第二十話
結局、優也の進路については言い出せず、注文した料理はからっぽになった。
涼香に至っては、塩味のスープまで全部飲み干している。さっぱりしていてくどくないので、口の中は爽やかだった。味のことはよくわからないが、ほのかにレモンの風味がきいていたと思う。
腹がふくれると勉強は後回しになってしまい、結局こころは問題集の一問も解かずにいた。
全員が会計し、外に出たときには空は焦げた茜色だった。
「ほんとに送ってかなくていいの?」
ファミレスを出るなり、優也が名残惜しそうに言う。しかし、彼の家は涼香やこころが住む商店街方面ではなく、逆方向の住宅街だ。
「いいよいいよ。どうせ、いまからこころの家に行くし」
「そう。んじゃ、気をつけて帰れよ」
優也は潔く引いてしまい、背を向けて群青の中へと姿を消した。遠ざかる彼の後ろ姿を見送り、こころの手をつかむ。
「ちょっと、話したいことがあるんだけど」
「お、奇遇だね。あたしも話したいことがあったの」
目をしばたたかせるも、こころはにこやかに言い、涼香の手を握り返した。
くぼ商店街への道は、傾いた陽の光が強く射し込む眩い筋だった。古着屋やスーパー、コンビニ、喫茶店を通り過ぎ、ミギワ堂古書店にたどり着く。今日もおんぼろの屋根から陽が漏れていた。
「おかえり、こころ」
「ただいま、おじいちゃん!」
こころが明るく応えるとと、レジ台に座っていた祖父が笑う。白い猫を抱いて立ち上がった。
「いまからお店、閉めるねー」
「まかせたよ」
そんなやり取りを棚からのぞき見ておく。こころの祖父がこちらにも屈託なく笑うので、涼香は愛想笑いを返した。
祖父が店の奥にある居間へ入るのを見届け、こころはレジ台にカバンを置いた。店先へ移動し、古本の棚を引っ張る。涼香も手伝い、店じまいを進めていく。
「いやあ、寺坂くんって豪快に見えて繊細なんだね」
こころが笑いながら言うので、涼香もつられて笑った。
「まあね。誰かさんに脅されないと告白もできない男だし」
「あいたた。それはもう時効でしょ」
二年前の告白大作戦は、こころにとっても痛い過去のようだ。しばらく笑い合いながら、二人は店の片づけをした。
「寺坂くんって真面目で優しいのに、自分のことはおざなりだよね。ほんと、危なっかしいよ」
「うん。そんなやつだからさ、私としてはこのままつき合っていくのがちょっと不安になっちゃって。だから、こころに相談しようと思ったの」
「不安かぁ。それはわかるかも」
店の中に引っ張った棚に古い遮光カーテンを敷いて、こころはあっけらかんと言った。
「このままだと、寺坂くんがひとりになっちゃうよね。はぁ、困ったもんだ」
「そうなんだよ。このままだと、優也がダメになりそうで。そんなあいつを私が支えられるかって思ったら……」
こころみたいにきっぱり言えたら、どんなにいいだろう。説得もままならないのに、ただ単純に優也と明が仲直りすることだけを押しつけてしまう。それが果たして、優也のためか自分自身のためなのか、わからなくなる。
「涼香」
こころが声音を落とす。
「涼香は、寺坂くんと付き合ってて、楽しい?」
「えっ?」
思わぬ問いに、涼香は頬を引きつらせた。
「いまの涼香はふわふわしてるよ。楽しいのにつらい、みたいな。寺坂くんと同じくらい危なっかしい。成績もそうだし」
「成績は関係ない!」
つい言い返したが、こころの言葉に涼香は戸惑った。
つらいのはその通りだが、優也との日々は願っていたことそのものだから苦じゃない。そのはず。楽しいに決まっている。過去や、他人の気持ちを犠牲にしてまで手に入れたかった現実なのだから。
「楽しいよ。優也と一緒にいられるのが、私にとって一番の願いだから」
思いをそのまま告げると、こころは口をすぼめた。だんだん納得したように何度も頷く。
「そっか。それなら心配いらないね」
彼女の声はさっぱりとしていた。
「まあ、寺坂くんを裏切って杉野くんとハッピーエンドを迎えるなんていうオチも、どんでん返しって感じでスリリングなんだけど」
「なにそれ。そんなめんどくさいことしたくないんですけどー」
日常にスリルを求めたくはない。悲しいラストシーンは苦手だ。それに、優也を裏切ってまで自分の幸せを優先したくはない。さらに言えば、明とつき合う気はまったくない。
一度にいろんなツッコミが思い浮かんだが、言葉が大渋滞を起こした。
「だってね、寺坂くんが不安に思う気持ちもわかるのよ。言ってること、わかる?」
「わかんない」
「無自覚なのー? こりゃ、寺坂くんがかわいそうだわー」
こころは首を振って項垂れた。
