第二十三話
聴いたばかりの曲を口ずさむと足取りはいくらか軽やかだった。頭痛と予算書に悩む生徒会長に二組の申請書を叩きつけ、悲鳴をあげる彼を笑いながら教室へ戻る。
手洗い場を横切った、その時だった。
「あれ? 大楠?」
背後から呼ばれた。ハスキーな柔らかい声。後ろにいるのが明だというのは、すぐにわかった。それまで自然と楽しかった足がピタリと静止する。
「明……」
やや絶望めいた声が出てしまった。
いま、ここで会うのはまずい。そんな涼香の顔色をうかがいつつ、明は人懐っこく寄ってきた。
「なんか機嫌がいいね。いいことあった?」
「あー……えーっと、『BreeZe』の演奏を聴いて……」
「あぁ、さっき聴こえてたね。もしかして、練習してるとこ見に行ったとか? あそこ、関係者以外立ち入り禁止なのに。いけないんだー」
優也と喧嘩している最中なのに、どうしてこのひとはこんなにすんなりとすり寄ってくるんだろう。
わざとだろうか。ないがしろにしている優也に対し、地味な仕返しをしているのだろうか。疑心がよぎり、涼香はすごすごと離れる。
「大楠? どうした?」
彼は手洗い場まで追い詰めてきた。逃げ場がない。
「明、あのさ」
「ん?」
「私、優也と付き合ってるんだよね」
「知ってるよ。なんだよ、改まって」
言葉の裏を読んでくれない。こちらの気まずさをどうしてもわかってくれない。気分がどんどん下がっていく。
「こうして明と会ってると、優也が誤解する」
「なんで? それならクラスの男子、全員がその対象じゃない? 僕だけがダメっていう理由がないでしょ。いままでだって普通に話してたのに。変だよ」
今日の明はやけに強気だ。
「それは、そうだけど」
流されるな。
強く思っても、心はゆらゆらと危なっかしい。優也とこころに散々言われたことだから、かえって気まずい。それを明は察してくれない。
にっこりと優しく笑う顔が、なんだか怖い。優しくも厳しい圧を感じ、目をそらした。
「もしかして、優也に会うなって言われてる?」
「………」
「図星か。まぁ、そうかもしれないね……僕が大学の推薦枠をとったから、あいつは僕のことが気に入らないんだ」
「それは違う!」
感情が急いて、強く口走った。自分でも驚くほどの大声で、周りにいた生徒たちが振り向いた。その視線に、明も気にしたらしく、顔を引きつらせた。ようやく笑顔の仮面が崩れ、どことなく機嫌の悪さがうかがえる。
「……場所、変えよっか。ちょっと、話したいことがある」
その提案には静かに乗るしかない。高揚はすでに冷めきっていた。
屋上へは生徒の立ち入りが禁止されている。しかし、いまは横断幕を用意する生徒会の出入りが激しいので、普段は施錠されているはずの扉はすんなり開いた。
濃い青空と、焼けるような西陽。青が強く、景色は見事なブルーモーメント。だが、きれいな風景も寒風が吹けば寒々しく感じる。
「屋上、初めて来たなぁ。空がきれいだねー。ね、大楠」
「そうだね」
冷たい風を受けるせいで、いつもより口が重くなる。迷ってしまう。すると、明は心配そうな顔を向けた。
「寒い? 僕のカーディガン、使う?」
「ううん。いらない。って言うか、そういうことしないでよ」
「せっかく気遣ってるのに」
明の態度も不自然だが、言動もさらに不可解を極める。
そういえば、彼は文化祭の前日に毎回、涼香の前に現れる。世界の軸が変わっても、必ず同じ場所で同じ言葉をかけてくる。
どういうことなんだろう。なにか意図があるのだろうか。でも、彼がタイムリープを知るはずがない。
いや、いまはそれよりも──
「ねぇ、明」
「なに?」
「優也と仲直りして」
この調子だと、優也はまだ明に話をしていないんだろう。問題を先延ばしにしている彼らの間に立つべきだ。そんな使命感が働き、涼香はまっすぐに明の目を見つめた。
明は笑顔のままで唸った。「うーん」と長く唸り、空を見上げる。言葉を考えているようだった。
「大楠のお願いでも、それだけは無理かも」
熟考の末、彼は観念するように肩をすくめた。
「どうして?」
「修復不可能。いくら説得されても、やっぱりお互いに許し合えるまでに及ばないんだ。きっかけは些細なことだったんだけど、実はもうずっとこの調子」
それは優也も言っていた。二年の冬からこじれていたと。それを放置していたのは、もちろん優也と明の責任だろうが、涼香も無関係とは言い切れない。すがるように見つめてみるも、明の決意は固かった。
「ちなみに、さっきは右輪にも説得されたよ。二人とも、そろってお節介だよね」
「そうかもね」
優也がと明が動かないのなら、こちらが動くしかない。こころと思考がシンクロしていることには驚いたが、あの親友のことだ。涼香よりも先回りしているのが目に浮かんで、呆れの息を吐いた。明も気を抜くように肩を落とす。
「僕は大楠と右輪みたいな熱い友情を持ってなかったんだ。純粋な親友じゃないよ。いいヤツのふりをしていただけ。結果、優也に邪険にされてるし」
「どういうこと?」
「僕が大楠のことを、いつまでたっても諦められないから」
思わぬ言葉に、涼香の時は止まった。目を見張る。その驚きを目の当たりにした明は、ゆるゆると目を伏せた。
そして、彼はカーディガンのポケットから何かを取り出した。のど飴がコロンと手のひらに転がる。キシリトール配合の苦い薄荷味。優也が漂わせていた匂いの元。
