3 なぜこんな状況に……?
約束の土曜日は快晴だった。積雪はあったが、暖かくなってきたお陰で日陰に残る程度で留まっている。
薄暗い映画館を出ると春めいた日差しが視界を白く染めたので、エディットは思わず目を閉じた。再び開けば作品の余韻によって華やいだ人達の波が視界に飛び込んできて、尚も眩しく感じられた。
「発声映画は初めてでしたが、凄かったですね。喜劇王フランクの声が聞けるだなんて考えもしませんでした」
発声映画というものが広く知られるようになったのはつい最近のことだ。
エディットは無声映画しか観たことがなかったのだが、今回ですっかり気に入ってしまった。舞台でもないのに役者の声を聞くことができるのだから、人気が出るのも頷ける。
「……フランクが好きなのか」
しかし高揚するエディットを横目に、ロルフはいつもの厳格な眼差しを緩めることはなかった。
むしろ一割増しで憮然として見えるのだが、気のせいなのだろうか。
「はい、とっても面白いですよね。芸達者な役者さんだと思います」
喜劇王フランクというのは、世界的に大人気の銀幕のスターである。
老若男女の別無くフランクを嫌う者などいないだろうし、エディットもまた無声映画の頃から観ては人並みに楽しませてもらっている。
「ああいう、陽気で愉快で面白い奴が良いのか」
「ええ、そうですね。シリアスな題材よりは、コメディの方が好きなので」
「……そうか」
ロルフはいつにも増して口数が少なかった。もしかすると楽しめなかったのかもしれない。
「あまり面白くなかったですか?」
残念だと思う気持ちを押し隠して微笑むと、ロルフは俄にこちらに振り向いて言った。
「いや、面白かった、とても! 演説のシーンなど最高だったと思うぞ!」
「ああ、あのシーンは良かったですね。私なんてお腹を抱えて笑ってしまいました」
映画のハイライトと言えるシーンが話題に上ったあたり、どうやら本当に楽しんでいたようだ。ロルフは生真面目が服を着て歩いているような人なので、気楽なコメディは性に合わなかったのかと思った。
「エディット。休憩したら商店街に行くぞ」
安堵の息を吐いていると唐突な提案がなされたので、エディットは大きく瞬きをした。
はて、何か買い物の予定でもあるのだろうか。もちろん自身としてはやぶさかではないので、すぐに頷いておくことにする。
「わかりました。商店街ですね」
「うむ。では行くか」
ロルフは無表情で頷いて歩き出した。紺色のコートを着込んだ背中を見上げて、エディットもまた後を追う。
——何か気になるお菓子のお店でもあるのかな。楽しみ。
呑気な考えはすぐに覆されることになるのだが、この時のエディットは知る由もなかった。
*
「まあまあ、とっても良くお似合いですわお客様! さあさあ、鏡の前でご覧になって下さいまし!」
女性店員によって試着室から引っ張り出されたエディットは、何が何だかわからないまま鏡の前に立った。
磨き上げられた鏡面の向こう側では、見たこともないような綺麗なドレスを身に纏った自分が居心地悪そうにしている。シルクをふんだんに使ったダスティピンクのドレスは確かに美しいのだが、いかんせん肝心の顔が引き攣っているのだから台無しだった。
「如何でございますか⁉︎ 可憐なお客様の魅力を存分に引き立てているかと存じますわ!」
「え、ええと、その……何だか素敵すぎるというか、何というか……」
「ええ、ええ、迷われるのもよくわかります! お客様ほどお可愛らしい方なら何でもお似合いですもの、他にもどんどんご試着なさって下さいませね!」
赤縁眼鏡をかけた女性店員が鼻息も荒く次のドレスを掲げ持って見せたので、エディットは更に顔を引き攣らせるしかなかった。
ここは王都でも一番の老舗洋品店だ。磨き抜かれた調度品に絨毯敷きの店内には、見るだけで心躍るような品物が並んでいる。
昼食を食べた後、ロルフによって連れてこられたのがここだった。「そっか、大佐殿は服を買われるのね」などとのんびり構えていたら、あれよあれよという間に試着室に連行されて現在に至る。
「旦那様も、そんなに遠くにいらっしゃらないで、お近くでご覧くださいな!」
店員がロルフに対してとんでもない呼びかけ方をするので、エディットは蒼白になった。
