21 この違和感はどこから
ロルフがそれに気付いたのは、ある日の食堂でのことだった。
軍務省の食堂ではAとBの2種類からランチが選べるのだが、今日のところはAのポークソテーを選んでトレーに乗せ、その他付け合わせを取ってから会計を済ませようとした。
この瞬間はいつも少しだけ緊張する。食堂のスタッフは多くが女性であり、それが例え人の良さそうな恰幅の良いおばちゃんであっても苦手なのは変わらない。
なるべく触れないようにして札を渡し、釣り銭を受け取る。そこで妙な違和感に気付いたロルフは、眉をしかめて動きを止めてしまった。
——何だ? いつもより嫌悪感が少ない、ような。
本来なら鳥肌が立つはずなのに、今日はそれが起きなかった。これは一体どうしたことだろうか。
「大佐殿、どうかなさいましたか」
背後から怪訝そうな声が聞こえて、ロルフはようやく正気を取り戻した。
振り返れば共に食堂へとやってきたマットソンがトレーを手に首を傾げている。ロルフは曖昧に誤魔化してその場を離れた。
喧騒を掻き分けて席に着いて待っていると、すぐにマットソンも追いついてくる。二人は食事をとりながら、最初は仕事についての雑談をしていたのだが、話はいつの間にかマットソンの私生活へと移り変わっていた。
「実はうちの娘のことなのですが、どうやら戦地に行っている間にすっかり俺のことを忘れていたようで、他人が家に入ってきたみたいな目で見てくるんです。
もう俺辛くって。奥さんはすぐに慣れるわよって言ってくれるんですけど、本当かなって思うんですよね……」
頭を抱えながらの悲痛な語りは延々と続く。
あの透明な目、俺のことをどうでもいいと思っていた頃の奥さんにそっくりなんですよ。一歳の誕生日を祝えなかったせいでしょうか。いくらなんでも反抗期には早すぎるでしょ? 一生このままだったらどうしよう……うんぬんかんぬん。
マットソンの切々とした訴えは、しかしながらロルフの頭の中を素通りした。先程の違和感がどうにも気になっていたのだ。
今まではこんなことなど一度もなかった。エディット以外の女性と接する時、実のところ必ず鳥肌が立つ。接触しない限りは耐えられるが、それでも身のうちから湧き上がる嫌悪感ばかりはどうしようもなかったはずなのに。
「俺だって抱っことかしたいんです! この想い、どうしたら良いんですか!」
「……子供の扱いなど、俺が知るわけないだろうが。もう少し落ち着いたらどうなんだ」
ため息まじりに言葉を返すと、マットソンはわかりやすく肩を落としてトマト煮込みを食べ始めた。
随分と気の毒な状況ではあるものの、こうして家族のことに必死になる姿はある意味羨ましい気もする。
——まて、羨ましいとはなんだ。
そんなことを思ったのも初めてだ。今まではいくら幸せそうな家族の姿を見ようとも、女に対して嫌悪感しかない自分には関係ないとしか思えなかったはず。
それからのロルフはほとんど上の空で昼食を終えた。
だがこの時の違和感は気のせいなどでは済まされず、次の日も、そのまた次の日も続いたのである。
売店の女性店員から新聞を買っても鳥肌が立たない。
女にぶつかられても睨みつける気が起きない。
威嚇したいと思わない。
相変わらず女など話す気も起きないし、父の後妻であるあの女のようなタイプは心底嫌いだ。その意識は変わることなどないのに、不思議と防御反応がどんどん緩和されていくのを感じる。
ここ1週間程の自分はおかしい。
屋敷の自室へと戻ってきたロルフは、着替えもしないまま窓枠に腰を据えた。以前は落ち着かない時こそ煙草を吸っていたのだが、エディットが苦手だと知って以来吸う気になれないのは何故なのだろう。
「くそっ、何なんだ……」
無意味な悪態をついたときのことだった。視界に艶やかな赤が入り込んで、ロルフはその色から目を離せなくなった。
マリアから貰った林檎だ。無害であることを確認したあの晩から2、3日に1回食べ続け、いつの間にか残り1個になっている。
——まさか。
一つの可能性に思い至ったロルフは、軍服の上にコートを羽織り直して屋敷を飛び出した。
「おい、ヨアキム! お前、林檎に何か仕掛けをしたんだろう!」
夕飯時の姉夫婦の家に押し入ったロルフは、書斎で本を読んでいたヨアキムに怒涛の勢いで詰め寄った。
ヨアキムが回転チェアに座ったままくるりとこちらを振り向くと、束ねた茶髪が風にそよぐ。恐ろしい顔をした軍人に怯むこともなく、変態魔術師はへらりと笑って見せた。
「いきなりやって来て一体何を言ってんのかね? まあ夕飯でも食べてけよ」
「はぐらかすのはやめろ! 俺は確信を持ってここに来たんだ、真実を話すまで絶対に引かんぞ!」
ロルフはヨアキムの胸ぐらを掴み上げたが、結局のところ力を入れることはできなかった。
何故なら、今回の現象がこのいかれ魔術師のせいだとして、何一つとして酷いことなど起きていないからだ。
そもそもエディットと共に女だらけの店に入った時も、近頃はあまり嫌悪感を感じなかった。特訓の成果とエディットが共に居てくれたお陰かと思っていたのだが、よく考えてみれば長年のトラウマを解消したにしてはあまりにも時間がかからなかったように思う。
つまりは特訓にプラスして、この林檎に薬が盛られていたのだとしたら。
ヨアキムはじっとこちらを見つめていたのだが、ロルフの灰色の目に困惑しか浮かんでいないことに気付いたらしい。冷静な動作で胸ぐらを掴んだ腕を外させると、苦笑混じりのため息を吐いた。
「気付くのが早いねえ」
「お……っ、まえ」
まあ掛けろよとヨアキムは言った。その表情に本気を見てとって、ロルフは呆然とした面持ちのまま、勧められた踏み台に腰掛ける。
「結論から言えば大正解だ。あの林檎には、トラウマを緩和する薬を打っておいたんだ」




