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2 平和なすれ違い

 医務室の当番は相変わらず忙しいものの、近頃ではすっかり慣れてしまった。


 傷の治療を繰り返しているうちに、いつの間にか就業時間を迎えていた。集中を途切れさせて顔を上げたエディットは、ちょうどやってきた同僚と目を合わせた。


「やあ、メランデル軍医少尉。調子はどう?」


 爽やかな笑顔で現れたのは、戦場で出会って以来の顔見知りであるマルク・オデアン軍医少尉だ。


 歳はおそらく二十代半ば。癖のある栗色の髪と甘く整った顔立ちが、白衣の白によって更に輝いて見える。

 綺麗な顔をしている上に軍医である彼は、柔和そうな青い瞳に見つめられると皆彼のことを好きになってしまうと評判で、抜群に女性にモテると聞く。


「お疲れ様です、オデアン軍医少尉。お陰様で随分と慣れて参りました」


「そうか、それは良かった。僕たちも魔術医務官の皆さんが来てくれて本当に助かっているよ」


 立ち上がって挨拶をするときらきらとした笑みが返ってきた。


 オデアンはエディットのような新参者にもよく話しかけてくれる。優秀で社交性まで兼ね備えているともなれば軍医の中でもエースと言えるのだが、実のところエディットは少しだけ彼のことが苦手だった。


 女性にモテるオデアンは、当然ながら彼自身も女性に慣れているらしく、何となく距離が近いのだ。

 何が面白いのか場所と時間を問わずに長話が始まるので、エディットはそれとなく会話を終わらせるのにいつも苦労している。


「ところで、僕の患者のカルテを取りに来たんだけど良いかな?」


「はい、どなたのでしょうか」


 名前を聞いた上でカルテを探す。目当ての品を見つけてオデアンに渡すと、またしてもやたらと甘い笑みが返ってきた。


「ありがとう、助かるよ!」


 エディットはしばし圧倒される思いがした。

 美形の笑顔はどうにも慣れない。いや、周囲の人たちは皆それぞれ格好いいのだが、何せこの一年でもっとも深く関わった相手がいつも仏頂面なのだ。


「ねえ、メランデル軍医少尉。実は僕、今度の昇級試験に合格して軍医中尉に任ぜられることになったんだ」


 オデアンはキラキラとした笑顔を振り撒き、髪をかき上げながら言った。

 確か彼の経歴は国立大の医学部を卒業してすぐに陸軍に志願、軍医少尉に任ぜられるというものだ。未だ年若い彼の昇級はとても凄いことであり、エディットは気圧されつつも感嘆の声を上げた。


「それはおめでとうございます、オデアン軍医中尉殿。凄いのですね」


「やだなあ、よしてくれよ。別に凄くもないし、君によそよそしくされるのは寂しいからさ」


「え? は、はあ……」


 彼は恐縮したようなことを言うが、それならばなぜ自ら昇級を申告してきたのだろうか。出向中の身とはいえ、軍の厳しい上下関係には忠実に服さなければならないのだが。


「それに軍医は実家の大病院を継ぐまでの研修みたいなもので、こんな危険な仕事を長く続ける気はないし。このご時世、国のために働いておくのも悪く無いからね」


 この時初めてオデアンの笑みに打算を見たような気がして、エディットは心の中で眉を顰めた。


 此度の戦で軍医としての彼の名声は高まり、実家の大病院とやらにも様々な恩恵が受けられることだろう。更には陸軍内にパイプもできたはずだから、何かと役に立つに違いない。


 だがこの物言いは如何なものかと思ってしまう。彼が危険を冒し努力を重ねて掴み取ったものなのだから否定するつもりはないが、まるで軍医が腰掛けみたいな言い方だ。


 病院の医者も軍医も、それぞれ立派で大切な仕事だと言うのに。


「……そうですか。ご立派ですね」


 エディットがもやっとした心中を押し殺して笑ったのを、オデアンはどう思ったのだろうか。


「はは、ありがとう! それでさ、メランデル軍医少尉。今度軍の年度末パーティがあるだろう? 良かったら僕にエスコートさせてもらえないかな」


 断られるはずがないという自信に満ちた誘いに、エディットは一番の笑顔を返してやった。


「お誘いありがとうございます。ですが、参加するつもりはないのです。申し訳ありません」


「え」


 オデアンは間抜けな声をあげて一時停止した様だった。


 年度末パーティというものがあることは知っていたし、全員が幹部階級である魔術軍医ならば誰でも参加する権利がある。楽しみにしている先輩方も多いようだったが、エディットは社交の場が得意ではないので、上司に命令されない限りは参加するつもりはなかった。


