第二話
県立青浪高校での生活も終盤だ。
明日は文化祭。秋の終わりが近づくこの時期なので三年生の参加は自由だが、三年二組は脱出ゲームを企画しており、パズルモチーフの迷路を製作している。
優也とは中学からの腐れ縁で、高校初の文化祭に優也から告白され、つい最近まで付き合っていた。しかし、文化祭を目前に別れを切り出された。
優也がバスケ部のエースという肩書を持つので、学年内でも噂されるほどの、言わば「公認カップル」だったこともあり、またたく間に破局の話が広まった。
フラれたのはこっちだというのに、涼香の方が優也をフッたなどというあらぬ噂を流していたのは、羽村美咲のようだった。こころの証言によるもので、自分で確かめてないのだが、このことが原因で涼香は教室に居づらかった。弁明も面倒くさいのでほっといていると、話がこじれていくから始末が悪い。学校という箱庭は光回線並みに速く、ねじれた情報共有をしていく。
また、羽村はモチーフ制作班班長という権力を行使するので、逃げるのもままならない。
「大楠さん、ちゃんとやってよ。みんなと一緒に作り上げたいでしょ? 最後の文化祭なんだよ?」
準備から逃げていると、さも全員の意見かのように言われたのが一昨日のこと。昨日はしぶしぶ準備に顔を出したが、集中できなかった。
そして、今日。羽村は塗り残しのダンボール紙に絵の具を塗っていた。そのはずみで、絵の具がついた刷毛を涼香に向かって振った。予想外の大事故になってしまい、教室の温度はさらに冷えてしまった。
——なんでこんな目に遭わなきゃいけないの。ふざけんな。
悪いことはしていない。毅然として、準備に取りかかればいいのに足が動かない。感情をパーセンテージ化するならば、いまのところ断トツで「めんどくさい」が過半数を占めている。
「涼香……」
ためらっていると、窓から不安そうに呼ばれた。ふわふわの三つ編みを垂らしてこちらを見ているのは、こころだ。遠慮がちな目で顔色を窺ってくる。
「もう帰る? さすがに羽村さんも気まずいみたいだし、怒られないと思うよ」
「あー、そうね……そうしようかな。だるいし」
「オーケー。んじゃ、カバン持ってくるね」
優しい親友は、教室の窓からカバンを投げてくれた。
「サンキュー」
涼香はぎこちなく笑いかけ、こころに手を振った。すると、こころの顔がわずかに明るくなった。
「あたしもすぐに帰るから、うちで待っててよ」
そう言われてしまえばしかたない。涼香は曖昧に笑ってジャージを脱いだ。カバンにつっこみ、教室から遠ざかる。
ひとりになりたかったのに、いざ校内に放り出されてしまえば身勝手に寂しくなった。あちこちで飛び交うお祭りムードが廊下をにぎやかにしているせいだろう。陽気な波に乗れなくて憂鬱だ。
本当ならみんなと一緒に騒いで、高校三年間の集大成でもある青春を楽しむはずだった。それなのに、どうしてこうなったんだろう。
開いた窓から冷風が入り込み、肩が縮み上がった。シャツだけじゃ心もとない。こころはカーディガンまではカバンに入れてくれなかった。仕方なく、汚れたジャージを着直す。濃い青と、肩から手首にかけて入った白いラインのジャージが制服のスカートに合わなくてアンバランスだ。
「うわ、ダッサいわー」
自嘲気味につぶやいていると、同時にズゥゥンと低いベースギターの音が聞こえてきた。ガヤガヤした廊下の隙間を縫って耳に届いてくる。
明が言っていた「BreeZe」は軽音楽部のバンド名だ。校舎の四階は特別教室が並んでいる。その一角に音楽室があり、軽音楽部は音楽準備室の小さな部屋で活動している。と言っても、普段は部長の伝手でスタジオを借り、そこで練習をしているそうだが。
