17 初日から遭遇するなんて
出向の辞令は短期間で実行に移されることになった。
魔術軍医部は以前から設立が決まっていた軍の新部署だ。陸軍病院の拡張と戦争の近代化に伴って人手が足りなくなり、軍でも治癒の魔術が扱える者を採用しようという流れになったらしい。
出向の期間は魔術軍医部が安定するまでのおよそ一年半で、メンバーは前線の経験があるベテランばかり。新人が育つまで先頭に立って組織づくりの中核を担うのが、エディットに課された仕事というわけだ。
——荷が重過ぎないかな……?
そろそろ秋も終盤を迎えつつある現在、エディットは軍務省の堅牢な門の前に立っている。あれよあれよという間に出向初日を迎えてしまい、どうにも緊張が勝って動くことができない。
本当にどうしてこんなことに。エディットは確かに魔力量が多いがまだ三年目のひよっこであり、いきなり配置替えだなんてあまりにも酷だ。
ふと顔を上げると、門番を務める軍人が怪訝そうにこちらを窺っていた。通り過ぎる男たちも皆一様に一瞥してくるのは、こんなところに立ち尽くしていては邪魔だからだろう。
初日から見知らぬ人に迷惑をかけるわけにもいかなかったので、覚悟を決めて歩き出した。
セーターとスカートの上に白衣を羽織ったエディットは、まずはユングストレーム大将の執務室の扉を叩いた。開けてくれたのは副官らしい軍服の男で、中央の重厚な作りの応接セットにこの部屋の主が腰を据えていた。
「ああ、よく来てくれたね。お掛けなさい」
「はい。失礼いたします」
エディットは勧められるのを待って対面に腰掛けた。
軍服を着ていなければ、誰もこの老人のことを軍総司令官だとは思わないだろう。体格は小柄で華奢、白い口髭を蓄えて微笑むユングストレームは、まさに優しいおじいちゃんと言った風体である。
「メランデル君は菓子は好きかね? 私は甘いものが好きでねえ、実は常日頃から常備しているんだ」
茶目っ気たっぷりに微笑んだユングストレームに、エディットもまた相好を崩した。
凄く偉い人なのに偉ぶらないのがこのお方の凄いところだ。実際に会うのはまだ二度目だが、いつだったかロルフもいたく尊敬している旨を語るほど。
しかし軍総司令官の部屋で菓子など頂戴しても良いものだろうか。エディットが困って視線を滑らせると、副官の男が小さく頷いた。どうやらありがたく受け取るようにということらしい。
「は、はい。甘いものは大好きです」
「おやおや、君もいける口と見える」
ユングストレームは副官に茶を入れるように指示を出した。エディットからすれば自分よりも目上の人物に茶を淹れさせるなどとんでもないことなのだが、状況的には仕方がないので黙って肩を縮めておくことにする。
「ユングストレーム大将閣下。この度は私を魔術軍医部にご推薦頂き誠にありがとうございました。ご期待に添えるよう、精一杯努めさせて頂きます」
そう、どんなに重荷だと感じても、努めなければ。
幸いエディットには頼れる先輩方がいる。自分は魔術医務官になって夢を叶えたのだから、今度は少しずつでも恩を返していくのだ。
直角に腰を折ってまた顔を上げると、対面に座るユングストレームは優しげに瞳を和ませていた。
「私はね、メランデル君。野戦病院での君の働きを見て、この子ならやってくれると思った。だから推薦したんだよ」
「大将閣下……」
「君みたいな志ある若者は貴重だ。頑張ってね」
まさかこんなにも嬉しい言葉をかけてもらえるとは思わなかった。
エディットは何だか胸が熱くなって、やっとの思いで頷いた。
「おお、茶が来たようだ。好きなだけ食べていきなさいね」
「ありがとうございます。頂きます」
供されたのはクッキーやマカロンなどの焼き菓子だった。見るからに美味しそうな品の数々に、エディットはつい目を輝かせてしまう。