「ええと……どうしても、無理……?」


「はい、申し訳ありません」


「そ、そう……」


 オデアンは意気消沈とばかりに肩を落とした。あまりにも落ち込んだ様子に何かを言うべきかと口を開きかけたところで、更なる来客があった。


「邪魔するぞ」


 待合室とを隔てるカーテンを潜って現れたのは、ロルフ・ダールベック大佐だった。

 エディットは返事ができないほど驚いたのだが、オデアンはどうやら驚きと共に恐怖まで覚えたらしい。すっかり青ざめて早口で挨拶を述べると、脱兎の如き勢いで医務室を出て行ってしまった。


「大佐殿、如何なさいましたか」


「すまない。今の話、少し聞こえてしまった」


 そして正直に事の次第を述べたロルフは、いつになく暗い顔をしているように見えた。エディットは嫌な予感を覚えて、恐る恐る疑問を口にした。


「それは、どこからですか?」


「年度末パーティのあたりからだ。……いつもあんな風に、誘われているのか」


 語尾を上げることなく問いかけられたあたり、かなりの確証を持ったに違いない。

 これはもしかして物凄くよくない誤解をされてしまっているのでは。そう考え付いたエディットは思わず前のめりになった。


「いいえ、そんな! こんなことは初めてです!」


 実のところ白衣の天使を尊ぶあまりに誰も声をかけられなかっただけなのだが、その事実をエディットは知らない。

 一番大事な相手に誤解されたという状況に、焦りのあまり涙が滲んだ。

 最悪だ。ロルフが何を最も嫌悪するかといえば、不誠実な人間そのものだというのに。


「ほ、本当に、初めてなんです。私、ちゃんと、断って」


 何とか言い募ろうとしたところで、強い力で肩を引き寄せられた。

 固い腕の中に閉じ込められて、エディットはしばしの間目を白黒させてしまった。


「すまない、違うんだ。エディットのことを疑ったりはしない。ただ、心配になっただけだ」


 話す声が振動になって伝わってくる。更には心臓の音が耳元で聞こえることに気付いたエディットは、ようやく状況を理解して一気に赤面した。


「悪いことを言った。どうかそんな顔をしないでくれ」


 動揺のあまり言われた内容がなかなか頭に入ってこない。あのロルフが、まさか職場でこんなことをするなんて。

 抱きしめられたのはダールベック家での騒動以来の二回目だ。もう大丈夫だとでも言って離れなければならないのに、息が止まって何も答えることができない。


「……エディット?」


 無反応を訝ったロルフが顔を覗き込んできたことによって、エディットはすぐさま解放された。

 真っ赤になった顔のせいで、ただひたすらに緊張していたことがバレたらしい。ちらりと視線だけ上へと向ければ、ロルフもすっかり赤くなっている。


「その、失礼した。こんなところで」


「い、いいえっ……」


 慌てて首を横に振ると、ロルフは灰色の双眸を安堵に緩めたようだった。

 エディットは時折見せてくれる彼の優しい表情が好きだ。想いを通じ合わせてからは、そう思うことに躊躇いを感じなくていいことが嬉しかった。


「聞きたいのだが、年度末パーティには本当に参加しないのか」


「はい、絶対に参加しません! 誰に誘われたって、断ります!」


 やけに真剣な眼差しで問いかけられたので、エディットは自信満々の顔をして力一杯頷いた。

 遊びに行くだけなら誰とでもいいと考える女性も中にはいるのかもしれないが、エディットは違う。ロルフのエスコート以外でパーティに参加するなんて、あり得ないことだ。


「……そうか。わかった」


 ロルフは無表情で頷いた。この時の彼の顔には隠しきれない悲哀が滲み出ていたのだが、理解を得た安堵に包まれていたエディットは小さな差異を見逃した。


「ところで、大佐殿。何かご用事がおありでしたか」


「あ、ああ、いや。大した話ではないんだが……」


 当たり前のことを聞いたつもりが、ロルフは珍しくも言い淀んで目線を逸らした。

 エディットは不思議に思って首を傾げつつ、話の続きを待った。そうしてもたらされたのは、どこか観念した響きのある誘い文句だった。


「今度の土曜日、発声映画(トーキー)でも観に行かないか」


発声映画(トーキー)ですか⁉︎」


 エディットは思わず目を輝かせた。なるほど終業後とはいえ職場でしていい話題ではないから、真面目な彼が躊躇うのも頷ける。

 忙しいロルフとはそう毎週末会える訳ではないので、こうした誘いにはいつも過剰に嬉しくなってしまう。


「行きたいです!」


「ならば行こう。集合地点は大噴水前、時間は一〇〇〇(ヒトマルマルマル)だ」


「承知しました、大佐殿!」


 この軍隊式の言い回しにもすっかり慣れてしまった。エディットが思わず敬礼すると、ロルフは少しだけ笑ったように見えた。


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