涼香は気まぐれに階段をのぼった。まっすぐ昇降口に向かうつもりだったが、あのベース音を聞いたら低音に導かれるかのように足は音楽準備室へ吸い込まれる。
扉には律儀に「軽音楽部」と書かれたボードが貼られていた。窓をのぞくと、黒いショートヘアーの女子生徒が弦をつまみながら音を合わせている。
扉を開けてみると、彼女のまぶたが驚いたように開いた。
「おやおや、珍しい客」
猫みたいな目と口元が印象的な美作郁音は、優也と同じく中学からの付き合い。二年生でクラスが離れてしまったので、疎遠になっている。
「久しぶり、郁ちゃん」
言いながら、涼香は部室を見回した。
「ほかの二人は?」
涼香はベースの音に負けないよう、声音を上げて聞く。
郁音が組んでいるバンド「BreeZe」のメンバーは、彼女のほかに男子が二人いるはずだ。
「文化祭実行委員会に顔出してるよ。明日のステージの確認とか」
「へぇぇ。さっすが、校内人気バンド。すごいなぁ」
「どうも」
クールを装いつつも、郁音は嬉しそうに笑った。比例するようにベースの音が重くなる。だんだん深くなり、その重さに心臓が震えた。
「ねぇ、一曲弾いてよ」
なんとなくねだった。すると、郁音は口の端を持ち上げてにやけた。姿勢を正してベースのボディを太ももの上に置きなおす。
弦をはじく。ピックで震わす骨太の重低音。ズゥゥンと消えゆく。そしてまた水底から上がるように音が浮かぶ。波が渡り、次々と追いかけてくる。速いメロディラインに差し掛かった。
音楽はあらゆる音が重なって曲が生まれる。パーツが欠けていては締まりのない音楽になる。しかし、その楽器が奏でる一音一音を噛み締めて聞くのも好きだ。郁音の音は手作りのような温かみがあって耳が楽しい。
これにギターとドラムを組み合わせたらどうなるんだろう。自然と指がリズムをきざみ、体が左右に揺れる。楽しい。
だんだん消えていき、フェードアウトしたと同時に涼香は小さく拍手した。
「確かこれ、一昨年の文化祭でやった曲だよね?」
聞いてみると、郁音は「うん」と頷いた。
「『popshower』って曲。ベースはちょっと地味なんだけどさ、ギターソロがすごいんだよ」
郁音はどうにも謙遜しがちだ。ベースだってテンポが速いパートがある。それに、音調の切り替えが複雑な曲だと思う。
「ドラムもテンポよくてさ、本当にかっこいい曲。一年のときに麟が作ったんだよ」
「麟って、リーダーの伊佐木? すごいねぇ。才能あるよ」
「うん。私じゃ絶対に書けないし、作れない。せいぜい、足を引っ張らないようにするだけ」
楽しくも切なそうな言い方に、涼香は首をかしげた。しかし、郁音はそれに答える気はないようで、話を変える。
「ところで、文化祭前日のこの忙しい時に涼香はサボり? 寺坂と別れたからって、さすがにまずいでしょ」
思わぬ指摘に胸に溜まったモヤつきが固く強張った。
「いや……別にそういうわけじゃ」
「フったんだって? まぁ、涼香ってそういうとこあるもんねー。冷めてるし、寺坂と付き合ってても浮かれる感じもなかったみたいだし。ってか、付き合うことになったって報告もしてくれないし、人づてに聞いたのショックだったなー」
それは、恥ずかしかったからなかなか言い出せなかっただけで──と、いまさら弁明したところで意味はない。涼香はため息をついてふてくされた。すると、郁音が茶化すように笑う。
「しかもさー、クラス分かれてからは、こころにべったりだし。私に話しかけてもくれなかったし。ほんと、都合がいいやつ」
笑いながら言う彼女の口はいたって軽々しい。冗談か、それとも本気で言っているのか、すぐには判断がつかない。
「ん? 涼香?」
郁音が顔をのぞきこむ。その目に、悪気はどこにもなかった。