「これはサリアンという店のものなんだよ。ダールベック君も気に入りでねえ」
サリアンとはこの間ロルフと行ったばかりの菓子店だ。もしかすると、ロルフはユングストレームからこの店の存在を教えられたのかも知れない。
「彼のことも世話になったね。感謝しているよ」
「とんでもございません。私は私の仕事を果たしたまでですので」
ユングストレームは髭を蓄えた口でチョコクッキーを食べている。和んだ笑みを浮かべる様子は、退役軍人と言われた方がしっくりくるほど穏やかだった。
初日の午前は慌ただしく過ぎ、エディットは先輩たちと交代で昼食を取ることになった。
魔術軍医部に割り当てられた部屋に先輩たちが帰ってきたのを見て、比較的歳の近いマリが笑みを浮かべる。
「エディットさん、私たちも行きましょっか」
「はい、ご一緒させて下さい」
マリは機嫌よく立ち上がったのだが、その瞬間にリーダーであるカルロッタに声をかけられてしまった。
書類を指して冷静に指摘するカルロッタと、平謝りするマリ。どうやら以前に作成した書類に不備があったらしく、急ぎで取り掛からなければならないのことだ。
「マリさん、手伝いましょうか?」
「お昼にそんなこと頼めないわよ。一人にしちゃって申し訳ないけど、先に食べてきてね」
手伝いを申し出ると、からりとした笑顔とともに断られてしまった。罪悪感が募るけれど、マリがそう言うなら仕方がない。
天気も良く晴れ渡った午後、エディットは屋内で食べてしまうのは勿体無いと考えた末、人気の少なそうな場所を探すことにした。
少し歩いたところに人のいない裏庭があった。いくつか設えられたベンチの背後には丸く整えられた針葉樹が植えられていて、土の匂いが心地良い静かな場所だ。
雪国であるこの国の秋は短い。すでに落葉が本格的になりつつある中、きちんと着込んできたので特に寒さは感じなかった。
ベンチに腰掛けて巾着の中からサンドイッチを取り出す。今日のメニューはたまごサンドとハムサンド。パンにはきちんとバターを塗って、マッシュポテトも一緒に挟んでみた。
エディットは寮暮らしなのだが、土日と平日の昼食だけは自分で調達する必要があるので、基本的に自炊をしている。
灰色のウールコートを汚さないように気をつけながら一口かじりつくと、食べ慣れた味がした。慣れない環境で気を張っていたことに気付き、エディットはため息をついた。
孤独な昼食だ。昨日までレーネと楽しく食事をしていたことがもう懐かしい。
そして二つ持参したサンドイッチを食べ終わろうかという時のこと。どうしてか急に咳き込んでしまったエディットは、視界を揺蕩う紫煙の存在に気付いた。
誰か煙草を吸っているのだろうか。それにしては、周囲に人影はないけれど。
「けほ、けほっ……」
疑問に思って周りを見渡していると、先ほどよりも大きな咳が出てしまう。
実のところエディットは少しばかり肺が弱く、幼い頃から風邪をひくたびに喘息気味になるような体質なのだ。魔術医務官は自身の怪我をも治せるが、誰に対してであれ体質を改善することはできない。
どこから来た煙か知らないが、あまり咳を聴かせては失礼だから退席しよう。エディットが食べかけのサンドイッチを包み直そうとした時、背後の針葉樹ががさりと音を立てた。
「誰だ。……メランデル魔術医務官⁉︎」
丸く刈られた木々の間から顔を出したのは、なんと官給品の黒いウールコートを着たロルフだった。
指の間に煙草を挟んだまま、呆然とした様子で目を見開いている。エディットもまた彼以上に驚いてしまって、反射的に立ち上がった後は返事すらできなかった。
——挨拶に行こうとは思っていたけど、まさかこんなところで……!
