二人の距離
シェルビーはちょっとだけ首を傾げた。見間違いではない。
いつものように庭でルビーを待っていたが今日は一向にやってこなかった。いつまで待っても現れないので、お昼も食べずに庭から戻ってきたところだ。
一人でお昼を食べるのも面倒だと思いながら部屋に入れば、デヴォンがいた。どれぐらい待っていたのか、彼は長椅子に座って寛いでいる。
彼はシェルビーの姿を認めると、にこりとほほ笑んだ。
「ようやく戻ってきた。あと少しして戻らないようなら迎えに行こうと思っていた」
気安い様子で声を掛けられて、驚いてしまった。シェルビーは訳が分からないという顔をしながら、頭を下げる。
「お待たせして申し訳ありません。あの、今日はお茶会でしたか?」
「いいや。時間ができたので寄ってみただけだ」
「そうでしたか」
「迷惑だったかな?」
「そんなことはありませんが……」
いつもと様子の違うデヴォンにますます困惑した。いつもならもっと穏やかな表情でシェルビーに余所行きの顔を向ける。今日のデヴォンはその仮面をどこかに置き忘れていってしまったように表情が見て取れた。緊張しているのか、どこか落ち着きがなくそわそわしている。嫌な感じはないのだが、シェルビーもなんだか落ち着かない。
「あの、お昼、食べましたか?」
「そういえばまだだ」
「わたしも食べていないので、一緒にどうでしょうか? バスケットに用意されているものなので、申し訳ないのですけど」
そう言って手に持っていたバスケットを見せる。大きなバスケットの中身は今日のお昼だ。断られるかな、と思いつつもおまけでにこりと笑ってみた。デヴォンも気の抜けたような笑みを返すと、立ち上がってシェルビーの側に寄る。そして彼女の持っているバスケットを取り上げた。
シェルビーは彼の笑顔を見て呆気に取られていた。気の抜けた笑顔はどこか幼くて、とても可愛く見えた。
「天気がいい。折角だから庭で食べよう」
「殿下が笑顔。……可愛い」
思わずそんな言葉が零れてしまった。デヴォンはその言葉にさっと頬を赤くした。
「先に行くぞ」
照れた顔を隠すためなのか、デヴォンはさっさと歩き出してしまう。シェルビーは慌てて廊下に出た彼の後を追った。後ろからしか見えないが、耳の先も赤くなっている。
なんだかよくわからないが、恥ずかしいらしい。
今までとは少し違う態度に、シェルビーも自然と笑顔になった。嫌われていたと思っていたが、そうではないことがわかって心が弾んだ。嫌われているよりも好かれている方がいい。
少し浮かれながら、シェルビーは彼の後ろをついて行く。
大きな背中を見ていて、なんだか不思議な感じがした。接する機会が少なく、王太子という身分もあって、どこか遠くの人のように感じていた。だからもっと他人のように感じてもいいはずなのだが、何故か知っているような既視感がある。
「手を」
庭に出る扉の前で立ち止まると、彼はバスケットを持っていない方の手を差し出してきた。驚いて思わず彼を見上げる。
「その、放置していて悪かった」
ああ、そういうことか。
国王から何かしらの注意があったのだろう。
「お気になさらずに」
「これからはもう少し時間を作る。だから……」
続きの言葉はなかったが、優しく手を握られてなんだか嬉しくなった。初めて社交ではない態度のデヴォンと接して、シェルビーはその温かさをいつまでも感じていたかった。
「庭にテーブルと椅子がありますから、そちらに行きましょう」
先ほどまでルビーを待っていた場所に案内すれば、何も言わずにデヴォンもついてくる。黙っていることがむず痒く、シェルビーはどうでもいい天気の話や、花の話をしていた。それもついには途切れてしまった時、デヴォンが静かに口を開いた。
「ここが好きなのか?」
「ええ。お花も綺麗ですが、ここにいると開放感があるので」
「そうか。その、一人で寂しければ、妹……家族を呼んだらいい」
躊躇いがちに言われて、シェルビーは首を左右に振った。
「家族は呼びません。手紙で十分です」
余計に寂しくなるからとは言わなかった。言わなかったが、理解したのかデヴォンが申し訳ないような顔をする。シェルビーは慌てて笑顔を作った。
「その代わり、この庭にはわたしの友人がいるのです。今日は会えていませんが」
「友人?」
「ええ。白蛇なのですけど。天気のいい昼時になるといつもいるのです。とても大人しくて、可愛いですよ」
