第十一話
帰宅し、夕飯をしっかり食べて、父よりも先に風呂を済ました。あとは午前〇時を待つだけだが……どうして〇時なのだろう。聞くのを忘れていた。
「ま、いっか」
その間、リビングでテレビでも見ることにする。ソファに座ると、母がテレビドラマを見ていた。
「あらら? どうしたの、涼香。このドラマ、興味ないって言ってたじゃない」
すかさず母が驚いたように言う。涼香は「うーん」と気のない返事をした。
内容は、若いイケメン俳優と清純派女優が織りなす純愛もの。不治の病に冒されたヒロインと、彼女を支える同級生の男の子という構図。結末はきっとヒロインが亡くなってしまう。彼女の死を受け、主人公は前を向いて生きていく。そんな物語。涼香がもっとも苦手とするタイプのラブストーリーだった。
オチまで予想がついてしまい、涼香は口をゆがめる。
今日の放送は第三話。ヒロインの病が見つかり、主人公が決断を迫られる回だった。彼女から「別れよう」と切り出されている。立場は逆だが、どうにも自分の境遇と重なった。なんだか目が離せない。
それを母は薄目で見てきた。
「はっはーん。涼香もようやく恋に目覚めたのねぇ」
「はぁ?」
見当違いの邪推に呆れた。しかも、恋愛なら十六歳の頃から始めているし、最近別れたばかりだ。いまさら「恋に目覚める」だなんて笑い話もいいところ。母には優也との交際を一切言っておらず、匂わせもしなかったから知らないのだろうが。
涼香は渇いた笑いをこぼしたが、ふと思った。
もしかすると本気の恋をしていなかったんじゃないか。
告白は優也からだったし、それに引っ張られるように彼を見つめていたのかもしれない。いつでも受け身でいて、さも自分は「モテている」と自惚れていたのかもしれない。痛い女だ。こんなところで認識してしまうとは予想外だった。
「もう寝る」
涼香はイライラしながらクッションを母に押し付けた。
「え? 観ないの? このドラマ、原作小説がすごく泣けるって言われてるのに」
「観ない。どうせ、ヒロインが死んじゃうし。私はハッピーエンドのラブコメがいい」
不幸な結末がわかっているドラマを視聴するほどの余裕はない。冷たく突っぱねると、母は盛大に嘆いた。
「あーあ、どうしてこんなに冷めてるのかなぁー。ときめきが足りなーい。て言うか、一緒にドラマが見たーい。感動を共有したいのにー」
鬱陶しいが無下にはできない。リビングのドアで立ち止まっていると、風呂から上がった父とはちあわせた。この冷めた空気を、父は素早く察知して聞いた。
「どうしたの?」
「涼香がどうしてこんなに冷めてるのか、その考察をしていたところ」
すぐに母が答える。その膨れっ面に、父はタオルで頭を拭きながら苦笑した。そして、首をかしげて興味津々に聞いてきた。
「涼香は恋愛に興味ないのかな?」
デリカシーがない。涼香は無言で父の背中を叩いた。
「いたっ! おい、涼香!」
父は追い立てられるように逃げ、母の横に避難する。いらぬ敵が増えてしまい、涼香の機嫌は最高潮に悪くなる。しかめっ面を見せると、両親は悪びれるそぶりもなく、むしろ二人で娘を冷やかしてきた。
「パパとママはこんなに仲がいいのにねー」
そう言って母は父の頭を拭いた。空気が甘くなる。その模様を涼香は半眼で睨んだ。
「それが原因なんでしょ。娘の前でいちゃつくな。ドン引きだから」
冷たく嘲笑を投げつけて階段をのぼる。両親はクスクス笑いあってるが、それすらも耳障りだ。部屋にこもる。
甘い空気は苦手だ。見てるこっちが恥ずかしくなる。無防備に鼻の下を伸ばして、相手を求めるのが堪らなくダサく見えて仕方がない。絶対にああはなりたくないし、やはり恋愛感情が尊くは思えなかった。
「……それがダメなのかな?」
素直に甘えられたらいいのに。越えてはいけないラインみたいなものがくすぶっているから始末が悪い。そうやって自己分析ができても、行動できなければ意味がない。
不治の病も苦しいだろうが、大病を患ったことがないこちらとしては共感性に欠ける。だが、平坦に一定の甘さを保つのも難儀だ。いや、それよりもまずは目の前の失恋のほうがはるかに現実的だろう。
午前〇時を待つ。
