第十九話
涼香は優也の問題集をかすめ取った。
「おい! 涼香、いい加減に、」
「明となにがあったの? 話して。でないと返さない」
真剣に眉をつり上げてみせたら、彼は目をそらした。気まずそうにアイスコーヒーを飲み干す。なにを言おうか考えていた。
「なにがって……ただ、喧嘩しただけ」
やがて出た答えはふてぶてしい。この期に及んではぐらかす気だ。
「ごまかすな!」
つい大声が出てしまい、涼香はすぐさま首をすくめた。優也が辺りを見回し、困ったように眉をハの字にする。
しかし、ここまでしても口を割らない優也に対し、単純な怒りが湧いている。
一歩も引かない涼香に、優也はボソボソと言った。
「……本当のことを言ったら、引かれると思ったんだよ」
弱々しい声は、あの告白のシーンを想起させる。つり上げた眉が一気にストンと落ちてしまい、涼香は困った。優也の言葉が頼りなく続く。
「俺、お前のことで頭がいっぱいでさ、やっぱりいまだに不安なんだ」
「え?」
涼香は乗り出していた体をわずかに引っ込めた。優也はもごもごと口ごもってしまい、有耶無耶にしようとした。それを逃がすわけにはいかない。
「それで?」
「それで、明と仲良くしてるとこ見てたらさ、本当にムカつくわけ。だから、明を遠ざけたかった。実は、二年の冬から部活で揉めてたんだ。居づらくなって、部活も楽しくなくなって。だから〝変な噂〟が流れてるみたいだけど、推薦枠を取られて悔しいとかは思ってないよ。それだけあいつががんばってきたってことだし。俺はがんばってないし」
変な噂──そんなの、知らない。いや、もしくは知ろうとしなかっただけかもしれない。
たくさん一緒にいたのに、今日という日を目標に頑張っていただけだから、優也の弱さまで気が回らなかった。
最初の世界でもそうだ。そして、二度目の世界も。この三度目の世界でも。
一息つく。今までの自分に情けなく思う涼香だったが、優也には呆れに聴こえたらしい。彼は悩ましげに眉間を揉んだ。
「あーもう、最悪。ほんとかっこわりぃな。俺、そんなにメンタル強くないからさ。結構、余裕がないんだ。でも、それをお前に知られたくなかったよ」
告白も手間取る不器用なひとだから、いまさらの発言だ。
正直に言えば、彼はかっこ悪い。でも、そんな弱みを許せる器量くらい持っていなければ、優也の彼女なんていう役は務まらないんだろう。
なんと返すのが最適解か。数学のように答えが決まっていたらいいのに、いくつもの分岐を考えては消す。黙り込んでしまうと、優也は渇いた笑いを漏らした。
「ドン引きだろ?」
「ううん」
「正直に言って」
「……まぁ」
喉を絞るように言えば、彼はさらに落胆した。
「だよな」
「でも、話してくれなきゃわからないよ。優也がつらいと、私もつらい」
彼の不安を取り除けたらいいのに。そうすれば、全部丸くおさまるはずだ。
思えば、最初のルートからそうだった。優也の不安が払拭されなければ、世界の軸が変わっても幸福な未来を描けない。
別れたら涼香がつらい。別れなければ優也がつらい。恋愛も進路も友情も、欲張るのはいけないのだろうか――
「そんな二人にケセラセラ! 心の助っ人こころちゃんの参上です!」
暗い空気を吹き飛ばすように、とぼけた声が二人の間に割り込んできた。
「辛気くさい顔しちゃって、ダメだなぁ。よくないぞー」
涼香の横にカバンを放り投げ、こころはドリンクバーでメロンソーダを注いだ。緑色の炭酸がぽぽぽと泡立つ。ストローもなしで豪快に飲み干し、一息ついたこころが涼香の横に座り込んだ。
「右輪。お前、いつから聞いてたんだよ」
優也が不機嫌に聞く。秘めた悩みを他人に聞かれることに抵抗があるようだ。
「さっき来たばかりだよー」
怒った顔の優也に、こころは臆さない。指でフレームをつくり、その奥から怪しく満面に笑う。
「そしたら、涼香がかわいいこと言ってたからさぁ、『あ、やばーい! これは恋愛リアリティー番組っぽーい!』って勝手に盛り上がってたの」
