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5 大佐殿がちょっとおかしいです

 熱があるかもと絶望しつつ体温を測ると、水銀のメモリは36度8分を指していた。


「良かった。これなら行っても大丈夫よね」


 この体温ならばまったくもって平熱の範疇と言える。健康な時よりは若干高いが、これくらいの風邪なら仕事は休まないのが普通だ。


 年度末パーティには絶対に行きたい。催し自体には然程のこだわりもないが、エディットにとってはロルフが誘ってくれたことが何よりも重要なのだ。

 ひとまず美容院の時間まで体を休めることにして、エディットは再びベッドに横になった。



 *



「わあ……! 立派な会場ですね!」


 官庁街に位置する公会堂を訪れるのは初めてで、エディットは外観を見ただけでまず歓声を上げた。

 おそらく築百年は経とうかという瀟洒な建物は、今は煌々と灯りがついて来場客を出迎えている。


「中も広いぞ。はぐれないよう注意するように」


「はい、承知しました」


 特に高揚した様子のないロルフに頷き返したところで、ちょうど入り口にたどり着いた。身分証を提示して、クロークにコートと荷物を預けることにする。

 奥へと運ばれていくコートを眺めながら、エディットは今更ながらに緊張し始めていた。ロルフにきちんとドレスを着た姿を見せるのはこれが初めてになる。

 言われた通り毛皮のショールも身につけたし、美容室で髪型から化粧まで施して貰ったのでおかしなところはないはずだ。

 エディットは一人で頷くと、意を決して歩き出した。荷物が少ないロルフは混雑するクローク前を既に離れ、会場の入り口近くに移動したようだ。


「お待たせ致しました。参りま」


 不自然に言葉を途切れさせて、エディットはあからさまに固まった。

 何故ならば、第一種軍装を身に纏ったロルフが格好良すぎたのだ。


 先程までは彼もコートを着ていたからまったく気が付かなかった。いつもの実用性重視の濃緑色の軍服とは違い、勲章や金モールで彩られた黒色の軍服姿はとても立派で、ただでさえ端整な面立ちのロルフをこれでもかと素敵に見せている。


 そういえばこの方は格好良いのだった。実際に招待客の女性たちはチラチラと視線を注いでいるし、正体を知る軍人たちも憧れの眼差しで見つめている。


 この感動をどう伝えるべきかと考えを巡らせていたエディットだが、ロルフもまた何故か固まっていることに気付いて首を傾げた。


「大佐殿、どうなさいました?」


 すると肩章を乗せた肩がぴくりと揺れ、気まずそうに視線を逸らされてしまう。


「……その。似合って、いる」


「え……!」


 今度はエディットが肩を揺らす番だった。確かに洋品店ではそうしたことを述べてはいたが、まさか面と向かって言ってもらえるとは思いもしなかった。

 お世辞を言うような人ではないから、きっと本心から言ってくれているのだろう。だからこそ嬉しくて、照れ臭くて、顔が上げられなくなってしまう。


「ありがとうございます。……あの、大佐殿も、素敵です」


 ロルフの顔は見られなかったから、どんな表情をしていたのかはわからない。それでも彼もまた照れていたであろうことは、喧騒ばかりが聞こえる長い沈黙のおかげでよく伝わってきた。


「……行こうか」


 躊躇いがちに黒い軍服の腕が差し出された。エディットは顔を上げて笑顔で返事をすると、その腕を取るのだった。





 会場に入った途端に周囲がざわめいたのを感じた。

 そして同時に多数の視線が突き刺さってくる。じっと会話を聞き取ってみると、やはり「あのダールベック大佐が」とか、「女性連れ」「あの子魔術軍医の」などと囁いているようだ。


「気にするな。堂々としていろ」


「はい!」


 エディットは言われた通りに眉を吊り上げて胸を張ってみた。すると頭上で吹き出す気配がして、見上げればロルフが面白そうに微笑んでいる。


「無理にキリッとしなくてもいい。どうしようと可愛いから何でもいいが」


 とんでもない発言を受け、エディットは絶句するしかなかった。

 ロルフは狼狽える様子もなく、ウエイターから飲み物などを受け取っている。先程似合うと言ってくれた時は照れていたはずなのに、もしかして彼は自分が凄いことを言ったと気付いていないのではないだろうか。

 顔が熱い。何だか喉が渇いて頭も痛くなってきたような……。


 エディットは頬に手を当てたが、手まで熱くなっていて何の効果もなかった。困り果てて視線を左右に振った時、予想外のことが起こった。

 父親らしき軍人に抱き上げられた小さな女の子と目が合ったのだ。カナリアイエローのドレスをおしゃまに着こなしているが、二歳に満たないくらいだろうか。金色の髪にリボンをつけ、とても綺麗なアイスグレーの瞳でじっとこちらを見つめている。

 よく見ると会場には家族連れの姿もあって、奥方同士で育児談義に花を咲かせる様子も散見された。


 ——天使がいる……!


