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終 約束

 三月最後の土曜日は、春らしく薄い雲が浮かんだ晴れ模様だった。


 エディットはすっかり風邪から回復して既に寮に戻った。そして今は王都の中心部、巨大な汽車の行き交う駅のホームに立っている。


 何故ならば、今日はヴィクトルが魔術学校へと旅立つ記念すべき日だからだ。


「それでは兄上、短い間ではありましたが大変お世話になりました。この御恩に報いるべく、精一杯学んで参ります」


 珍しくも畏まって頭を下げたヴィクトルの足元には、大きな革のトランクが置かれている。魔術学校の寮生活は楽なものではないが、彼ならばきっと上手くやっていくだろう。


「子供が恩返しなど考えなくていい。自分のために学んでこい」


 ロルフの言葉は突き放すようにも聞こえたが、弟にはしっかりと真意が伝わっていたようだ。ヴィクトルは満面の笑みを浮かべると、もう一度頭を下げた。


「はい! 俺、頑張ります!」


 本来ならロルフの姉夫妻も来たがっていたそうなのだが、マリアが風邪気味とのことで辞退することになったらしい。ヴィクトルは昨日のうちに必要な挨拶を済ませており、今日の見送りはエディットとロルフだけだ。

 彼らは血のつながりのない兄弟だが、きっとこれからも縁は続いていくのだろう。エディットは晴れ晴れとした気持ちでヴィクトルに笑いかけた。


「ヴィクトル君、体に気を付けてね。勉強も根を詰めすぎたら駄目よ」


「うん、ありがとう。でも受かったのはエディットさんのおかげだからね、期待に沿うように頑張るつもりだよ」


 実のところエディットは魔術学校の卒業生として、ダールベック家を訪れるたびにヴィクトルの勉強を見てあげていた。

 優秀な生徒だったので教え甲斐があったことは確かだが、かと言ってエディット自身は特に何をしたつもりもなかった。勉強を楽しむことができる者は、教師の力など関係なく育っていくものだ。


「ヴィクトル君が頑張ったから合格したんだよ。だから胸を張って楽しんできてね」


「エディットさん、ありがとう。俺、寮生活も学校に通うのも、すっごい楽しみだよ!」


 少年の紺色の瞳は確かな未来を映していた。大きな戦争が終わったからこそ見つめることができるもの。それを守るために沢山の人が命を賭して戦い、だからこそ自分達はここにいる。

 ヴィクトルが重たそうな動作でトランクを持ち上げた。喧騒の中を未だ冷たい風が吹き抜けて、彼の黒髪をそよがせていく。


「じゃあ、そろそろ。兄上、どうかブローをよろしくね」


「わかってる。ちゃんと世話をするから安心しろ」


 当然ながら犬を寮に連れ込むのは不可能だったので、ブローは正式にダールベック家の番犬となった。ロルフはこれまでも世話に関わっていたが、これからはトシュテンと共に面倒をみることになる。


「あとさ、何とは言わないけど頑張ってね、兄上」


「おい、どういう意味だそれは」


「知らなーい。じゃあエディットさんも、元気で」


 初めて出会った頃より背が伸びたヴィクトルが、汽車の入り口に向かって歩き出す。感慨深い思いで見送っていると、彼は何の前触れもなしに振り返った。大きく息を吸って、空いた方の手を口の横に当てる。


「二人は俺の兄上と姉上だね! この半年、本当に楽しかった! どうもありがとう!」


 大声で叫ぶせいで周囲の注目が集まったが、当の本人はどこ吹く風で大きく手を振っている。エディットが手を振り返したのを受けて微笑むと、再び前を向いて歩き出した。


「まったく、騒々しいやつだ」


「ふふ。寂しくなりますね」


 ロルフは文句をこぼした割に、その口元には柔らかい笑みが浮かんでいた。エディットは彼を見上げて、自身もまた小さく微笑んだ。


 汽車に乗り込んだヴィクトルが窓から顔を出す。大勢の見送り客がいて近付けない中、彼がこちらを見つけてくれたのがわかる。

 黒い車体が高らかな汽笛を鳴らして動き出す間にも、ヴィクトルは笑顔で手を振っていた。エディットも懸命に手を振ったが、ロルフは手を上げただけだったのが彼らしかった。

 車輪が回る音が早くなって、晴れやかな笑顔もすぐに見えなくなる。アーチ状の駅舎の向こうまで進んだ頃になると、太陽の日差しが降り注ぎ、煙と混じり合って視界を白く染めていった。





