第二十二話
「え……? え、待って、郁ちゃんって若部のことが好きだったの?」
まずはその確認から入らなくては話がわからない。
こちらの挙動不審を見て、郁音は「あ」と口をぽっかり開けて驚いた。
「そうそう、そうなんだよ。知らなかったよね」
「知らないよ。全然知らなかった!」
「うん。私もだれにも言ってなかったし。夏くらいにね、見ちゃったんだよ。雫が後輩の女の子と歩いてるの」
「うわー……」
なんと言えばいいかわからず、間抜けな相づちしかできない。それでも郁音は話してくれた。いや、話したがっているようだった。あっけらかんとしているが、言葉の端々に寂しさを漂わせている。
「ま、うちは部内恋愛禁止だから、どっちにしろ叶わぬ恋だったわけ。私の初恋、さよーならって感じで高校生活が終わるんだ」
「待ってよ。そんな重たい話聞かされたあとに、あの二人を交えて生バンド聴かされるの? 私、どういう顔して聴いたらいいのよ」
励ましの言葉なんて出てこず、おどけた調子になってしまう自分がたまらなく嫌だった。それでも郁音は絶えず笑ってくれる。
「正論だわ。ほんとごめん」
「そんなんで、よくここまで続けられたね」
「まーね。バンド自体は好きだし、雫にもバレてるし。もう過去の話だよ」
その割には、まだまだ傷は癒えていないようだ。
失恋の痛みは、涼香も身をもって経験している。だから、言葉を選んでしまう。そして、結局なにも言えずにいることを選ぶ。
そうこうしているうちに、郁音が自嘲気味に言った。
「なんで私もこんな話しちゃったんだろ。あ、もしかすると涼香が無神経に『成功者』って言ったからかな」
その言葉自体が無神経にも思えるが、涼香はなにも言わなかった。お互い様だ。
まったく、言葉というのは難しい。不用意に言うべきじゃなかったと反省するも、そうすると気軽に話をするのが怖くなってくる。途方もなく面倒に思え、きれいな言葉を考えることを早々に諦めた。
郁音も悪気があって言ったわけではない。彼女の口は粘着質なものはなく、どちらかというとサバサバしていた。その口が鋭く切りこんでくる。
「なんだっけ、タイムリープ? って言ってたよね」
「え? あ、あぁ、うん……いや、違う」
慌てて訂正しても遅い。いまや隙だらけの涼香を郁音は面白がっている。
「あれでしょ、過去に戻ったり未来に行ったりするやつ。そういうの、いいよね。過去に戻れたらつらい道をたどらないようにしたらいいし、未来を見ることができたら幸せルートだけをたどっていけばいい。早くタイムマシンが開発されたらいいのに」
過去に戻れたら、軌道修正する。それは自分にとって得な道。
未来に行けたら、危機回避する。それも自分にとって得な道。
過去に戻って軌道修正した自分の道は——思考に引っ張られかけ、涼香はすぐさま頭を振った。
正しい。そのはず。だって、いまこの場所は願ったとおりの現実なのだから。
「あーでも、ちょっとずるいかも」
郁音の考えはすぐに切り替わった。その早さに追いつけず、涼香は「え?」とまたも間抜けに聞き返す。
「だって、ほかのひとの人生まで狂わせちゃうかもしれないリスクがあるのに、自分だけ得な道を選ぶって、都合よすぎるよ」
郁音の言葉は悪気がない。いつだってそうだ。
でも、彼女の言葉を借りるなら、どこまでも無神経に思えた。そしてまた、自分の考えも無神経だと思えた。
「よー! 郁音! 練習しよーぜ!」
元気よく現れたのはBreeZeのリーダー、麟。その後ろから眠たそうな顔をした雫が顔をのぞかせた。
「あれ? お客さんがいる」
「おぉー! 大楠じゃん! 久しぶりー!」
麟の元気な声に驚いて、それまでの鬱がパーンとはじけ飛んだ。
「なになに? どうしたの? っていうか、関係者以外立ち入り禁止ですけど?」
「え? そうなの? なんか、ごめん」
しかし、郁音が連れこんだのだ。謝る義理はなかった。
まじまじとこちらを物珍しげに見る二人の視線から逃げようと、涼香は郁音の方へ近寄った。しかし、郁音は反発するように背中を押してくる。