まず旦那様ではないし、ロルフは女性が苦手だからこの華やかな空間を不快に感じているはずだし、そもそも何故こんなことになっているのかわからないというのに。
一歩離れたところで成り行きを見守っていたロルフがちらりとこちらを見る。相変わらずの仏頂面に、店員の言うような好意的な感想を抱いていないことが知れた。
「旦那ではない。適当なことを言うのはやめて貰いたい」
「まあ、これは失礼いたしました! では、彼氏さんですね」
硬い表情での訂正は並の人間なら震え上がりそうなほどの圧を孕んでいたのだが、驚くべきことにこの店員には少しも効かなかった。怯むどころか笑顔で切り返されてしまい、さしものロルフも言葉に詰まったようだ。
「本当にお似合いのお二人ですわあ! ドレスアップしてお並びになったらさぞ素敵でしょうねえ。お客様は礼服のお仕立てはお考えではありませんの?」
「……持っているから必要ないんだ」
「そうでしたか、それは残念ですわ」
店員は眉を下げたものの、すぐに気を取り直したらしかった。エディットの背中に手を当ててきたかと思ったら、気付いた時には前に押し出されてしまう。
「どうです? とってもお綺麗でしょう!」
ロルフはこちらに歩み寄ってきていたので、思ったよりも至近距離で目が合った。
灰色の瞳が語るものが読み取れず、今更ながら柔らかい布地が心許なく感じられた。普段は襟の詰まった服ばかり着ているために、鎖骨が出ている程度の露出が気になって仕方がない。
「あ、あの、たい」
「駄目だ」
何を言おうとしたわけでもなく口を開いたところで、真一文字に結ばれた唇が否定を述べた。
どうやら似合わないと言われたらしい。エディットは悲しいと思うよりも早く、まずは心の奥底で安堵した。
——そうよね。だって、私は魔術医務官なんだもの。
白衣を着て病院を駆けずり回っているのが本来の姿で、ロルフと初めて会った時など化粧もままならないほどボロボロだった。
こんな綺麗なドレスが似合うはずがない。
何故ここに来たのかは謎のままだが、とにかく店員に謝って帰るべきだ。
「こんな露出の多いドレスはけしからん。非常に似合うが注目を集めすぎるし、何より肩が冷えるから駄目だ。別のものを用意してくれ」
しかし決意を帯びて顔を上げたところで、ロルフが真顔でおかしなことを言い出したので勢いを失ってしまった。
店員も困惑したらしく、言いにくそうに首を傾げている。
「は、はあ。恐れ入りますが、お客様。これくらいの襟元ならむしろ控えめな方でございまして……」
「なんだと、これでか? 肩が冷えると内臓が冷える。これではいざというとき真っ先に命を落とすではないか」
ロルフは信じられないと言外に吐き捨てて、今度はエディットの首元に自身のマフラーを巻き付けてきた。
この人はドレスアップした姿で遭難するつもりなのだろうか。エディットはますます困惑したが、体温を残した紺色のウールが優しく感じられて、いつの間にか体が冷えていたことを知る。
「でしたら! ショールなどを組み合わせて頂くのがおすすめですわ」
店員はとことんまで商魂たくましいようだ。ドレスに加えてたっぷりとした毛皮を取り出してきたのを見て、エディットはこの状況のまずさを思い出した。
「ふむ、毛皮のショールか。確かにこれがあれば野営すら可能かもしれん」
ロルフは満足げにしているが、本当に意味がわからない。
ただ一つ確かなのは、自分の財布には高級店でドレス一式を揃える余裕がないということだ。
「あ、あのっ……! 私、ドレスだなんて」
「エディット、何か気に入ったものはないのか」
またしても勢いを削がれてしまい、エディットは言葉に詰まった。
ロルフの灰色の眼差しが優しかったから、何も言えなかったのだ。
「気に入ったものだなんて、そんな。全部素敵、ですので……」
「そうか。そういうことなら、今着ているものにしよう」
「へ?」
あまりのことにぽかんと口を開けたエディットをよそに、店員が「ありがとうございますう!」と甲高い声を上げた。
それからは口を挟む余地のない強固な流れで会計が為され、ロルフは靴や鞄まで含めたドレス一式を買い上げてしまったのである。




