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30 許せない

 訳のわからないことを言われたなりに、エディットは冷たいものが背筋を滑り落ちるのを感じた。

 人を値踏みすることしか考えていない者特有の冷たい瞳だ。ロルフの灰色とは全然違う。


「あなたは、一体……」


「自己紹介がまだだったね。私はロルフの父親で、フィリップ・ダールベックという」


 頭の片隅に抱いた予感を、そのまま全肯定されてしまった。


 エディットは驚きのあまり目を見開く。何よりもわけがわからないのは、なぜロルフの父親がこんな暴挙に出なければならないのかということだ。


「君は知らなかっただろうが、ロルフは爵位を継がせると言っているのに頑として頷いてくれなくてね。強硬手段を取る事にしたんだよ」


「爵位……? まさかそのために、私をここまで連れてきたのですか」


「ああ。君の命がかかっていると知れば、あれも大人しく従うだろう」


 フィリップは一見柔和に微笑んでいるが、その笑顔からはまったく温かみを感じなかった。

 それも当然だ。彼の言い分は完全にロルフの考えを無視し、エディットを人間として捉えていないものなのだから。


「なあ、君もロルフが爵位持ちであってくれたほうが都合がいいだろう?」


 何を言っているのか理解できずに沈黙を返すが、フィリップは尚も調子良く喋り続ける。


「あれを恋人にした理由は顔か? それとも地位と名声……ああ、金かな?」


「な……っ! 何を、言って」


 とんでもない誤解をされていたことを理解して、エディットは顔を赤くした。


 何をまかり間違ったのか知らないが、ロルフと付き合っているだなんて彼に失礼だ。何よりもそんな上部だけの事柄でしか息子を語れないだなんて、この男は何を見てきたのだろうか。


「君から息子を説得してくれないか。もし説得に成功したら、結婚を許してやろう」


「……は?」


「平民の君が一気に伯爵夫人だ、一生遊んで暮らせるぞ。どうだね、悪い話ではなかろう」


 フィリップは断られるはずがないという自信に満ちた笑みを浮かべていた。

 その表情を見つめていたらふつふつと怒りが湧いてきて、エディットは縛られた両腕を握りしめた。


 ——本当になんなの、この人……!


 ロルフには申し訳ないが、こういうのをまさに下衆というのではないだろうか。


 息子のことを自身の道具だとしか思っていない。エディットを恋人だと勘違いしたことだけは笑えるが、それ以外は冗談にもならない発言だ。


「……馬鹿にしないでください」


 怒りのあまり声が震えてしまい、フィリップが聞き取れずに首を傾げている。エディットは大きく息を吸うと、同じ意味の言葉を叩きつける事にした。


「大佐殿のことを、これ以上侮辱したら許さない……!」


 感情が昂るあまりに視界が滲んだ。ロルフに爵位を継ぐ気がない理由がわかるような気がして、実の息子に悲壮な決断をさせるほどの痛みを与えたこの男のことが許せなかった。

 決死の思いで睨みつけると、フィリップの目がすっと冷えた。小さく舌打ちをして苦々しげに睨み返してくる。


「頭の悪い女だな。まあいい、お前を材料にあれを脅せば済む話だ」


「なっ……! やめてください! どうして自分の子供を脅すようなことができるの⁉︎」


 エディットは顔色をなくして声を上げる。


 もしそんなことになれば、ロルフは自身の家の事情に他人を巻き込んだことを悔い、人質の命を守ろうとするだろう。それが誰であっても関係ない。何せ国を守った人なのだから。


「少しは大人しくしろ。この状況で喚き散らすことが、どれほど愚かな振る舞いなのかわからないのか」


 フィリップの腕が伸びてきて胸ぐらを掴み上げる。そのままの勢いで立たされると首が締まって声が出なくなったが、エディットはそれでも必死で冷徹な無表情を睨み上げた。


 ああ、本当に似ている。けれど全く違う人だ。


 この家で育ったロルフの過去が、ほんの少しだけ垣間見えた気がした。女嫌いの英雄。何の根拠もないのに、その原因がこの場所にあるのだろうと確信する。


「最低、の、人でなし……手を、離して……!」


 息苦しさを意に返さずに罵る言葉を口にすると、フィリップが不愉快そうに目を細める。無造作に振り上げられた手を悔しい思いで睨みつけた、その時のこと。


 何の前触れもなくドアが開け放たれる。

 四角く切り取られた廊下を背景に立っていたのは、今まさに考えていた人だった。


 ロルフはエディットと視線を交わらせるなり驚いたように目を丸くして、すぐにその表情を憤怒に塗り替えた。目にも止まらぬ速さで地面を蹴ったかと思うと、瞬きの間にフィリップへと肉薄する。


 歴戦の軍人の判断は追いつけないほどに迅速で、エディットはずっと呆けていることしかできなかった。


 まずは黒いセーターを着た肘がフィリップの顎に直撃した。人の急所を狙うことだけを目的とした近接格闘術。この一撃だけで平衡感覚を失ったようで、エディットを掴み上げていた手が呆気なく力を無くす。


 ロルフはその隙を逃さずにフィリップの腕を取ってエディットから引き剥がすと、足を使って相手の体幹を崩し、そのまま地面へと引き倒してしまった。人が地面に落ちた重い音と、くぐもった呻き声が響く。


「……こんなに弱かったのか」


 父親をうつ伏せにして両腕を捻り上げた格好で、ロルフは苦々しく吐き捨てた。

 あまりのことに呆然と立ったままになっていたエディットは、場違いにもこう思った。


 ——熊でも倒せるのでは?


 ロルフはフィリップがすっかり気絶していることに気付いて舌打ちをした。そして唐突に立ち上がってエディットの方を振り向くと、怖い顔をしてずんずんと歩み寄ってくる。

 威圧感に負けて一歩後ずさったエディットは、次の瞬間、ロルフに肩を鷲掴みにされた。


「無事か⁉︎」


「……え?」


「だから、無事かと聞いているんだ! 怪我は? あのろくでなしに何もされなかったか⁉︎」


 ろくでなしと呼んだのが彼の父親のことだと気付いて、エディットはこくりと頷いた。殴られる寸前だったところを、ロルフが助けてくれたお陰で事なきを得たのだ。


「良かった……!」


 そんなはずないと解っているのに、そう言った彼の表情は泣きそうに歪んでいるように見えた。ぼんやりとしているうちに灰色の双眸が揺れて、逞しい腕の中に閉じ込められてしまう。

 黒いセーターに彼の高い体温が染みていた。夢でも見ているように現実感がなくて、エディットは瞬き一つできないままその温かさを享受していたのだった。


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