10 目覚めと、突然の
目を開けると黒い毛並みで視界が埋まっていたので、エディットは瞬きを繰り返した。
少しずつ焦点が定まっていく。この馴染み深い艶やかな黒色は、もしかして。
「ブロー……?」
ワン、と元気な返事をもらったエディットは俄かに破顔した。この黒い牧羊犬はよく躾けられた犬なのだが、エディットが目を覚ましたのが嬉しかったのか、今日に限っては遠慮なく飛び掛かってくる。
「わ、わ、ブロー! 心配してくれたの?」
思ったよりも普通の声が出て、いつの間にか随分と回復していたらしいことを知る。黒い毛並みを思う存分撫で回していると半開きの扉の外からバタバタと足音がして、ノックの後に見知った顔が入室してきた。
「ブロー、ここにいたのか! エディットさんは風邪なんだから、飛び付いたりしたらだめだよ!」
「ヴィクトルくん!」
ヴィクトルが手に持つ装備を見るに、どうやらブローを散歩に連れていくために探していたようだ。エディットは彼にも大変な迷惑をかけただろうと思い出し、慌てて起き上がって頭を下げた。
「今目が覚めました。ヴィクトルくん、面倒かけてごめんなさい」
「そんな、俺は何にもしてないから全然気にしないで。大分元気になったみたいで本当に良かったよ」
ヴィクトルは言いつつ、ブローの首輪に紐を括り付けている。
ブローは大人しく従ったものの、作業が終わった途端に忙しなく歩き始めた。足元にまとわりつく犬に重心を崩されたヴィクトルは、大きくたたらを踏んでいる。
「兄上ったら心配してずっとエディットさんの側にいたんだよ。今も一応軍服に着替えたけど、やっぱり出勤を取りやめようか悩んでたからね」
一人と一匹の仲の良さに目を細めていたエディットは、想像だにしない話題に全身の動きを停止させた。
ずっと側に、いた? そんなことはまったく気がつかなかった。
「そうだ、目を覚ましたこと、早く兄上に伝えなくちゃ! あと、トシュテンさんに朝ごはんも用意してもらうね」
「ヴィクトルくん、ちょっと、まって……⁉︎」
「ごめんブローがね、エディットさんが起きて嬉しかったみたいで。これじゃ休めないから連れてくね! 水とか全部、枕元に置いてあるからー!」
ヴィクトルは興奮状態のブローに追い立てられるようにして、喋りながら出て行ってしまった。相変わらず賑やかで明るい少年だ。
「エディット!」
ぼうっとしている間にも軍服を着たロルフが飛び込んできたので、エディットは赤らんだ顔もそのままに彼を迎えることになった。
ロルフは上半身を起こしたエディットを見てほっと息をついた様だったが、すぐに眉を寄せてつかつかと歩き始めた。ベッドの側に膝をつき、端整な面立ちをぐいと近づけてくる。
「顔が赤いぞ。まだ熱があるんだろう」
「い、いえ。まったく、平気です!」
「信用ならんな。やはり今日は仕事を休め。廊下に電話があるが、職場には連絡できるか」
「あ、あの、はい。できます!」
実際にまだ少しの熱があることは間違いなさそうだったので、大人しく頷いておくことにする。ロルフはようやく表情を緩めてくれたのだが、エディットは先程のヴィクトルの発言が気にかかっていた。
ずっと側に居てくれただなんて、ここまでの迷惑をかけていたとは知らなかった。ロルフはとても忙しい人なのに、自分がここで寝ていたのでは彼が休めないではないか。
「……あの、大佐殿。私、今日中には寮に戻ります」
「何?」
エディットはロルフが声を低くしたことに気付かない。迷惑をかけたくない一心で、いつもの笑みを浮かべて見せる。
「寮までなら歩けると思いますので。もうだいぶ熱も下がりましたし、後は一人でも大丈夫です」
「何を言ってる。どうしてこの後に及んでそんな無茶をしようとするんだ」
この時のエディットはかなり回復していたので、ロルフの声が怒りを帯びたことに怯まなかった。そもそもエディットはかなりの胆力を持っており、自分が正しいと思ったことは曲げない性格なのだ。
「それは、これ以上ご迷惑をおかけしたくないからです。一番重症の時に面倒を見て頂いただけでも十分です」
「だから迷惑ではないと言っているだろう。ここにいろ。逆に落ち着かん」
「ですがヴィクトル君だって、今週末には魔術学校の寮に引っ越すでしょう? こんなに忙しい時なのですから、これ以上は」
ヴィクトルは魔術学校に合格して、今週末からは寮生活の身の上なのだ。色々と準備で忙しい時期にこうして世話になっただけでもあり得ないというのに。
「そんなことは気にしなくていい。病人が一人居たところで、ヴィクトルは迷惑がったりしない」
「でも……」
「貴女はどうしてこうも強情なんだ。それとも、この家にいるのが嫌なのか」
詰まるところ、二人は似たもの同士だった。かつてマリアとヨアキムの邪魔になりたくないと士官学校に入ったロルフと同じで、エディットは意地を張らなければならないような気がしたのだ。
「そんなわけありません! ですがご家族の邪魔をするのは、申し訳なくて」
「邪魔だと……?」
いつしか話し合いは口論の気配を帯び、二人は比例するように意固地になった。困り顔をしながらも決して譲ろうとしないエディットを前にして、ロルフはついに我慢するのをやめたようだった。
もともと意志の強そうな眉毛がぐっと釣り上がる。そうして放たれた一言は、エディットにとって完全に予想外のものだった。
「だったら結婚すればいい!」
——んん?
いつかの、そう、最後の怪我の治療にて「貴女は今日も綺麗だな」と言われた時と同じ調子で、エディットは固まった。
何だかとんでもないことを言われたような気がするのだが、聞き間違いだろうか。エディットは問い返そうと口を開いたが、それよりもロルフが動き出す方が早かった。
「俺は一体何を……⁉︎」
「大佐殿⁉︎」
両手で頭を抱えたかと思えば、出勤用に整えた髪を思い切り掻き回している。エディットは思わず彼を呼んだものの、その声が届いていたのかどうか。
「く、くそ……こんなつもりでは。だが、撤回は、しない。エディット!」
「は、はい⁉︎」
乱れ切った髪型になったロルフが勢いよく顔を上げた。林檎に負けないほどに赤くなった顔を見て、エディットはようやく先程の発言を理解し始めていた。
「俺は貴女と結婚をしたいと考えている! であるからして、返事の如何に問わず、とにかくここにいろ! いいな!」
「は、はい! 承知しました、大佐殿!」
「よし! では、俺は行く!」
エディットはいつもの調子で敬礼した。ロルフもまた指揮官よろしく頷くと、そのまま規則正しい歩幅で歩いて部屋を出て行った。
ドアの閉まる音が耳に届いてしばらく、エディットは呆然としたままでいた。
先程までの賑やかさが嘘のように、室内を静寂が満たしている。静かな中にたった一人身を置けば、今起きたことを思い返さずにはいられなかった。
「駄目……熱が上がりそう」
エディットは力なく呟くと、真っ赤になった顔を枕に押し付けたのだった。




