第十八話
秋は甘くふくよかで、世界が色めいていた。冬は寒さから逃れようと、互いの距離が縮んだ。平凡に平穏に日常は過ぎていく。しかし、衝突というカップルにありがちな倦怠期が続き、気だるくて不穏な日と、優しくて甘い日が交互に訪れる。そんな生活。当たり前に続いた日常を繰り返す。
記憶のフィルムが急速に回転し、その終着点で景色はマーブルを描いた。知っている世界とはまるきり違う景色が浮かび上がる。観測地点がすべて真逆に切り替わっていく。
この選択は間違いじゃないだろう。そう信じたい。
***
「──おい、涼香」
優也が声をかけるまで、意識は遠くにあった。目の前に立つ彼の威圧に驚く。
「うわ」
「プリント、真っ白じゃん。三年の大事な時期になにやってんだよ」
授業が終わったあとだった。黒板はすでに日直が授業内容を消し去っている。日付は十月二十日。デッドラインのその日。
しかし、優也から別れを切り出されるような前兆は一切ない。
「勉強会、今日やるんだろ。右輪と。なにぼけーっとしてんだよ」
頭を小突かれる。涼香は顔を上げて、曖昧に笑った。いまだ、思考はふわふわとおぼつかない。なんだか長い夢を見ていたようだ。
これに、優也も不安な表情を浮かべた。
「どうした? 具合でも悪い?」
「ううん。大丈夫」
「お前は大丈夫じゃなくても、大丈夫って嘘つくからな。信用できねぇ」
辛辣な言い方がダイレクトに突き刺さる。涼香は顔をうつむけた。すると、憂鬱を感知するこころがすっ飛んできた。
「ちょっと、寺坂くん! 涼香をいじめないでよ!」
こころの噛みつきに、優也が大きくのけぞる。
「ひと聞き悪いな。いじめてねぇし」
「口悪いんだから、もうちょっと自重してよね! ねー、涼香」
「そうだよ。私だって傷つくことくらいあるんですからねー」
ようやく、いつもの調子でおどけてみせる。優也は呆れたように「はいはい」と言って、涼香のカバンを取った。
「じゃ、駅前のファミレスな。先に行ってるから。がんばって、実行委員」
「はーい。んじゃ、あとでねー」
優也が涼香の腕を引っ張る。そんなふたりをこころが大きく手を振って見送った。
***
優也との別れは回避できた。しかし記憶の矛盾はとくになく、ただ一年の文化祭だけが鮮明に色を変えている。些細だったはずの時間が極端にずれているので、脳内には記憶のフィルムが幾重にも並んでいるようだった。タイムリープの影響だろうか。
涼香はひとり満足して、優也の背中を追いかけた。
「あ、優也」
「ん?」
「明は? 勉強会なら明も誘えばいいのに」
無邪気に聞いてみる。すると、優也の足がとたんに速くなった。
そして、彼は冷ややかに言った。
「あいつは絶対に誘わねぇ」
不機嫌たっぷりな低音が、わずかに怒りを見せる。それだけで、空気がピリリと窮屈になった。
青浪高校を出て、くぼ商店街を抜けた先に大きく横長の久保駅がある。駅前は黒を基調としたレンガ造りの店や、ご当地カラーに合わせたチェーン店までが勢揃い。その一角にあるファミリーレストランへ二人で向かった。ここは学生が勉強会でよく使うので、混雑しない時間帯は店側も快く迎えてくれる。
涼香と優也は店の中央のソファ席へ通された。店員にドリンクバーを注文し、優也が率先して飲み物を取りに行く。涼香はソファにもたれて、ぼんやりとその様子を眺めていた。
どうやら、彼はさっき見せた怒りが冷めているらしい。戻ってくると、早速カバンからプリントと問題集を出した。涼香もならい、解き損ねたプリントを引っ張り出す。
傍目には、二年も付き合っている恋人同士という空気は欠片もないだろう。「熟年夫婦」と言われるのも慣れている。それくらい、二人の距離は自然なものだった。