視線を泳がせてみれば針葉樹の向こうにも同じようにベンチが並んでいる。気が付かなかっただけで、どうやら背中合わせに座っていたらしい。
「魔術軍医部に配属になったとは聞いていたが」
「は、はい。ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。本日より配属され……けほ、けほっ」
またしても咳をしてしまったエディットは、慌てて口元を手で押さえた。
煙草は紳士の嗜みだ。そもそも仮にでも軍属になった新人が、上官の行動にケチをつけて良いはずがない。
ちらりとロルフの顔色を伺ってみると、想像通り灰色の瞳が険しく細められていたので、エディットは身を縮めた。
「貴女は煙草が苦手なのか」
「え⁉︎ いいえ、平気です!」
しかし、かけられた言葉は想像のどんなものとも違っていた。反射的に否定を返せば、ロルフの視線はますます厳しくなる。
「嘘をついても為にならないぞ」
捕虜を相手にしたみたいな詰問口調だ。よっぽど機嫌を損ねてしまったのだろうか。
困惑を隠しきれずに瞬きをするエディットだが、凄まじい圧迫感を感じ取ってしまえばもう誤魔化す気にはなれなかった。
「実は、少しだけ。ですが大丈夫ですよ、野戦病院での暮らしで慣れましたから」
「……そうか」
あえて明るく言うとため息混じりの相槌が返ってきた。ロルフが側にあったスタンド灰皿に煙草を押し付けるので、エディットは目を丸くしてしまった。
「座れ」
「はい……?」
「いいから座れ。食事の続きをしろ、空腹のまま午後の任務に当たる気か」
低く唸るような声は不機嫌そうにしか聞こえないのに、エディットはもうちっとも気にならなかった。
大丈夫だと言ったのに、ロルフは心配して煙草を消してくれたのだ。わかりにくい人だけれど、やっぱり優しい。
「お気遣いありがとうございます」
「……何を言っているのかわからん」
礼を取ってからベンチに腰掛けて、乱暴な仕草で隣に腰を下ろしたロルフをちらりと見上げる。不機嫌そうに眉を顰めて腕と脚をそれぞれ組んでいるが、どうやら照れ隠しのようだ。
「メランデル魔術医務官、こちらでの仕事はどうだ」
「はい。まだご挨拶程度しかできておりませんが、精一杯努めようと思います。……あ、そうです、大佐殿。一つご報告が」
グレーの瞳だけがこちらを向いて、改まった意味を問いかけてくる。エディットは特に面白い話でもないのですがと前置きして、つい最近の決まり事について伝えることにした。
「こちらでの階級は軍医少尉となりました。軍医少尉エディット・メランデルであります!」
つい緊張して軍人口調になってしまったが気にしないことにする。
エディットは三等魔術医務官なのだが、二等魔術医務官になってようやく尉官相当の地位を有する。
つまり、出向が終わったときには二等魔術医務官として魔術省に戻ることになる。軍では尉官以上を幹部とするのだが、これはその程度の地位がなければ動きにくいだろうとの上の判断なのだ。
ロルフはようやくエディットの方を向くと、なんのてらいもない笑みを見せてくれた。
「そうか、実質的な昇級だな。おめでとう、メランデル軍医少尉」
こんな風に微笑んで祝福してもらえるとは思ってもみなかった。瞬く間に頬が熱を持ったのを感じて、エディットは誤魔化すように前を向いた。
「で、ですが、いろいろな幸運と、沢山の方のご厚意によるものでしかありませんので。もっともっと、精進しなければと」
「貴女は努力に伴う結果を残したのだから当然の評価だ。その謙虚な姿勢も含め、見事なものだと俺は思う」
「え……!」
あまりにも素直な賛辞にエディットは驚きの声を上げてしまったのだが、ロルフは特に気にならなかったらしい。真っ直ぐな眼差しを見ていられなくなって、エディットは自身の胸のあたりに手を置いて俯いた。
ああ、だめだ。やっぱり近付き過ぎたのだ。
特訓に付き添って、役に立てたのならそれで良かったのに。
こんなに嬉しいことを言われて、職場ですれ違うようになってしまっては、もう。
「……あの兵、貴女を見ていたようだな」
不意に低い声が聞こえて、エディットは再び顔を上げた。
すると離れたところに何人かの兵士が通りかかるところで、ロルフの視線を受けて敬礼を捧げている。
「あれは戦場で手当をした人たちです。お元気そうで本当に良かった」
「……ほう」
「ですが、私ではなく大佐殿を見ておられたのでしょう」
ロルフは兵士たち憧れの英雄だ。上官に敬礼を捧げるのは、軍人ならば当然のこと。
「それなら良いのだがな」
グレーの瞳が今日見た中でもっとも苛烈な輝きを宿していたので、エディットは首を捻った。
それならいい、とは一体どういう意味だったのだろうか。




