第二十九話
午前十時。順当にいけば、郁音はいまごろ部室で困っているはずだろう。
一年二組のパンケーキ屋は一般解放された午前中は客足がピークだった。一組のアイスが好評で、いまや当番じゃない羽村やこころまでが裏でパンケーキを焼く作業に徹している。
優也と明はバスケ部に顔を出しており、いまは教室にはいない。こころの企みも鳴りをひそめているようだ。
「ちょっとトイレに行ってくる」
こころにそれだけ言い、涼香は廊下に出て、すぐさまスマートフォンを操作した。美作郁音の電話番号を呼び出す。
「あ、もしもし、郁ちゃん? そっちはどんな様子?」
何度目かのコールで、郁音が電話に応じた。
『涼香じゃん。えーっと、どんな様子って、そんな急に言われても……』
郁音は切羽詰まった声で叫んだ。思わず耳から画面を離し、涼香は顔をしかめて聞いた。
「いま、現在進行形で超やばい非常事態発生中じゃないの?」
『どうなんだろ。まぁ、そんな予感はしてるよね。て言うか、私たちのこと、どこかで見てるの?』
「……いやぁ、そんな予感がしただけですよ」
怪しく含むように言えば、郁音は思考停止したように「あー」と腑抜けた声を垂れ流した。予想よりも郁音の声は「超やばい」というほどに焦ってはいなかった。
『いまね、麟と雫が喧嘩しててさー。出番もうすぐなのに冷戦状態』
「喧嘩してるんなら、止めなよ」
『や、でも、これくらいいつものことだし』
彼女の声は呆れた調子で、苦笑が混ざっている。あの激しい大喧嘩はまだ始まっていないようだ。
思えば、最初の世界では二人の喧嘩が起きていたのか定かじゃない。この違和感に気がつき、涼香は唸った。時間のズレはあっても、BreeZeの解散危機は訪れる。いまの段階で冷戦状態なら、本番までに麟の大爆発が起きかねない。
「でも、それならなおさら郁ちゃんがしっかりしないとダメだよ。バンド、続けたいでしょ? ここで終わりにしたらもったいないよ」
『うーん……そこまで深刻じゃないんだけどね』
なんとも煮え切らない。
「ちょっと、伊佐木に変わって」
『え? なんで?』
「いいから早く!」
『えぇー? うーん……わかった』
郁音の声が遠のく。電話口がざわざわと慌ただしくなる。ノイズが走り、やがて無愛想な麟の声が聞こえた。
『はい、どちらさま。こっちはいま、すっげー機嫌悪いんですけど』
「郁ちゃんの友達の大楠です。私、BreeZeのライブ、楽しみにしてるんだからさ、くだらないことで喧嘩しないで。あと、うちの郁ちゃんは午後から当番なので、こっちに速やかに回してください。以上!」
畳み掛けるように言えば、その圧力に押されたようで、麟は困惑気味に唸った。
『えーっと……うーん……あー、はい、わかりました……つーか、お前はなんなんだよ!』
我にかえったらしく、彼の声が徐々に熱を帯びる。それをもひっくり返そうと、涼香は強く厳しい口調で言い放った。
「文化祭実行委員よ。あと、あんたたちのファンだから。それ以外の何者でもない!」
一方的に通話を切る。これで少しは頭が冷えたらいいけれど。
しかし、こちらの問題はついでだ。郁音のことも気がかりでいたし、なにより過去をたどるには避けては通れない道だと思う。
スマートフォンをカーディガンのポケットに押し込み、いまだ慌ただしい教室に向かった。
***
ふかふかと弾力のあるクリーム色の生地に、真っ白な雪どけのような生クリームを絞る。そして、ドライフルーツと乳白色のバニラアイスを添えると、一年二組特製アイスパンケーキの完成だ。これがかなり好評で、一組のアイス問題も解決の兆しが見える。
「大楠ー」
呼んだのは羽村だった。彼女は今朝からずっとこの調子だ。懐かれるのも困りものだが、客足もいったんは引いたこともあり、涼香はゆるく返事をかえした。
「なに?」
「ちょっと休憩してきなよ。寺坂も戻ってくるし」
「それなら、なおさらこっから出たくないわ」
優也と入れ違いになるのは嫌だ。羽村がわざと言っているのがわかり、涼香は素直にふくれっ面を見せた。その頬を羽村が「えい」と人差し指で突き刺してくる。
「ちょっとくらい、私に寺坂を貸してよ」
「ダメ! そのお願いは聞きません!」
「なんだと、このケチんぼめ」
悪態を見せつつ、彼女はどこか楽しげだった。
「冗談じゃん。まぁ、真面目な話、美作さんがこっちに来れそうなら、あんたたち二人で文化祭デートでもしてきたら? それくらいの後押しはしてあげるよ」
目を白黒させる涼香に、羽村は照れ隠しに笑う。二人の間で確実に空気が変わった。羽村の素直な協力が嬉しい。さっそくエプロンを外して押し付ける。
