる右輪こころはゼロ番目の世界からきたことになる。
「つまづきを知らないから、落ち込み方も下手だった。楽して生きていたいって言うけれど、それだと、いざ傷ついたときに立ち上がれなくなる。自暴自棄になって、さらに一人ぼっちになっちゃう。そんな風になってほしくない」
いつかの彼女が言った言葉が流れてくる。喉を引きつらせて涙ながらに訴える彼女をまともに見ることができなかった。頭が痛い。引いたはずの痛みが戻ってくる。
「涼香の孤独を知りたかった。なにより、あたしは寂しかった。涼香まで失いたくない。だから変えたかったの。でも、どうせなら幸せな世界で生きててほしいじゃない。だから、だからあたしは……」
うずくまっていた彼女の輪郭がぼやけた。過去を書き換えた代償か、視界がひどくゆがんで見える。
ぐらつく頭を抱えていると、唐突にこころの声が途切れた。
「こころ——?」
いない。そこにいたはずのこころの姿がどこにない。忽然と消えている。
瞬間、涼香は記憶の海に引きずり込まれた。膨大な時間の渦に巻きこまれ、周囲の音が不協和音となって駆け抜けていく。そこには、かつてたどるはずだった薄暗い未来があった。
こころが語った「ゼロ番目」の世界が見える。こころがたどった最悪な未来というのは——
「私は……死んだの?」
暗くよどんだ部屋の中で横たえる自分の姿が目に映ったとき、空がずうんと落ちてきた。
視界が暗転する。
意識は遠くかなたへ——