第一話
女の子が幸せな世界に期待してタイムリープする物語です。恋愛成就するのか、友情を大事にできるのか、自分を大事にできるのか……最後まで見届けていただければ幸いです。よろしくお願いします。
青。
青い弾丸がはじけ飛ぶ。鼻と頰とまぶたに命中して散る。
涼香は顔をそらして避けたが、間に合わなかった。アクリルインキの塊がべったりと涼香の顔をおそう。
文化祭準備で大忙しの教室はしんと静まりかえった。
「ごめん、大楠さん!」
絵の具をかけた羽村美咲はたちまち笑顔を強張らせた。慌てて謝るところ、ここまで派手に意地悪するつもりじゃなかったんだろう。だから、涼香もへらりと笑い返して場を和ませた。
「あぁ、いいよいいよー、気にしないで」
しかし、なんだろう。青い絵の具が心にも貼りつくようで気持ち悪い。
涼香は顔を背けて教室から出た。そのとき、目の前にふわふわの三つ編みが現れる。ふんわりと甘えん坊そうな女子生徒は、親友の右輪こころ。
「えっ、涼香!?」
こころが驚愕の声を上げる。
「どうしたの? 顔に絵の具がついてるよ。なにがあったの?」
過剰に心配するものだから、涼香はちらりと教室の中を見やった。絵の具を使っているせいで、窓は大きく開け放してある。こころの非難が羽村に届くのが面倒だ。顔を隠して、彼女の脇をすり抜ける。
「あー、もう。いいから、いいから。気にしないで」
「でも! なんかあったんでしょ? だって、そんなとこに絵の具くっつけちゃうって、誰かにかけられたとしか……」
無視して遠ざかれば、こころの声も続かなかった。
彼女の大げさな驚きがかえって神経を逆なでしそうで、その感情すら見抜かれたくなくて、絶対に振り返らない。憐れみの目を向けられるのが嫌いだ。それをこころもわかっているから、追いかけようとはしなかった。
ジャージのポケットに手をつっこんで廊下の手洗い場へ小走りに向かう。
窓から見える十月二十四日の空は消えそうな水色で、雲との境界線がはっきりしない。学校を囲む桜の木も葉を落として寒そうだ。むき出しの幹は湿り気を帯びている。
そう言えば「人間は嘘をつくとき、決まって二回同じ言葉を繰り返す」というのをどこかで聞いた。本当かどうかはわからないけれど、ついさっき羽村に繰り返した「いいよ」はきっと嘘なんだろう。「いい」わけがない。
羽村とは一年の時から馬が合わない。彼女からあからさまに睨みつけられたことが何度かある。その意味はわからないが、あんな風に絵の具を投げつけるほど、憎まれてはいなかったはず。おそらく少し引っ掛けるつもりが、思ったよりも大きく飛ばしてしまった、そんなとこだろう。ほんのイタズラ心が招いた事故だ。彼女がすぐに謝ったことからそう読み取れる。
「って、なんであいつのことかばってんだろ、私」
涼香はため息を吐いた。顔についた絵の具はもう取れただろうか。折りたたみの鏡を教室に置き忘れたことを思い出し、再びため息を落とす。ついてないっていうレベルじゃない。
「あれ? 大楠?」
背後から呼ばれた。ハスキーな柔らかい声。その主が、杉野明だということは、すぐにわかった。そして、彼にも会いたくなかった。
顔にへばりついた青がまだ残っているかもしれないので、絶対に振り返らなかった。流れる水滴を袖で拭う。
「大楠ってば」
無遠慮にも彼は顔をのぞかせてきた。サラリとした色素の薄い髪と好奇心の目が飛び込んでくる。すると、明はすぐに顔色をくもらせた。
「大丈夫? 絵の具ついてるよ」
「あぁもう、大丈夫だから。本当に大丈夫!」
彼の心配が、こころのものと同じく大げさで、過剰な反応がうっとうしい。冷たく突っぱねて、ポニーテールをひるがえせば、明はすぐに不安の色をくずした。
「まー、なんだ。あのことについては、大楠が気負うことはないんだからさ、元気出しなよ」
明はクラスが違う。だから、二組の不穏な空気については知りようがない。そのはずだが、こころを経由して情報が漏れている可能性はある。口止めしていたわけじゃないし、そもそも明だってこちらの事情が気になっていることだろう。