「勝手に盛り上がるな」
「私たち、見せ物じゃないんだけど」
揃って文句を投げつけると、ようやくこころもたじろいだ。
「まぁまぁまぁ。悩める諸君には、救世主が必要でしょ? もうちょっと他人を信用してくれたっていいんじゃなーい?」
ふざけた言い方だから信用ができないというのがなぜわからない。しかし、相手にするだけ無駄だというのは優也も感じているようだ。
「とは言え、途中参加なものだから、ざっくりとしか聞いてないんだけど。要するに、あれかな? 杉野くんのこと? 恋と友情の間で揺れるなーんて、いかにも青春ドラマのそれっぽい!」
「お前はどういう立ち位置なんだよ」
とうとう優也が苦笑する。そんな彼に向かって、こころは気取ったように指をぱちんと鳴らした。
「だから、助っ人だって言ってるでしょ! 二人が解決できないことをあたしが解決しようと乗り出しているのがなんでわからないの?」
「でも、相談したところで、こころになんのメリットがあるの?」
涼香がそっけなく言えば、彼女は目を光らせた。キランと効果音が鳴ったような気がする。
「友情に理屈や公式は不要。感情を優先させるべし。それがあたしの青春哲学!」
芝居がかった青くさいセリフだが、その力強さに気圧され、涼香と優也は耐えきれずに吹き出した。
こころは二杯目のメロンソーダを飲み干す。
「二人とも、自分だけで解決しようと思ってるでしょ。ダメダメ! そんなの、ただつらいだけだよ。そんなわけで、このあたしになんでも言ってみなさい」
ほらほら、と両手で誘う仕草をする。これを見て、優也はあからさまに嫌そうな顔をした。
「まぁ、無理して話すことはないし」
助け舟を出そうと涼香が口を挟むと、優也の眉が緩む。しかし、こころはしつこかった。
「言っとくけど、涼香だってそうなんだからね」
「うーん……」
思い当たる節があり、すぐに目をそらした。
面と向かっての相談は改めて気恥ずかしい。自分の弱い部分を見せるのは、いまだにかっこ悪いものだと思っていた。でも、素直に相談することで解決することがあると思う。優也の悩みを聞いて、なんとかしたいと強く思った。
それは、こころも同じなんだろう。優也を誘惑するように指先を細かく動かしてふざけているが、心配していると思う。
「んもう、強情なんだから」
なびかない優也に根負けしたこころがソファにもたれかかる。そして、思い立ったようにメニュー表を手に取った。
「お腹空かない? あたし、お昼からなんにも食べてないよー……あ、目玉焼きハンバーグおいしそう!」
「がっつりいくな」
優也が苦笑いでつっこんだ。そんなこころにつられるように、彼もメニューを取る。
「んじゃ、俺はボロネーゼにする。あと、窯焼きピザも」
「がっつりいくな」
そう言いつつ、涼香もこころからメニューを渡されて悩む。
授業の合間にお菓子を食べていないようで、確かに空きっ腹だった。しかし、夕飯前だ。
「あ。私、冷麺がいい」
「そこはがっつりいこうよ!」
こころが不満げに天井を仰いだ。
「冷麺って、この時期あるの?」
優也が聞く。それに応えるように、涼香はメニューを掲げた。
「ほら、本格冷麺。麺がこんにゃくみたいなの。さっぱりしてておいしい。期間限定の塩レモン味」
銀色のボウル皿に盛られた冷麺を指すと、優也は困ったように笑った。
「季節外れだろ。お前の食生活、本当によくわかんねぇ」
「それについてはあたしも激しく同意だわ」
「ちょっと、二人ともひどい! まるで私が味音痴みたいじゃん!」
抗議すると、優也が呼び出しボタンを押した。「ピンポーン」とホール内に流れ、涼香はメニューで優也の頭を叩いた。
***
宣言通り三人はそれぞれ注文し、運ばれたものを前に目を輝かせた。
「でさ、話の続きなんだけど」