「涼香が恩返ししろって言うから、ちょっとだけ練習見せてやってくれない?」
なぜか、こちらがねだったような言い方だ。すぐに振り返ると、郁音はやはり面白がっているようで、意地悪に口の端をめくった。
「恩返し……あぁ、もしかして、バンド解散危機を救ったから?」
思い当たったのか雫が言う。すると、麟が合点したように手を打った。
「なるほど! バンド解散危機を救った女神様だからなぁ。それなら、しょうがないかー」
不遜に言いつつ、麟は嬉しげな表情を隠せない。雫もにっこり微笑んでいる。戸惑っていると、郁音がこっそりと耳打ちしてきた。
「この二人、実は涼香に会いたがってたんだよ」
「えっ、そうなの?」
意外な情報に驚く。郁音はやはり面白がるようにクスクスと笑った。その愉快な声が耳をくすぐる。
過去を変えたことは重罪かもしれない。でも、こうしてだれかの危機を救っている。まぎれもない事実だ。
「じゃあ、大楠のために一発どかーんと派手にやりますか」
麟は飛び跳ねるように部室へ入ると、さっそくギターケースから自前のエレキギターを取った。アンプを挿して音を合わせる。雫も無口ながら楽しそうで、カバンからスティックを取った。
「ほら、早くー」
郁音は準備万端だ。二人を急かす様子は、失恋の痛みなどどこにもない。そんな彼女を素直に尊敬した。
雫がようやくドラムの中に収まったと同時に、麟が気取った口調で言った。
「どうも、『BreeZe』です。二年前の解散危機を救った大楠さんに愛を込めて。新曲『ミント』を聞いてください」
瞬間、全員の顔が無になる。微細な気が満ちて数秒後、心臓を打つようなドラムが派手に音を奏でた。
三人の息が合う。三つの派手な音が震え、窓ガラスが軋んだ。
全身を震わす音の渦が、学校中に響かないはずがない。ぐるぐるとスピンするギターサウンド。リズミカルなドラム。ずっしりと重厚感のあるベースの三重奏が一度に溢れる。
すると、唐突に青筋を立てた男子生徒が引き戸を開け放った。
「急にライブやるなんて聞いてないぞ!」
音楽室の真下に位置する生徒会室から、生徒会長が肩をいからせて怒鳴りこんでくるのは明白である。会長の登場が、爽やかな爆音を止めた。
「あぁ、ごめんごめん。リハやるって言うの忘れてた」
率先して会長をなだめるのは、意外にも雫だった。長身の彼が出向けば、誰でも気圧されてしまうようだった。
「ごめんねー、会長」
「練習するときは事前連絡! いつも言ってるだろ! 俺の頭痛がひどくなる!」
全員で申し訳なく会釈すると、会長は肩を落としてため息を吐いた。疲れた顔で帰っていく。
その様子をうかがいながら、雫が言った。ドアを閉める。
「……あいつも大変だよなぁ。文化祭の予算調整、溜まってるらしいぜ。文化祭、明日なのに」
「そうなんだ。大変だなー」
邪魔が入ったことに、麟は残念そうに頭を掻いた。
「それならしょうがないか」
郁音も肩にかけていたベースを外す。
「でも、一番楽しみにしてるのは会長なんだ。それくらい、俺たちは信頼されてんだよ。なぁ?」
得意げに言う麟。雫も肩を震わせて笑う。
二年前はいがみ合っていたこの二人が、すっかり仲良く肩を並べているものだから、涼香はたちまちくすぐったくなった。口元に手を当てて吹き出す。
このバンドはサービス精神が旺盛だ。そこまでのもてなしをしてくれなくても良かったのに。
「明日のライブ、楽しみにしとけ」
部室を出る間際、三人が涼香を見送ってくれた。自信に満ち溢れた麟を見ているとなんだか励まされる。渦巻くような彼のギターソロは確かに圧巻で、わずかな演奏でもエネルギーをもらえた。
「ありがとな、大楠。寺坂にもよろしく言っといて」
なんの前触れもなく、雫が穏やかに言う。青いピアスが光り、どことなく危なげなにおいを漂わす彼だが、懐の深さを知ると確かに郁音が惚れるのもわかる気がした。
「羽村ちゃんによろしくー」
郁音も手を振って見送ってくれる。それに応えて手を振り返し、涼香はポニーテールをひるがえした。