涼香は居心地が悪くなり、目を伏せた。明の笑い声がだんだん枯れていく。彼は目をそらして首筋を掻いた。
「えーっと……あの、明日、暇だよね?」
「……暇ですが?」
暇という言い方に苛立ちを覚えるが、平坦でいるように努める。そんな涼香の感情を察することなく、明はすっきりと笑った。
「一緒に文化祭まわらない? 『BreeZe』のライブ、観に行こうよ」
これで機嫌がなおると思ったら大間違いだ。涼香は眉根を寄せた。
「……気が向いたら」
「えぇー? いいじゃん。気分転換にさ、パーっと遊ぼ!」
「ほかの子と行きなよ。私、ノリ悪いし、一緒にいてもつまんないよ」
「うーん、まぁ、ノリは悪いよねぇ。そこが大楠らしいっていうか。あ、いや大楠と遊べるんなら、僕はそれでも全然大丈夫!」
明は失言に気づいたようで、慌ててごまかした。怪訝に見てみるも、明は能天気に笑っている。
「高校最後の文化祭、楽しくしたいじゃん。だからさ、僕とデートしようよ。ね?」
「………」
涼香の胸の中に重たく黒いものが溜まる。言いたくないことを言わないと、そこまでしなければ明は引かないんだろう。空気が読めない人間の相手をするのは面倒だ。
涼香は唇の片方をめくるように意地悪な笑いを向けた。
「親友の元カノをデートに誘うとか、明って無神経だね」
彼の笑顔が固まった。言い逃れできず、そのまま目をそらしていく。気まずく重たい空気が流れ、沈黙が続いた。
いつもそうだ。明は後先考えずに発言する。優也はそうじゃなかった。
涼香の元彼氏──寺坂優也は明と同じくらい底抜けに明るいが、口は重い。考えて言葉をひねり出して、間違った回答をしてくれていた。そのほうがまだ思いやりを感じられる。
——俺と別れてほしい。
つい先日に聞いたばかりのその言葉も、考えて考えて考え抜いた結論だろう。しかし、この結末がまだ信じられない。いや、いまはなにも考えるな。逃避しよう。
涼香は上目遣いに明を見た。
「うーん、そうだなぁ……」
彼は負い目からか、わずかに後ずさった。それを追いかけようと一歩近く。
「まぁ、明と遊ぶのも悪くないかもね。あくまでも気分転換に。それ以上の理由はないけど」
意地悪に言うと、明はへらりと笑った。その顔を見ていると、手の内でもてあそんでいるような気分になり、いくらか楽しい。ゆらゆらと心の天秤が傾くよう。もしも、ここで明に乗り換えても優也から咎められることはない。もう別れたのだから。
明は唇を舐めた。予想外の返答に戸惑っている様子だった。自分から提案しておいて、その態度はないだろう。気持ちが一気に冷めていく。
「嫌ならいいよ。私はつまんないやつだし、冷たい女だし、かわいくないし」
「そんなことない! 大楠は、優しくて強い子だよ。そして、絶対かわいい」
それは予想外の言葉だった。明が真剣に言うものだから、意地悪な笑みも引っ込んでしまう。
「一年のとき、僕を助けてくれただろ。あのときから、ずっとそう思ってるよ」
記憶のフィルムが回転する。一年の文化祭。忙しくて目眩がしそうだったのに、あのときはなにも考えずに楽しんでいた。たった二年前があまりにも懐かしい。それに、この二年を思い返すと、どこにでも優也が存在している。
涼香は天井を仰いだ。
「それは……優也から言われたかったなぁ」
本音が思わず飛び出した。慌てて口をつぐむ。
すると、明は深刻な表情で唸った。
「まぁ、優也にもいろいろあるしね……でも、このタイミングで別れるなんて、意味がわからないよ。僕もあいつとは付き合い長い方だけど、ほんと理解不能」
優也の親友らしからぬ辛辣な言い方。それもこちらの気持ちを無視しているように思え、涼香は彼から遠ざかった。
やっぱり、明にはなびかない。漠然とそう思う。
「あっ、明日はうちのクラスに来いよー! サボるなよー!」
慌てて投げつけられた声にも、涼香はろくに返事せずにその場をあとにした。