「僕、喉が強くないからさ、試合前に舐めてたんだよね。それに、薄荷味って爽やかだからさ。大楠に会う前に、優也に渡したりしてて」
声のトーンを落として言う明の背後で、ギターの音が聞こえた。「ミント」という名の歌が風に乗る。
「そこまで優也に協力して、なにを言ってるの?」
明の意図がいまだに読めない。しかし、なんとなく嫌な予感がよぎる。いままさに優也の不安の原因が、紐解かれようとしているのではないか。
やがて、明は「くはっ」と笑った。
「やっぱり、気づいてないか。まぁ、それもそうだよね。僕が大楠を好きになったとき、もう優也のだったから」
寂しそうに、半ば非難めいた声音で言う彼の声は、掠れていてうまく聞き取れない。風とギターの音がうるさいから余計に。
息が詰まった。頭は混乱して、真っ白になっている。
「……嘘でしょ」
「その言い方はひどいよ。傷つく」
さっと血の気が引いた。夢なら覚めてほしいと祈ってしまいそうなくらい直視できない。それでも明の話は続き、耳は都合よく塞がらなかった。
「覚えてる? 二年前の文化祭。あのとき、初めて大楠に会って、一目惚れだったって言ったら信じてくれる?」
「信じない」
「……信じてよ」
せいいっぱいの悪あがきをしようと、彼は必死に笑っていた。痛々しくて見てられない。それに、切なげな表情を見ても信用できはしなかった。ありえない。
「大楠のことが好きだ。でも、それが一パーセントの望みもないことは決まっていた。そしたらさ、僕はどうにもひねくれた考えをひらめいたんだよ」
彼は少し言葉を切った。
緊張で全身が軋んでいる。顔はきっと険しくて、明を睨んでいるんだろう。それでも彼はとつとつと続けた。
「優也の一番の親友でいて、大楠の相談相手になる。絶好のポジションだろ。ただ無条件に会いたいがために、僕はずっと優也を利用してたんだよ」
聞きたくなかった。でも、予想できてしまった。そうじゃなきゃ、彼がずっと気にかけてくれるはずがない。そして、機をうかがっていたことも。優也と別れた直後を狙って優しく声をかけようとしていた卑怯者を、どう責めようかなんてすぐには思いつかない。
「……種明かししたら、罵倒してくれると思ったのに。調子が狂う」
明は背を折り曲げ、脱力して膝に手をついた。枯れた笑いが漏れてくる。いまにももろく崩れてしまいそうなほど、弱っている彼に冷たく罵る言葉なんて見つかるはずがない。
「どうしていま、急にそんなことを」
喘ぐように言うと、彼は顔を見せずにすぐさま返した。
「いろいろと事情はあるんだけどさ。それを抜きにしても、いま言っておかないとダメだと思った」
「だからなんで?」
「このタイミングを逃したら、僕はもう一生、大楠に告白できないから」
彼の気持ちと同じく不確かで曖昧な答えだった。そんなことを言われても納得できるわけがない。涼香は腕を抱いて寒さに耐えた。
あんなに爽やかで心地よかった歌が、いまは寒々しくて寂しい。
明はまだ顔を上げてくれない。どんな顔をしているかわからないから、責めることも慰めることもできない。
「じゃあ、このことを優也は……」
「知らない。でも、感づいてる。それで僕を避けてるんだ。警戒してるんだろうね。だから、あいつとはもう仲直りできないんだよ」
淡い期待はもろく崩れ去った。そして、優也に無神経な言葉をかけたことを悔やんだ。それは明も同じなのかもしれない。そして、優也も。
その瞬間、脳が冴える。明の言動は、はじまりの文化祭で明らかだった。繰り返した過去の中で、決定的な分岐があるとすれば、明を助けたか否か。彼を文化祭で助けていたら、ここまでこじれることはなかっただろう。
やはり、過去を変えることは重罪だった。
「もう一つ言うと、僕は明日の文化祭で告白するつもりだった。区切りをつけたくて。そんなの、僕の勝手な自己満でしかないんだけど、聞いてほしかったんだ」
「それなのに、いま言うんだ」
「仲直りしてくれって言われて、はいわかりましたって言えるほど簡単なものじゃないからね。ずっと近くで片思いして、絶対に実らないっていう生き地獄みたいな状況に、もう耐えられなくて」
たしかに、ここまでくれば修復は望めないんだろう。わかっていても、すぐには受け入れられることではなく、涼香はその場に立ち尽くすだけ。
明はゆっくりと顔を上げた。涙を滲ませて、悲しそうに笑う。
「好きだったよ、ずっと。あいつより、僕を見てほしい。それはいまも思ってる」
「………」
「これを言ってしまうと、もう友達には戻れないよね……でも、もう疲れたんだ。だから悪いけど、優也と一緒に悪者になって」
一方的な八つ当たりだ。でも、そんな明を責めることはできない。おそらく優也も。それほどに無神経なことをしてきた。無自覚に明を傷つけてきた。どんなに願っても、いつの間にか狂った友情は修復できない。
涼香はうなずくこともできず、呆然としていた。答えなんて出てくるはずがなく、いまだに彼の思いを拒否している。いつまでも口を開けないでいると、明が諦めた。脇をすり抜けるように、屋上の出口へと向かう。
そして、彼はふと、ドアの前で立ち止まった。
「告白したきっかけは、もう一つあるんだ」
静かな声の中に火花が散った。呆れにも似たため息と乱暴な声が同時に出てくる。振り返ると、明がドアノブを回した。
「……なぁ、これでいいんだろ、右輪?」
開いたドアの向こうには、ふわふわの三つ編みが唇を噛んで立ち尽くしていた。