にこにこして説明すれば、デヴォンが変な顔をしている。彼の護衛もなんだか噴出しそうな顔をしていた。
「わたし、何か変なことを言いましたか?」
「いや。その蛇……友人?」
「そう思っています。彼女、大人しいです。白蛇なので、ウロコがきらきらしていてとても綺麗なの」
「彼女」
デヴォンが微妙な反応をしたので、シェルビーはもしかしたら蛇が苦手なのかもしれない可能性に気がついた。一般的に蛇が好きな女性はいないだろうから、変な女だと思われたかもしれない。
「時間も遅くなってしまいましたから、お昼にしましょう!」
話題を変えるためにデヴォンからバスケットを奪うと、侍女と共にテーブルの上に中身を広げた。肉や野菜が挟まった数種類のパンと果物、それから飲み物といった簡単なものだった。それでもデヴォンは嫌な顔をせずに、美味しそうに食べる。
「いつもここでお昼を?」
「晴れている時は大体。本を読んだり刺繍をしたりしています」
穏やかな空気に包まれて、いつも感じている寂しい気持ちがふわりと溶けていった。一人ではないということがとても嬉しい。デヴォンも心から寛いでいるようで、色々な話をしてくれる。
いつまでも続いてほしいと願う気持ちだったが、時間は止まってくれない。護衛のそろそろ時間です、という声に二人は残念そうに顔を見合わせた。
「また今度、時間を作ってお昼を一緒にしよう」
「ふふ、楽しみに待っています」
シェルビーは嬉しそうに応じた。二人は手を繋ぎ、元の道を戻っていく。
「少し待ってください」
デヴォンの護衛が何かに気がついたのか、二人の足を止めた。シェルビーの護衛だけを残して、彼は廊下の方へと向かった。しばらくすると、何やら言い争っている声がする。後宮にはあり得ない言い争いに、シェルビーがびくりと体を揺らした。
「大丈夫だ。護衛が動いている」
「でも」
不安そうに彼を見上げれば、デヴォンは難しい顔をしていた。先ほどの笑顔が消えてしまって少しだけ残念に思う。近くなった距離がまた遠くなった。
しばらくするとデヴォンの護衛が早足で戻ってきた。そのただならぬ様子に、デヴォンはますます厳しい顔をした。
「確認してきました」
彼は簡単に状況説明をする。デヴォンがそれを聞いて大きく息を吐いた。
側室だった女性がデヴォンを追いかけて、ここまで押しかけてきたらしい。側で聞いていたシェルビーは驚きで言葉が出なかった。
「……何を考えているんだ」
「どうしますか? 元側室だからと言ってここに入るには許可が必要です。それを無視して入ってきたのだから、牢に入れるべきだと思うのですが」
護衛は淡々とした口調で確認した。すぐさま牢に入れなかったのは、今までの関係性があるからだろう。デヴォンはしばらく沈黙していたが、バスケットを近くに控えていた侍女に渡した。
「彼女ときちんと話をしてこよう」
どうやら今回は見逃すようだ。そのことがとても不安に思う。
シェルビーの気持ちを察したのか、彼はそっと彼女の頬を両手で包み込んだ。覗き込むようにして視線が合わさる。
「私の側室はシェルビーだけだ。彼女は一度、ここを出た人間だ。どんなことがあっても側室に戻ることはない」
「殿下」
そっと額に触れるだけのキスをされて、シェルビーは固まった。まさかキスまでされるとは思っていなかった。
「後日、また時間を取る。……待っていてほしい」
そう言い残して、彼は護衛と共に行ってしまった。一人残されたシェルビーは茫然として彼を見送った。そっとキスされた額に触れた。今日は驚くことばかりだ。
完全にデヴォンたちの気配がなくなると、侍女たちはシェルビーに駆け寄りキラキラとした目を彼女に向けた。
「側室様! 大手柄です!」
「さあ、今日から気合を入れて磨き上げましょう!」
「え、あ、ちょっと待って!」
「待てませんよ。ここで一気に落とすのです! 王太子殿下が唇ではありませんでしたがキスまでされたのです。9年ぶりの快挙です!」
「わたし、侍女長に報告してきます!」
侍女の一人が顔を紅潮させながら、飛び出していった。その浮かれた様子に、シェルビーは顔を青くした。
「待って、待って! 次いつ来るのかわからないのだから、そんなに慌てなくても……!」
「善は急げでございます。ああ、ようやくこの日が……!」
シェルビーは身の危険を感じたが、そんな反論は許されるわけもなく、部屋に戻ったシェルビーは半年ぶりに丹念な手入れを受ける羽目になった。