第十四話
「もういい! わかった。もういい。オレ、部活やめる」
音楽準備室から聞こえたそれは、二人の足を止めた。
「え、なに……?」
羽村に聞かれるも、涼香だってわかりようがない。首をかしげた。
「なんだろ?」
降りかけた階段をそろそろ戻ると、音楽準備室ではしんと静かな怒りが立ち込めていた。長身の男子と小柄な男子が睨み合う。その間にはベースギターを持ってうろたえる郁音の姿が。
「郁ちゃん?」
思わず声をかけると、部員全員が鋭い眼光でこちらを見た。高身長のメガネ男子は『BreeZe』のドラムを担当する若部雫。そして、小柄で丸い髪型の男子は『BreeZe』のギターボーカルであり、部長の伊佐木麟。どうやら二人が口喧嘩している最中だったらしい。そのただならぬ気迫に心臓が縮む。
「……ほらね。現在進行形で超やばい非常事態」
おどけるように言う郁音だが、そこには助けを求めるような節があった。
「喧嘩? 喧嘩なの?」
羽村もおろおろと言う。すると、三人が一斉に「違う!」と叫んだ。皮肉なことに息がぴったりである。これが喧嘩じゃなかったらなんだというのか。
羽村はすぐにスマートフォンを出した。
「通報しよう」
彼女の判断は正しいだろう。しかし、郁音が男子二人の間を割り、羽村のスマートフォンを抑えた。
「大丈夫だから! あぁ、ほら。雫、落ち着こうよ。麟も。もうすぐライブなのに、そんなんでどうするの」
なだめようとする彼女に、雫と麟の顔は暗い。じっとりと重たい空気をまとわせている。
涼香はおそるおそる聞いた。
「どうしたの?」
「簡単に言うと、雫の冗談を真に受けて、麟が激怒した。って感じ」
郁音はひっそりと耳打ちした。
「ライブ前だから、麟がトゲトゲしてるのね。そんな麟を茶化した雫が悪いっていうか……」
「俺のせいかよ」
ツーンと冷たい雫の目が郁音を責める。上から見下ろされると威圧的で怖い。涼香と羽村は無意識に互いの手を握った。
「やっぱ通報しよう……」
羽村がスマートフォンを構える。それを郁音がまた止めた。その応酬は無駄だと思う。
すると、麟がいらだたしげに息を吐いた。彼らからすれば涼香と羽村は闖入者だ。
「とにかく、オレが辞めればいいわけだろ。今日で『BreeZe』は解散だ。それでいい」
あまりにも投げやりな言葉だ。この態度に雫が「はー?」と呆れた。こちらも鼻息が荒い。
「だから、なんでそういう発想になるわけ? お前のそういうとこがほんと合わねー。うざいし、暗いし、本気すぎてバカみてー」
「遊びでやってんじゃねぇんだよ。こっちは真剣なんだ。それをバカにしやがるお前の無神経なとこがムカつくんだよ」
「いい加減にしろ! どっちもどっち!」
いつの間にか郁音も参戦した。引き止める間もなく、彼女も感情を二人にぶつけていく。
「いつまで駄々こねてんの! 他人にまで迷惑かけないでよ! 文化祭なんだから、楽しんでやればいいじゃん!」
「そうだよ。私、『BreeZe』のライブ、楽しみにしてるんだよ」
涼香も横からこっそり応戦した。羽村が驚いてこちらを見ている。彼女だけでなく、メンバー全員の目も涼香に注がれた。
「えーっと。なにがあったかは知らないから、横からごちゃごちゃ言いたくないけどさ。もっと、気楽に構えてていいと思う。大丈夫だよ」
このバンドは成功する。絶対に。
確信めいた言葉に、三人は顔を見合わせた。
「なにを根拠にそんなこと」
麟が言う。彼は思ったよりも神経質な性格らしい。自信がなさそうな声に、涼香は呆れて笑った。
「根拠はない。三人の曲が好きってだけでしゃべってるから」
「涼香……あんた、私らのライブ、まだ観たことないでしょ」
今度は郁音が呆れた。痛い指摘に涼香は失笑に切り替えた。
「えーっと……まぁ、それくらい楽しみにしてるんだから。そんな顔で舞台に立ってほしくないってこと!」
慌ててごまかした割には、うまくまとまった気がする。
「いきなり現れてなにを言い出すんだよ、まったく」
雫が気を抜くように笑った。脱力気味に猫背になる。そんな彼の腹を郁音がパンチする。麟はまだ顔を赤くしていたが、熱はそろそろ引いてきたらしい。