 駅を出てからはダールベック家にてお茶を頂くことになり、エディットは応接用のソファに身を沈めていた。ロルフは対面に腰掛けて、静かにティーカップを傾けている。


 ——それにしても。ヴィクトル君たら、姉上だなんて。


 ヴィクトルに他意はないのかもしれないが、そんなことを言われたら意識してしまう。

 思い出されるのは年度末パーティに端を発する様々な出来事だ。家族の邪魔はできないとごねた結果、何だか最後にはロルフにプロポーズらしきものをされた、ような気もする。

 しかし熱による幻聴だったのか、今のところそれについて話が蒸し返されることはなく、日々は忙しなく過ぎ去っている。


 聞いてみるべきだろうか。しかし聞き間違いだったら思い上がりもいいところだし、自分の考えがまとまったわけでもない。


 ああ、自分が可愛くない態度を取ったせいで、変な状況に陥ったのだ。ロルフはこの家で養生しろと言いたかっただけで、最初から大人しく世話になっていればこんなことには——。


「エディット。これをやる」


 いつものぶっきらぼうな言葉と共にどこからともなく花束が登場したので、エディットはまともに面食らった。

 薄紅色と白で形造られた繊細な花束だった。差し出す動作に合わせて花弁と葉が擦れ合う音を奏で、思わず受け取ったことによってまたさわさわと揺れる。


 驚きのあまり何も言わずに受け取ってしまったが、ロルフと花は一番縁遠いもののように思えた。


 いや、そうでもないかもしれない。ロルフは恐らく戦友の墓標に花を手向けることも多いはずで、彼がそうした手間を惜しまない性格であることを、エディットは知っている。


「花束をもらって喜ばない女性はいないと聞いた。……ので、用意した」


 決まりの悪そうな声でロルフが言う。そのような助言をくれる相手となると、恐らくはマットソンだろう。


「この間は悪かった。勢いでとんでもないことを言った」


 エディットは痛いほどに心臓が跳ねたのを感じた。ロルフは緊張に強張った瞳でこちらを見つめていて、以前のプロポーズについて言っているのは明白だった。


「俺は貴女といると失敗してばかりだ。陽気でも愉快でも面白くもないし、むしろ正反対の人間だ。しかもいつ死ぬともわからないし、これからも沢山の迷惑をかけるだろう」


 それはその通りで、ロルフは堅物で生真面目で、冗談の通じない人間だ。

 けれどエディットは、そんな彼だからこそ好きになった。ずっと戦ってきた彼を。血まみれになっていた彼を。


「だが、必ず幸せにするし、生涯をかけて守り抜く。だから……俺と結婚してほしい」



 ——『そんなもの、俺がもっと幸せにしてやる』



 ああ、なぜ忘れていたのだろう。


 ロルフはあのパーティの帰り道、そう言ってくれていたではないか。

 多分大きな決心を伴ったであろう、口づけと共に。


 不器用な人だ。結婚という言葉を何の覚悟もないまま口にするような人じゃない。

 そんなことはわかっていたはずだったのに。


「……前に言ったではありませんか。大佐殿は私が必ず治すって」


 絞り出した声は掠れていた。それでも、どれほどみっともない顔を晒すことになろうとも、今だけはきちんと言葉にして伝えなければならない。


「だからちゃんと、大怪我までで持ち堪えて下さい。即死は絶対にしないで下さい。それをお約束頂けるなら……結婚、しましょう」


 将来を誓い合う言葉にしては、珍妙で血生臭い条件だった。

 これどこれはこれで自分らしいような気がして、涙が滲んだ目を細めて笑う。


 エディットは魔術医務官で、ロルフは軍人だ。それはどんな場面であっても無視できない現実で、故に出会い、共に戦うことができた。


 ——だって、ずっと一緒にいたいもの。この方のことは、私が守ろう。


 だからこそ、これくらいの約束を貰っても、バチは当たらないはずだ。


「わかった、約束する。貴女には敵わないな」


 ロルフはエディットの気持ちを読み取ったのだろう、気の抜けたような笑みを見せてくれた。

 そうして「これもやる」との言葉と共に婚約指輪まで登場したので、相変わらずの不器用さが愛しくて、ますます目の奥がツンと痛んだ。


「宝石店なんて、女性ばかりだったでしょうに」


 怖い顔をしたロルフが宝石店の扉を開ける様を思い描くと、少しだけ笑えるのに、それ以上に嬉しくて胸が詰まった。実際その通りだったようで、ロルフは開き直った調子で頷いて見せる。


「ああ、最初から最後まで居辛かった。だから結婚指輪は、貴女も一緒に買いに行こう」


 小さな未来の約束。それを交わせることが、こんなにも嬉しい。


 もう十分すぎるほど幸せで、エディットは笑顔で頷いた。薬指を彩る透明な宝石が、午後の日差しを受けて輝いていた。



 〈後日談 年度末パーティーについての報告書・完〉






ここまでお付き合い頂きありがとうございました!

最終話お待たせしてしまいすみませんでした。

じれじれの二人がようやくここまで進展しましたが、如何でしたでしょうか。


またどこかでお会いできますように……。

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