半熟の目玉焼きを割りながらこころが言う。鉄板の上にジュワッと鮮やかな黄身がとろけていく。そのままハンバーグステーキにナイフを入れると、泡立つ肉汁があふれ出した。ぱくんと口に入れ、彼女は至極満悦な表情で唸る。
「話って?」
ボロネーゼに粉チーズをふんだんにかけながら優也が聞く。涼香は黙々と割り箸で麺をほぐしていた。
「とぼけないでよねー。寺坂くんのお悩み相談に決まってるじゃない。あたしの見立ててでは、杉野くんと喧嘩して、それを涼香が心配してるってとこじゃない? 違う?」
「まぁ、そうなんだけど」
優也はフォークでボロネーゼをつついた。ミートソースと一緒に食べる。たっぷりのひき肉とトマトの酸味を味わった彼の口調はようやく緩やかになる。
「でも、いまさらじゃね? それに、俺のことはどうでもいいよ。お前らが気にすることじゃないし」
「あれー? 私には言うなって言っといて」
キムチを口に放り込みながら涼香はふてくされた。バツが悪くなる優也は、ピザにタバスコを豪快にかけ、薄い生地をつまんだ。
「でも、これは俺の問題だ。自信がないから、あいつのことを羨んでるだけ。それをお前らが解消してくれるわけじゃないだろ? 相談したところで解決しないだろうし」
「解決策を求めようとするからダメなのよ!」
こころがモゴモゴと言った。ハンバーグを「あむっ」と頬張り、さらに話を続けるが、何を言っているのかわからない。ゆっくり咀嚼し、ジュースを飲んで一息つく。
「そりゃ、解決するのは寺坂くん自身だよ。あたしたちの力なんてミジンコ程度しかないもん。でもね、一人で抱え込んであとあと後悔するほうがはるかに愚かなのよ」
「愚か……」
「そう! あのとき謝っておけばよかった、あのときだれかに相談したら違う結果になってたかも、なんて言ってるうちにおじいちゃんになっちゃうんだから!」
「急に時間が飛ぶなぁ」
突拍子もないこころの言葉には笑うしかない。優也も笑ってはいるが、なにやら思うところがあるようで、うつむき加減にピザを頬張った。黙ってしまうと、こころの調子がどんどん前のめりになる。
「いいじゃん、かっこ悪くてもさ。もう十分、かっこ悪いんだから」
「言い方がひどい」
さすがに優也がかわいそうだ。非難の目をこころに向けるも、彼女は毅然とハンバーグを食べながら続ける。
「でもさ、寺坂くんが思う『かっこいい』か『悪い』かは、自分の物差しに過ぎないでしょ。自分の気持ちを押し込めてまで守らなくていい。それ、ただつらいだけだよ」
そう言い放ち、ハンバーグをしっかりもぐもぐ食べる。しかし、彼女の言いたいことはまっすぐ届いた。漠然と奥深いものを感じる。
「うーん……そうだな」
優也もほだされている。
「でも、いまさら明とぶつかって、それこそ大きな溝ができたらどうしたらいいんだよ。卒業間際に大喧嘩とかしたくないんだけど」
「大喧嘩する前提なのがよくない」
思わず涼香が口を挟んだ。
「そうそう。まずは落ち着いて話し合おうっていう気持ちがないわけ?」
こころも噛み付く。二人に責められ、優也は痛そうに顔をしかめた。
「大丈夫! もし、これで杉野くんが茶化してきたら、あたしが杉野くんをコテンパンにやっつけるから。ね、涼香」
急に同意を求められ、涼香は思わず頷いた。しかし、明をコテンパンにするつもりはない。
逃げるようにスープすすると、こころが続けた。
「向こうがどう思ってるかは、いまの段階じゃわからないしね。それでも、あたしは無責任に言うよ。自分の気持ちと将来を間違えないで」
そこまで言われてしまえば、優也はともかく涼香も黙りこむしかなかった。こころの鋭さには恐れ入る。口はソースだらけなので、いまいち威厳はないのだが。
やがて、優也が長いため息を吐いた。
「はー……わかった、わかりました。明にきちんと話すよ。それでいいんだろ?」
釈然としないが、こころのおかげで優也のモヤモヤは解消されそうだ。
しかし、まだ気がかりなものがある。ここで暴露してもいいものか、涼香は麺をすすりながら悩んだ。