「っていうか、いまさらなんだけど。お前、だれ?」
麟が怪訝に言う。すると、郁音が彼の頭を小突いて紹介した。
「私の友達。我が一年二組の文化祭実行委員だよ」
「へー」
「ついでに言うと、バスケ部一年の寺坂の彼女」
羽村が言う。振り返ると、彼女は意地悪そうに笑った。すると、意外にも雫が納得した。
「寺坂の彼女かー、なるほどなぁ」
「知り合い?」
「うん。あいつ、面倒見がいいからちょっと世話になったことがある」
麟の問いに、雫はあっさり答える。さきほどまで喧嘩していたとは思えないほど、あっさりと打ち解けていた。
「え? 待って? 涼香、いつの間に寺坂と付き合ってたの?」
納得していないのは郁音だった。喜びとも非難ともとれない、挙動不審になっている。
場を収めるつもりがいじられることになるとは思わず、涼香は勢いよく部室の扉を閉めた。
「いいからさっさと仲直りして!」
強引に話をまとめると、扉の向こうから三人の笑いが聞こえた。
「……大楠さんって、たまにああいう度胸あるよねぇ」
教室へ戻る途中、文句を飛ばす前に羽村が感心した。
「やっぱ、そういうところが寺坂を射止めたって感じ?」
「私、そんな大層な人間じゃないよ」
ややうんざりと言えば、彼女はつまらなさそうに鼻息を飛ばした。
「謙遜するなー。そういうの、人によってはウザったいから」
そう言って背中をポンと叩き、教室へ戻る。羽村は友人の元へ向かった。言われっぱなしなのは素直に腹が立つが、角は立てたくはない。
「涼香!」
こころが血相を変えて立ちふさがった。
「羽村さんとどこ行ってたの? なんか、嫌なこと言われてない? 大丈夫?」
「こころ、心配しすぎ。大丈夫だから。あの人とはちょっといろいろ決着つけたかったから」
思えば、こころも羽村に関しては裏で根回ししようと企んでいた。目を丸くして、なおも心配そうに涼香を見つめる。
「そうなの? なんかあったら言ってね?」
「大丈夫だってば。それより、こっちは大丈夫だった?」
客足は順調のようだが、当番がきちんと回っているか不安だ。そんなこちらの心情を覆すように、こころは明るげにVサインを見せた。
「こっちは問題なし! そろそろお昼だし、交代もスムーズにできそう」
「ありがとう」
「いえいえー」
褒められて無邪気に喜ぶ頭をポンポンと軽く叩くと、こころは「ふふふふ」と不気味な笑いを漏らした。すぐに手を引っ込める。
「あ、そうだ。せっかくだし、いまのうちにバスケ部に行ってきたら?」
こころが提案する。用意周到に文化祭のパンフレットを差し出してきた。
優也が所属するバスケ部は校庭のバスケットゴールでフリースローゲームを主催している。バスケ部は毎年同じゲームを企画しているが、主に運営しているのは一、二年生だ。
「ほらほら、いまがチャンス! あとできっちり働いてもらうからー!」
「ちょっ、ちょっと! こころ!」
ぐいぐい背中を押され、呆気なく教室から締め出される。涼香は呆然と廊下を見つめた。
左右どちらも客引きでうごめく生徒の群れ。他校の制服もちらほらとうかがえる。その中へふらりと入り込み、とにかく校庭まで向かうことにした。
「いらっしゃいませー! 一組のアイスクリーム、いかがですかー」
「水泳部、プールでウォーターショーやってまーす! 次の回は十二時からでーす! 整理券配ってまーす」
「漫研部誌『その夢は、誰の夢?』略して『ゆめだれ』ただいま完売しましたー! ありがとうございましたぁー!」
クラスだけでなく部活動も盛んに声を張り上げている。あちこちで笑い声が響いてきて、その楽しげな空気を吸い込めば鬱々とした気分は解消された。湧き上がるのはお祭り特有の浮遊感。目移りしてしまい、涼香は廊下のあちこちに張り出されているポスターを見た。
「ゼリー屋、鈴カステラ屋、たこ焼き、からあげ、ポップコーン……あ、やばい、クレープ食べたい」
各クラスのポスターが張り出されている中、ひときわポップで異彩を放っていたのが二年三組のクレープ屋だった。
ふわふわの生クリームにさつまいもと栗ペースト。いちごに抹茶、ガトーショコラまで盛りだくさん。これは行かなきゃダメだ。