***
人生で幸福だった瞬間を思い浮かべ、反回転する。そして、三度の深呼吸。そうすれば過去へのタイムリープが可能らしい。
しかし、目の前にそびえるのはやはり壁であり、涼香はついこの前もあげたような笑いを天井にぽっかり浮かべた。
「はぁ……やっぱりあれは夢だったんだよ。いいか、涼香、あれは夢だ。現実を見ろ」
少しでも期待したのが恥ずかしい。壁にひたいを打ち付けて、涼香は目をつむった。ベッドに潜り込む。
「さぁ、寝よ寝よー」
明日は文化祭だ。明のクラスを冷やかして、郁音のラストライブを観る。それだけでも十分、青春を満喫したことになる。
もしも未来の自分がこの過去を悔やんだとしても、そんなの知ったことじゃない。現実というのは鮮度が命。その時々の感情がリアルであって後悔なんてものは遺物に過ぎない。ときを惜しんで嘆くのもまた一興。結局は目の前のことにしか目を向けられない。そういう風にできている。
涼香は寝返りを打って、静かにまどろんだ。
***
「……涼香ー? 涼香ってばー、早く起きなさーい」
水にうもれたように遠い声。それが母の呆れた声だと気がつくのに数分を要した。
ガバっと勢いよく飛び起きる。寝てすぐ叩き起こされた気分だ。肩を回してまぎらわせると、再び母の声が響いてきた。
「んもう、涼香ー? こころちゃんが迎えにきてるんだけどー! 早く支度しなさいよー」
階下から再び呼ばれ、涼香はすぐにスマートフォンを見た。
通知はない。時計の表示は十月二十五日。
「あー……ってことは、やっぱタイムリープ失敗、って感じ?」
非現実的な現象が一度ならず二度までも起きてしまっては説明がつかないし、都合が良すぎる。
しかし、こころからの連絡がないとは。タイムリープができていないにしろ、あのこころが翌朝までメッセージをよこさないのは不自然に思える。いや、どうだろう。答え合わせをしようと言い出したのはこころだから、律儀に約束を守っているだけなのかもしれない。
涼香はバタバタと制服に着替えた。シャツとスカートを身につけ、リボンの位置を鏡で見て、紺色のカーディガンに袖を通す。机の上に置いていたきれいなパンフレットをカバンに押しこみ、部屋を出る。階段を駆け下りると、エプロン姿の母が食卓で頬をふくらませていた。
「もー! 外でこころちゃん待ってるよ!」
「うーん」
慌てて玄関に向かい、ローファーに足を入れていると母が素っ頓狂な声を投げてきた。
「朝ごはんはー?」
「いらなーい。どうせ露店とかあるし、適当に食べる」
「そう? んじゃ、行ってらっしゃーい」
のんびりと見送られ、涼香は振り返りもせずに手だけを振った。玄関を飛び出すと、ふわふわの三つ編みが見える。
「ごめん、こころ」
「遅いぞー! おはよ、涼香!」
茶目っ気たっぷりに頰をふくらませ、こころは涼香の腕を引っ張った。
「まったくもう、高校生活〝初〟の文化祭ってときに寝坊なんてあり得ないんだから!」
詰め寄るこころの顔が近い。仰け反りながら彼女の言葉を脳に浸透させると、思考が固まった。
――高校〝初〟の文化祭……?
「涼香? おーい、涼香ー? 寝ぼけてんの? 顔洗って出直してらっしゃいよ!」
涼香は頭を抱えた。
にわかには信じられない。処理が追いつかず、勘ぐってしまう。昨日、さかさ時計の実行を提案したから冗談を言っているだけかもしれない。
涼香は慌てて自分のカバンの中を探った。今朝、机の上に置いていたものを無意識につかんでカバンに入れていた。同時に自分の爪を見る。こびりついて取れなかった黄色がどこにもない。
「涼香、だいじょうぶー?」
またもや二年前の文化祭の日に戻っているのだろう。
涼香は自分の頬をつまんだ。痛みはある。紛れもなく現実だった。
「やっぱ寝ぼけてるんじゃない? 引っ叩いたら目覚めるかもよ?」
そう言ってスナップをきかせて腕を振るうこころ。
涼香は全力で首を横に振った。
「いや! いい! 覚めたから!」
「そう? ならいいけどさー……涼香、実行委員なんだからもうちょっと気を引き締めてよね。心配で文化祭楽しめないじゃん」
不満な頰に、涼香は「えいっ」と人差し指を突き刺した。すると、こころが「ブフゥ」と風船がしぼんだような音を出した。感触もあるので、やはり夢ではなさそうだ。