第十話
夕暮れのミギワ堂古書店は、蛍光灯の光よりも西陽の主張が強い。古本だらけの棚の中で、涼香は読んでいた漫画をパタンと閉じた。
「デジャブだ」
おもむろにつぶやくと、こころが顔を上げた。レジ台に座って古本を開いている。その「逆巻きの時空間」という小難しいタイトルの本を引ったくると、こころは「わぁ」と気が抜けた声をあげた。
「私、前にも優也にふられて、明に慰められたことがあるんだよね」
ちょっと前にタイムリープをした、とまでは言えなかった。肝心なところで言葉がひるんでしまう。
「それは、デジャブってやつ? あるある、そういうこと」
答えるこころの目は柔らかだ。なんとなく憐れみを感じる。その目に指を突き刺そうとすると、彼女は大きくのけぞって回避した。
「嫌な夢でも見たんじゃない?」
「うーん? だとしても、正夢になってるし。最悪」
あれは夢だったんだろうか。いや、あのいっときの時間旅行は夢ではなかった。どうしてタイムリープができたのか──
「あのさ、私はSFに詳しくないから、よくわかんないんだけど」
本の表紙を見つめながらゆっくりと言う。宇宙色のワームホールが描かれた黒い表紙。かつてはクリアだったろう紙の質感をなぞる。
「タイムリープみたいなことって、現実的に起こるものなの?」
ちらりと視界に入れたのは、十年前に流行ったアニメ原作の漫画。主人公の男の子が過去に戻って、失恋相手だった同級生の女の子を助けに行くストーリー。女の子は事故に遭う運命を回避するというハッピーエンド。
「うーん……どうなんだろ? でもさ、時間の巻き戻しができるおまじないならあるよ」
こころがもったいぶって頬杖をついた。それに涼香はすぐに食いつく。
「さかさ時計のおまじない?」
「そうそう。よく知ってるねー」
拍子抜けしたように言うこころに違和感を覚える。涼香は首をかしげた。
「あれ? 一年のときに教えてくれたんじゃなかったっけ?」
「そうだっけ? 忘れちゃったー」
こころの記憶力は薄いようだ。意味不明な敗北を感じ、涼香はため息を吐いた。
「それって、嫌なことを回避するおまじないでしょ?」
「なに言ってんの。これはちゃんと時間を巻き戻すおまじないなんだよ」
こころはムキになって言った。対し、香は眉をひそめて鼻で笑う。
「あー! バカにした! ほんとなんだってば!」
身を乗り出し、こころが本を奪い返す。そして、不満げに頰をふくらませた。
「このおまじないはね、実在したタイムトラベラーにちなんだもので、結構あちこちで流行ったんだから」
「うわぁ、すっごく胡散くさい……」
「ちゃんと事例があるんだよ。これで過去に戻ったひともいるし、デジャブを経験したり、危機回避したり。ネットで検索したらいっぱい出てくるし、この本にも書いてある。信ぴょう性はかなりあると思うよ」
こころの声音が低くなる。涼香は笑いつつも、血の気が引いた。まさかそんな裏話があったとは思いもよらず、またそんなおまじないを軽い気持ちで行ったことを後悔する。
しかし、このおまじないをやってみたからといって、おいそれと過去に戻れるわけがない。いや、どうなんだろう。戻った事例がすでにここにある。
涼香は神妙に唸った。どうにも納得がいかない。脳は混乱を極めている。
「……涼香、あんまり思いつめないでね? まぁ、過去に戻りたい気持ちはよくわかるけど」
こちらの不穏を読み取り、こころが遠慮がちに言ってきた。
「やっぱり、精神的にきついんだよ。必死に忘れようとしてない? 泣きたいときは思いっきり泣いていいんだよ。つらいときは素直に吐き出して。でないと、涼香が壊れちゃうよ」
こころの声がだんだんと深刻になっていく。そんな親友の姿を見て、涼香は思わず口を開いた。
「大丈夫だって。失恋ごときでそう簡単に壊れてたまるかっての」
「でも、あたしは、そういうのをいままでに見たことがあるから、わかるんだよ」
言いにくそうに飛び出すこころの声。そこにはかすかに不快が垣間見れた。
「涼香だって、知ってるでしょ。あたしの両親のこと」
そこまで言われて、ようやく涼香は思い当たった。
こころの両親は、彼女が十二歳のころに離婚した。父と母の末路は、喧嘩別れだったそうだ。かつては愛し合って結婚したはずの二人がいがみ合い、顔も見たくないほどに憎んでしまう。そんな一部始終を見てきたこころだからこそ敏感に感じ取れるのだろう。
「……私も、ちょっとよくわかんないんだ」
ようやく出た答えはひどく曖昧なものだった。
「優也と別れたっていう実感がない。将来のこととか考えないといけないのに、目の前のことでいっぱいいっぱいで、どうしたらいいのかわかんない」
タイムリープも都合のいい妄想なのかもしれない。運命を変えたいと、現実逃避した結果なのかもしれない。答えはどこにも見つからない。
「じゃあさ」
やがて、こころがさっぱりとした声で言った。自然とうつむいていた顔を上げる。こころの爛漫な笑顔が目の前にあった。
「家で『さかさ時計のおまじない』をやってみようよ。あれは一人でやらなきゃいけないから、お互いの部屋で試してみる。それで、明日の朝に答え合わせしようよ」
なんだかこちらの事情を汲んだような言い方だ。それも、かなり気を使っている節がある。
涼香は不服にも頷いた。落ち込んでメソメソしているのは、やっぱりキャラじゃない。かっこ悪い様をさらしかけたことに呆れてしまう。鼓舞するように手のひらに力を入れて握った。
空はまだ青く、西へ緑と黄色、オレンジのグラデーションがかかっている。オレンジなのに青い。対比した色合いだが、不思議と目に優しい。境界線が曖昧で、涼香はこの気持ちと同じようだと思った。
――もう一度戻れるなら、次は必ず運命を変えてやる。
あんな結末が訪れる未来なんて、いらない。