「寺坂くんが一途なのも考えものだよね。涼香が杉野くんと仲良くするだけで、嫉妬の炎がメラメラしてるの」
「はぁ……あー、うーん」
ついさっきも優也に言われたことだ。こころにまで見抜かれてしまい、涼香は気まずく唾を飲んだ。
まったく、恋愛というのは煩わしい。ようやく自覚するものの、悪気がないので不満が募る。
そもそも明に対する認識は、良き友達というポジションだ。彼氏の親友であり、ときに相談相手として頼る。現に優也への誕生日プレゼントのアドバイザーとして一役買っている。都合がいいと言われても仕方ないが、結局はそのぬるさが心地いい。
「しっかし、涼香も彼氏の前ではかわいい子猫ちゃんになっちゃうのねー。いやぁ、感慨深いよ」
悩んでいると、空気をぶち壊された。それが彼女の照れ隠しだというのはわかっている。しかし、冷やかされてはたちまち恥ずかしさがこみ上げるもので、涼香はすぐさま声を上げた。
「やめてよ、その言い方」
「だってそうでしょー? 乙女じゃん! かわいいー!」
「やめてってば! それ、私に一番似合わないワードだし。寒気がする」
「似合わないことないでしょ。涼香って、どうしてそんなに『かわいい』が苦手なの?」
その問いは素朴なものだった。対し、涼香は「へ?」と面食らってしまう。目を開いて、視線を上にずらして考える。
「えーっと。なんでだっけ?」
「いやいや、聞いてるのこっちなんですけどー! なんか、そういうきっかけがあるんじゃないの?」
考えれば考えるほど謎が深まった。
どうして「かわいい」を遠ざけていたんだろう。身につけているものはシンプルなデザインのものだが、影ではうさぎ型のコインケースや甘いものを集めていたりする。それを他人にひけらかすことはしたくない。もちろん、優也にも。凛としたポニーテールのヘアスタイルも小学校二年生くらいから始めた。そのきっかけがどこかにあったはず。
はて。それがなんだったか、すぐには思い出せない。
「ちょっとちょっとー、自分のことじゃん。無頓着だなー」
こころの嘆きももっともだ。自分でも情けなく思う。しかし、どうにも自分のこととなると思考が止まってしまった。
「ま、自分のスタイルを貫くのはかっこいいと思うよ。女らしく、かわいく、愛嬌命なんて考えも古いんだし」
「いやぁ、そんなんじゃなくて。ただ、似合わないからって決めつけてるだけ、みたいな?」
なんとなく自分の心を見つめてみる。出した答えもあやふやで、こころが言うような芯の強さも持ち合わせていなかった。
「それに、こころが私の親友だから思うことであって、贔屓してるだけじゃない? かわいくないって、優也にもたまに言われるんだよ?」
女子の言う「かわいい」ほど信用できないものはない。これで言い返せまい。鼻で笑って高をくくっていると、こころはあっけらかんと言った。
「そりゃ、ふてぶてしくブスッとしてたら、かわいくないもん。涼香だって、あたしが『てめー、なんだこのやろー』って言い出したら、怖いって思うでしょ」
口調はさほど怖いものではなかったが、確かにいつもマイペースで無邪気な女子がこんな口調で話し始めたら近寄りがたいと思う。
なんだかすんなり納得してしまった。目からウロコが落ちた気分だ。しかし、譲れないものもある。
「でも、いまさら自分を曲げるのは難しいよ」
からかわれたら突っぱねるし、やっぱりかわいいものをひけらかすのは抵抗がある。愛情や好意も隠したい。それなりに積み上げてきたものを崩してしまうのは、それこそもったいなく思えてしまう。
強情に食い下がっていると、こころはやけに大人びた微笑を向けた。
「ちょっとずつでいいじゃない。一年生のころに比べたら、涼香は結構丸くなったほうだよ。だから、寺坂くんも手放したくないって思うのよ」
「うわぁ……ぐうの音も出ない……降参する」
これ以上持ち上げられると、むず痒さで叫びたくなる。親友のあたたかい言葉は、それまでの固定概念を破壊するほどの威力があった。本当に油断ならない。
「あ、ねぇ、こころ」
恥ずかしいので、話をすり替えることにした。レジ台の中をのぞきこむ。あの小難しそうな本が見当たらない。
「今日はあの本、読まないの?」
「え? どの本?」
「ほら、さかさま? さかまき? ってタイトルの」
そこまで言うと、こころはすぐにひらめいた。
「『逆巻きの時空間』ね。あるよー」
レジの引き出しから本を出してくる。宇宙色のワームホールが描かれた黒い表紙。それをひったくると、こころの両目が丸く開いて驚いた。
「これ、貸して」
「え? うーん、いいけど……どうしたの?」
問いの答えがすぐには見つからない。しばらく考えるも、思考は楽をしようと諦める。
「秘密」