 それにしても現実のものとは思えないほどの美少女だ。子供特有の遠慮のない視線が愛らしく、エディットは手を振ってみることにした。

 すると女の子はにっこりと微笑んで、手を振り返してくれたではないか。


「可愛い……!」


「あれっ、メランデル軍医少尉?」


 歓声を上げたところで声を掛けられた。正面から聞こえた声が誰のものなのか分からなかったエディットだが、視野を広げてみると女の子を抱いていた父親と目線が合う。

 ウルリク・マットソン中佐だった。エディットは驚いて、あっと声を上げた。


「マットソン中佐殿!」


「こんばんは。素敵な装いだな」


 マットソンもまた第一種軍装で装っており、端整な面立ちに良く似合っていた。

 どうやらエディットはマットソンの娘と知らずに夢中になっていたらしい。自身の失態に気が付いて、頬がまたしても熱くなった。


「私ったら……! 気付きもせずに申し訳ありません!」


「そんなの全然構わないって。うちの子可愛いだろ〜?」


 マットソンが上機嫌で娘自慢をするので、エディットは同意しつつも微笑んだ。するとロルフも状況に気付き、振り返ってエディットにシャンパンのグラスを手渡してくれる。


「マットソン中佐か」


「はい、大佐殿。良い夜ですね」


「ああ。お嬢さんとは初めてお目にかかるな」


 ロルフの表情が穏やかだったので、エディットとマットソンは思わず目を見合わせてしまった。

 二人が意外そうにしている原因に気付いたのか、ロルフは苦虫を噛み潰したような顔をしている。


「俺はそもそも子供まで威嚇したりはしない。接したことは殆ど無いがな」


 なるほど子供ともなれば女嫌いの範疇には含まれないということか。しかも女嫌いが改善された今、既に威嚇する理由なんてどこにもないのだった。

 エディットは微笑ましい思いがした。甥とは仲が良さそうで、ヴィクトルとも上手くやっているようだから、元来面倒見の良いロルフは子供と相性がいいのかもしれない。


 マットソンは苦笑してすみませんと謝ると、柔らかい手つきで娘を抱え直した。


「ご紹介します、娘のモニカです! よしモニカ、挨拶して。はい、こんばんは」


 モニカはしばらくの間じっとエディットとロルフを交互に見つめていたが、やがてにっこりと微笑んだ。


「ばんわ!」


 エディットは危うく黄色い悲鳴を上げるところだった。可愛いと口に出すだけで何とか我慢したものの、それでも自身の顔が溶けていくのが解った。

 控え目に言って天使だ。これはマットソンがデレデレになるのも頷ける。


「モニカちゃんこんばんは! 私、エディットっていうの。よろしくね?」


「エディ、ちゃ!」


「モニカちゃん上手! エディちゃって呼んでね!」


 つい声が弾むのも仕方のないことだと思う。そっと手を差し出してみると人差し指を握られて、エディットは想像よりも力強い感触に舞い上がった。

 すると横で見ていたロルフもすっと手を差し出してくる。彼はやはり穏やかに微笑んでいて、今度のエディットはロルフに見惚れてしまった。


「こんばんは、俺はロルフという。君のパパの仕事仲間だ」


 モニカは差し出された手を恐れることなく握った。子供らしい笑みを浮かべて、じっとロルフを見上げた末に口を開く。


「……おるう!」


「モニカ、呼び捨ては駄目だよ! この方はパパの尊敬する人なんだ、わかるかい?」


 愛娘の大胆な呼び捨てに焦ったのはマットソンだった。その慌て様と反比例するように落ち着いた様子で首を傾げるモニカがおかしくて、エディットはつい吹き出してしまったのだが、それはロルフも同じだった。


 二人があまりにも楽しそうに笑うので、最初は面食らっていたマットソンもすぐに笑い始めた。その和やかな空気は周囲の者を振り返らせるに至り、珍しくも鉄壁の英雄が笑顔を見せていることに驚きを隠しきれない者も多かったのだが、エディット達は気が付いていなかった。


「楽しそう。何のお話?」


 突如として透き通るような声が聞こえ、三人は声の主をそれぞれ振り返った。

 そこには絶世の美女が無表情のまま立っていた。まことあまりにも美しい女性だったので、エディットは思わず唖然としてしまった。


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