8 治癒魔術師が弱る時
「トシュテンはいるか!」
ロルフはエディットを抱えて走った末、自宅の玄関扉を殴り込みの勢いで開けた。すると丁度ヴィクトルが通りがかるところで、目を丸くして振り返る。
「兄上、と……エディットさん⁉︎ 一体どうしたの!」
焦りを隠しもせずに駆け寄ってきた弟は、エディットの様子を視界に収めるや顔を青くした。
エディットは今や顔を真っ赤に染めて、額に球の汗を浮かべている。意識は朦朧としており、呼吸も走った後のように荒い。
一体いつから我慢していたのだろう。ただ彼女が笑ってくれることが幸せで、何も見えていなかった。頬が赤いような気がしていたのに、会場の暑さか化粧のせいだろうと受け流してしまったのだ。
しかも体調の悪いエディットに対して、自分は何をした。
ロルフはこの場で己への呪いの言葉を吐き出したい気分だったが、そんな場合ではないと唇を噛んで耐えた。
「ヴィクトル、医者を呼んでくれ」
「あ、う、うん! わかった!」
ヴィクトルはすぐに電話へと駆けて行った。
医者と一緒で治癒魔術師にも専門があり、エディットの専門は外傷だという話は聞いたことがあった。そもそもこんな状態では魔術など使えるはずがないため、ここは医者に見せなければならない。
客間へと歩き始めたところで奥からトシュテンも飛び出してくる。看病の準備を整えるように指示すると、優秀な家令はまたすぐに動き出した。
そうして客間のベッドにエディットを降ろした頃には、既に飲み水と水桶が用意されていた。
「旦那様、せめてコートは脱がせて差し上げませんと」
確かにそうだ。気が動転しすぎて思い至らなかったが、これでは寝苦しくて敵わないだろう。
ロルフは早速コートを脱がしてやった。戦地では怪我人の面倒も見たことがあったので、ここまでは特に問題はない。
しかしダスティピンクのドレス姿を見たロルフは一瞬だけ手を止めて、ひとまずは上から布団をかけることにした。
「……ドレスのまま寝かせていても良いものだろうか」
「まあ、良くは無いでしょうが、この場合は仕方がないような。我が家は男しかおりませんし、メランデル様とて知らないうちに着替えさせられたらお嫌なのではないでしょうか?」
勝手に着替えさせられたと知ったエディットから侮蔑の眼差しを向けられたら。
考えただけで耐えられない。銃口を向けられた時よりも遥かに恐ろしい想像に、ロルフはあっさりと屈した。しかしこのまま寝かせるにしても、これでは息もしにくいように思える。
「トシュテン、悪いが少し出ていてくれ。ボタンくらいは緩めてやりたい」
「はい、それがよろしいでしょう」
トシュテンが一礼して部屋を出ていくのを見送って、ロルフは再びエディットを見下ろした。熱が上がってきているのか、先程よりも息が荒いように見える。
「少しボタンを外すからな」
声かけに対する返事はなかった。辛そうな様子に胸をかきむしられる思いがするのを耐えて、ロルフはエディットを抱き起こした。
背中で一列になったボタンを三つほど外してやる。顕になった白い背中は極力見ないようにして、もう一度細い体を横たえる。
するとエディットが微かに目を開けた。彷徨う視線に焦燥を覚えたロルフは、思わず身を乗り出していた。
「エディット、大丈夫か……⁉︎」
ああ、何を言っているのだろう。
大丈夫な訳がない。こんなに熱が高いのにパーティに出席して、平気なはずがないというのに。
どうしてこんな無理をした。いや、俺が生地の薄いドレスなんぞを着せて、連れ回したから。
そもそもエディットは今日のパーティが俺の今後にとって重要なものだと認識していた。だからこそこんな無茶を——。
「たいさ、どの……?」
舌足らずな声が自身を呼ぶ。恐らくは正確に状況を理解することなどできていないだろう。赤い顔をしたエディットがそれでも微笑むのだから、ロルフは胸が潰れる思いがした。
「だいじょうぶ、です。私、少しだけ、肺が弱くて。だから、酷く見えますけど……ただの、風邪ですから」
だから、そんなお顔をなさらないでください。
言葉の外でそう言われた気がして、ロルフは衝動的に力の抜けた手を握り込んだ。
肺が弱いだなんて、そんな話は初めて聞いた。しかし以前にタバコが苦手だとは話していたことがあって、だからこそロルフは吸うのを止めたのだ。
「すみません、私。ねむ、くて……」
「ああ。何も気にせず、眠ってくれ」
掠れた声でようやく絞り出したら、エディットはゆるりと目を閉じた。すぐに寝息が聞こえてきたが、やはり息遣いは荒く苦しそうだった。
——こんなになってまで、まだ人のことを気にしているのか。
いつも誰かを癒しているエディット。苦しいことは決して口にせず、いつも朗らかに笑っている。彼女が仕事に対して真面目なのは皆が知っていて、だからこそ誰もがこの治癒魔術師を慕うのだ。
白衣の細い背中。治ってよかったと微笑む顔。他の女がよく仕事に努めていようと何も感じないのに、エディットだけはその全てが殊の外愛おしかった。
だから応援したいと思った。男どもの目線は正直に言えば腹立たしかったが、彼女のやりたいことを阻む理由にはならないのだと。
だが今になってロルフはようやく思い至り、頭を金槌で殴られたような衝撃を覚えていた。
エディットはいつだって傷付いた者を癒してくれる。
しかしエディットこそが倒れた時、一体誰が彼女を助けられると言うのだろうか。




