7 春の夜
「こ、こんばんは、オデアン軍医中尉殿」
オデアンは相変わらず麗しい笑みを浮かべているが、どこか目が笑っていないようにも見えた。そこで彼からこのパーティに誘われて断ったことを思い出し、何か言うべきかと思案したが、オデアンはお構いなしに話し始める。
「ねえ君、大丈夫なの?」
オデアンは明らかに酒の入った瞳をして、ぴったりとこちらを見据えていた。何を問われているのかわからないエディットは、黙したまま彼を見つめ返す。
「ダールベック大佐殿って、怖い人だって言うじゃないか。僕の誘いを断ったのは、あの人に脅されてこのパーティに参加する予定だったから、なんだろう?」
「……はい?」
エディットは怒るよりもまず間抜け面を晒した。はて、このまったく根拠のない勘違いは一体どこから来たというのだろうか。
唖然とするエディットを前に、オデアンは例の芝居掛かった仕草で髪をかき上げた。酔っ払って意味不明な言いがかりをつけてこようとも、彼の纏う空気はキラキラと輝いている。
「何か困っていることがあるんじゃないのかい。だって、そうでもなければ僕が振られるなんてあり得ないだろう」
「え、あの、なんですかそれ……?」
勘違いに加えてこの自信の出所も全くわからず、返した声には困惑が滲んでいた。オデアンが伊達男として名高いことは間違いないが、エディットからすればただの他人でしかないのだ。
「ねえ、メランデル軍医少尉。僕は本気で君のこと良いなって思ってたんだ。だって僕たち、明らかにお似合いじゃないか」
「ええ……?」
「君は可愛くて良い子だし、僕の両親も気に入ると思うんだよね」
「はあ……」
「だから、君は僕の恋人になるべきなんだよ!」
——何この人、気持ち悪い!
酔っ払いの戯言と受け流すことはできず、エディットは全身の毛を逆立たせた。ゾッとするという表現がぴったりの感覚だった。
ゆらり、とオデアンが千鳥足での一歩を踏み出してくる。周囲に人はおらず、ここへ来てようやく己の危機に気付いたエディットは後退りをしたが、すぐに背が壁にぶつかってしまう。
「僕にしておきなよ。可愛がってあげるからさあ……」
「い、嫌! 来ないで!」
怖気立ったお陰でまるで初めて戦地に出た時のように足が動かない。こんな男のせいで恐怖を感じているという事実が歯痒くて、せめてと目を瞑った、その時のことだった。
「何をしている」
恐らくは今まで聞いた中でも一番の重低音だった。
目と鼻の先に迫っていたオデアンとの間に、黒い背中が割り込んでくる。こちらをちらとも見ようとしないその人物がロルフであることは、エディットにはすぐにわかった。
その途端に緊張が解けて、強張っていた全身から力が抜けていく。
「マルク・オデアン軍医中尉。これ以上彼女に近付いたら貴様を斬る」
ロルフが腰の軍刀に手をかけると、広い背中の向こうでヒッと息を呑むのが感じられた。それ程に怒りを感じさせる、頬を張るような低い声だった。
「今すぐ立ち去れ。二度と彼女の視界に入るな」
短くも要点を突いた命令は、受けたものを吹き飛ばすような圧を孕んでいた。オデアンはしばらくの間震え上がってその場に止まっていたが、やがてじりじりと足を動かすと、一気に踵を返して走り出した。
「うわああああん!」
——泣いて去って行った……。
エディットはぽかんとしたままでいた。かなり怖い目にあったつもりが、オデアンに悪意が無かったおかげか案外元気だ。
しかしロルフからしてみれば、そう簡単な出来事には思えなかったらしい。
「無事か⁉︎」
いつかのように大変な勢いで両肩を鷲掴みにされたエディットは、こくこくと頷いた。
「お陰様で無事です。ありがとうございます」
「……良かった。やはり貴女は一人にできないな」
ロルフは思い切り脱力した様子でため息を吐くと、エディットの肩から手を離した。
彼がここに居るということは、どうやら心配して見に来てくれたようだ。大丈夫と何度も言ったのにこの様とは情けないし、今回もまた助けられてしまった。
「オデアンのことならもう心配はいらない。飛ばしておく」
「飛ばっ……⁉︎」
とんでもない単語にエディットが絶句すると、ロルフはしばし黙り込んだ末に、やけに平坦な声で言った。
「冗談だ」
彼は冗談を言わない人だと思っていたのだが、果たして本当に冗談なのだろうか。
エディットは引っかかるものを感じたが、それ以上のことは考えるのをやめた。
オデアンのあの様子だと色々な女性に迷惑をかけている可能性も高いし、そもそも軍医を腰掛け程度に考えているようだったから、もし突然いなくなってもそう不思議な話ではない。うん、そのはずだ。
「エディット、もう帰ろうか」
「え……」
ロルフが優しい声で言った。大変な目に遭って疲れただろうと、気遣ってくれているのだ。
不甲斐ない我が身は情けなくてたまらないが、しかしこれについて確認しなければ頷くことはできない。