こんな風に打ち解けられるなんて思いもしなかった。
「あれ? そう言えば、こころ知らない?」
見回すと、教室にあのふわふわの三つ編みがいないことに気がつく。さっきまでパンケーキを焼いていたはずなのに。
「さぁ……トイレじゃない?」
羽村も行方を知らないらしい。
「はい、行った行った。ここは任せて、楽しんでおいで」
慌ただしく背中を押され、涼香は祭りばやしの中へようやく飛び込んだ。
結局、今朝は優也と二人きりになることもなく、彼とこころの作戦はまだ果たされていない。こころがいま、なにを考えているかはわからないが、優也へ告白の指示を送っているのは容易に想像できる。今朝の段階で作戦が行使されないとなれば、あとは後夜祭で再び実行しようと企む。その前に優也へ告白して、なんのわだかまりもなく文化祭を終える。最後はBreeZeのライブを観て大団円。これで完璧だ。
涼香は廊下に貼られたポスターを見ながら、優也へ電話をかけた。その後ろでは客引きの生徒たちであふれかえっている。
「サッカー部、サッカー部のイカ焼き亭は、玄関前露店にありまーす。よろしくお願いしまーす」
「体育館ステージにて、演劇やりますよー! 開演は十四時からでーす! どうぞご観覧くださーい!」
コールが続く。優也はなかなか電話に出てくれない。
一度切って、もう一度かけ直した。
「ばけがく実験室に興味ないですかー? 化学室で大実験やってまーす。次の実験は、銅貨を金に変える錬金術でーす。ご興味ありましたら、ぜひB棟の化学室へー」
「かるた部の百人一首、ぜひご参加ください! そこのあなた! かるたやりましょう! かるた! 初心者でも大丈夫ですよー!」
「漫研部誌販売中でーす。『その夢は、誰の夢?』略して『ゆめだれ』! 気鋭の作家とりそろえてまーす!」
元気な声に電話のコールがかき消され、涼香は頬をふくらませた。仕方なく、辺りを見回して目ぼしい食べ物屋を探す。玄関前の露店に行けば、なんでもそろうだろう。
アイスとパンケーキを食べすぎて、舌は甘さが残っている。しょっぱいものがほしい。そのとき、記憶のフィルムを巻き戻して思いついた。
「からあげ食べよ」
そこに行けば優也がいるかもしれない。
そうして体育館の方へ歩いていると、ふわふわの三つ編みが目の端を横切った。
「あれ、こころ――」
しかし、彼女はこちらに気づかず、体育館へ入っていく。中は軽音楽部の演奏が始まるようで、観客が多い。上級生の男子生徒たちに割り込まれ、涼香はこころの捜索を諦めた。
『どうもー! 軽音楽部期待の新星、BreeZeでーす!』
爽やかに快活な麟の声が聞こえる。
やがて、彼らのステージが始まった。玄関に近い体育館から漏れてくるのは、いくらかぼやけたギターサウンド。ひっきりなしにジャカジャカと掻き鳴らす音の中、麟の涼やかで優しい歌声が響く。流行りの邦楽バンドのコピーを演奏しているらしい。
それを聞きながら、涼香は正面玄関の露店密集地帯へ足を運んだ。
剣道部が主催するからあげの露店に、見覚えのある逆立った黒髪の男子が見える。そろそろと忍び寄り、彼の膝の裏目がけて思い切り膝カックンをお見舞いした。
「うわぁっ」
間の抜けた驚きをし、すかさず優也が振り返る。
「大楠!」
「ぼさっとすんな、寺坂。私の電話、二回も無視してくれちゃって」
責めるように言うと、彼は慌ててズボンのポケットからスマートフォンを出した。画面を見やり、痛そうに顔をしかめる。
「うっわ、ごめん! クラスのことでなんかあった?」
「ううん。そこに関してはまったく問題ないんだけど……」
「けど?」
「私が会いたかっただけ」
どれだけ振り切れたとしても、口に出して言うのは照れが生じる。涼香は視線を落とし、優也のすねを軽く蹴った。
「そんな風に言われたら、勘違いしそうなんですけど」
優也も照れたのか、ぎこちなく笑う。
「勘違いしたらいいじゃん」
彼の笑顔が固まった。さっきよりももっと大げさに目を開かせる。空を眺め、遠くを見つめてしまい、彼の心がふわふわと浮いていく。そんな気がして、涼香は優也の腕を引っ張った。
「ちょっと、それくらいで浮かれないでよ」
「え? あー……えーっと? ごめん。待って、いま、なにも考えられない」
とぎれとぎれに言う優也の頬に赤みが差す。すると、背後で剣道部の女子マネージャーがメガホンを持って叫んだ。
「そこー! いちゃいちゃしなーい! 買うか買わないかはっきりして!」
「うわぁっ! 買います! すいません!」
赤い顔のままで露店へ走る優也。その後ろで、涼香は腹を抱えて笑った。