しかし、問題を解くほどの集中力が続かなかった。優也と別れる世界はもう払拭できたというのに、どうにも違和感がある。そもそも、彼は大学の推薦入試を受けるはずだ。この時期にはすでに、一次試験まで突破している。
涼香は優也に持ってきてもらったジンジャーエールを飲んだ。とくに頼まないメニューを開いて閉じて、天井を仰ぐ。
「涼香ー、集中しろー」
彼は顔も上げずに注意してきた。その仕草が癪に障る。わざとシャープペンを転がして、彼の気を引いてみた。
「凉香」
「ふふっ」
「おい」
「ごめん」
顔を覆って笑いを堪える。
すると、優也が長く息を吐いた。問題集をパタンと閉じる音がし、涼香は指の隙間から様子をうかがった。
大学入試対策問題集の学校名に目が釘付けになる。地元の大学名である「美の里大学」という文字が書かれてあった。涼香が志望する大学だ。
それだけで、この世界の軸を悟った。彼は、夢を諦めている。
「ちょっと待って。優也、私と同じ大学に行くの?」
思わず聞くと、優也の手が止まった。顔を上げ、呆れたように涼香を見る。
「なんだよ、いまさら。それはもうとっくに決めたことだろ」
アイスコーヒーのストローを音を立てて飲む彼は、眉を不機嫌につり上げた。怯むわけにはいかず、涼香は前のめりになった。
「だって、バスケは? プロになるって言ってたじゃん。推薦は?」
「はぁ? 俺がプロになれるわけがないだろ。それに、明のほうが推薦に向いてたし」
「いやいや、でもさ」
「はい、この話は終わり」
会話の終了を宣言し、優也はグラスをテーブルに置いた。コトンと立てた音が機嫌の悪さを表している。
問題に目を移すも、シャープペンを転がしてもてあそぶ。そんな涼香を無視し、優也は英語の問題集を引っ張り出した。淡々と文章問題をこなしていく。その手を見ながら、涼香はどんよりと言った。
「私が原因でやめちゃうの? バスケ、あんなに好きだったくせに」
「……しつこい」
「好きなことまで我慢することないでしょ。そりゃ、私のせいかもしれないけど」
「涼香」
「ひとりごとなんで、気にしないでくださーい」
ふてくされると、優也は観念したようにシャープペンを置いた。ソファにもたれ、涼香をじっと見つめる。
「好きなことよりも、涼香を優先したい。それが俺のいまの気持ちだから……言わせんな、バカ」
面と向かって言われると、顔に熱がこみ上げる。頬が紅潮し、それでも場にそぐわないと思ったので気持ちを鎮めることに専念した。
「そう、ですか」
「そうなんです。だから、もう二度と『私のせい』って言うなよ。次言ったら怒る」
「明と仲直りしてくれたら、二度と言わない」
「はぁ? それは絶対に嫌だ。意味わかんねぇよ」
滑り込みの言葉はあえなく却下された。あんまりしつこいと喧嘩になりそうだが、ここで折れるわけにもいかない。またもや、ひとりごとのようにつぶやいてみる。
「あーあ。やっぱり喧嘩してるんだ」
「恋愛と進学だけでも手一杯なのに、ほかのヤツのことなんて気にしてられねぇよ。俺は涼香さえいてくれればいい」
「えぇ……?」
こみ上げた熱が一気に冷めた。本来なら、喜ぶ場面だ。しかし、優也のその甘ったるさが奇妙に思えた。優也が真剣に思ってくれるほど、その感情が重いものになっていく。
彼の足を引っ張ることはしたくない。それに、もし大学進学できたとして、ずっと一緒にいられるという保証はないのに──どうしてか先のことを考えてしまう。いま目の前のことに集中すればいいのに。素直になれたらいいのに。でも、一度抱いた違和感が邪魔をしてしまう。結局、いまの彼とは未来が見えない。