「ですが大佐殿は、このパーティにパートナーと参加しなければならなかったのですよね。目的は、達成できましたか……?」
問いかけた瞬間、ロルフの灰色の瞳が大きく見開かれた。
エディットがこの事実について知っていることは特に明かしていなかったので、当然の反応だった。
「……知っていたのか」
「はい、何となくは。軍では結婚していない者が上に行くのは難しいと、噂は耳にしたことがありましたので」
ポーズだけでも恋人がいるところを見せれば、きっと評価も上がるのだろうと。
だから今日は上層部への挨拶周りでもあるかもしれないと思い、朝から気合を入れていた。体調が悪かろうが絶対に欠席するわけにはいかなかった。
結婚するとかしないとかそんなことは関係なく、エディットはロルフの役に立ちたかったのだ。
「それなのに今日は、楽しいばかりで全然お役に立てなかった気がして……本当に、これでよろしかったのですか?」
エディットは梔子色の瞳を不安に揺らした。ロルフは呆然と立ち尽くしていたが、やがて大きなため息を吐くと、大きな手で自身の顔を覆ってしまった。
「貴女は……どうしていつもこう、健気なんだ……」
低い呟きがよく聞き取れず、エディットは首を傾げた。するとロルフは顔を上げて、うめく様に話し始めた。
「違うんだ。確かに誘ったきっかけはユングストレーム大将閣下にけしかけられたことだったが、俺はそもそも出世のために手回ししようなどとは思わない。ただ貴女が楽しんでくれたなら、それだけでいいんだ」
ロルフが明らかに必死の様子で言い募るので、エディットは珍しい光景に圧倒されていた。
彼は本当に、ただ純粋に誘ってくれたということだったのか。
実感したら胸が温かくなって、エディットは心からの笑みを浮かべた。やっぱり今日は奇跡みたいな日だ。
「すみません、言い方が良くなかったですね。もちろん大佐殿がそれだけのために誘ってくださったわけでは無いことは、最初から解っていました」
「……そうなのか?」
「はい。つまり、今日はとても楽しかったんです」
「……そうか」
きちんと説明をすれば、ロルフは理解してくれた様だった。勢いを無くした彼を見つめて、エディットは溌剌と笑った。
「では、満足したか」
「大満足です!」
「そうか。ならば良かった」
機嫌の良いエディットに釣られたのか、ロルフもまた笑ってくれた。
遠く響く喧騒を背に、二人は一足早く会場を離れる事にした。
公会堂が遠くなるにつれ、人通りも少なくなってゆく。同じ官庁街でも寮の近くまで来た頃には周囲に誰もいなくなっていて、夜の空気はしんとしていた。
門の前で足を止めたエディットは、白い息を吐いてロルフを見上げた。
「大佐殿、今日は本当にありがとうございました。いろいろな方とお話できましたし、素敵なドレスまで着せて頂いて……何だか、夢のようで」
今日のことを思い返して目を細める。マットソン夫妻のお似合いぶりに、天使のようなモニカ。ユングストレームは相変わらず朗らかで、他にも沢山の人と話すことができた。
そして如何にロルフが慕われているのか目の当たりにして、エディットは嬉しかった。
何故ならこの人は、ずっと戦ってきた人だから。
だからこそせめて人に恵まれていて欲しい。自分が願うのは烏滸がましいようなことだとは、わかっているけれど。
「凄く幸せな日でした。こんなに素敵なことが起きて、本当にいいのかしらって」
思ったくらいです。
そう続けようとした言葉は、氷点下近くの空気を温める前に溶けて消えた。
唇に冷えた感触がそっと触れる。まるで雪のように優しく、胸の奥深くを伝えるために。
「そんなもの、俺がもっと幸せにしてやる」
低くまっすぐな声。灰色の双眸はただ本心を伝える輝きを宿し、今までで一番近い位置からじっとこちらを見つめている。
口付けられたのだと理解するまで、エディットはただただぼんやりとしていた。
だってこんな出来事こそ、本当に起こり得ることなのだろうか。
かつてのロルフは女嫌いで、エディットは彼に叶わぬ恋をしていて。だから想いを通じ合わせても、そう簡単には甘えられなかった。
それなのに、触れてもらえるだけでも十分すぎるくらいなのに。
幸せにしてやる、だなんて。
顔が信じられないほどに熱い。しかも頭まで痛くて思考回路も回らないし、寒気までしてきた気がする。
「……エディット?」
異変に気付いたロルフが訝しげに名前を呼んだ。エディットは返事をすることもできずに、倒れないように踏ん張るので精一杯になっていた。
手袋を取り払った手が伸びてきて、問答無用で額を覆う。その瞬間にロルフが眉を吊り上げたのが、霞む視界の中でも良く見えた。
「凄い熱だ、一体いつから……! エディット、大丈夫なのか……おい、エディット⁉︎」
戦場ですら聞いたことがないほどに切羽詰まった声がしきりに呼びかけてくる。
目眩に抗えずに瞼を閉じたエディットは、倒れ込む前にロルフによって抱き止められたのだった。




