伯爵家の事情
「はい? お父さま、今なんておっしゃいました?」
「見てもらった方が早いかな? 金額を確認したら流石に隠しておけないと思って、こうして書類を持ってきたわけだ」
シェルビーの父であるローリング伯爵ビクターは申し訳なさそうに表情を曇らせて、書類をテーブルの上に置いた。家族の団欒として使われている居間には、いつものように上座に家長であるビクター、その隣に叔父のパトリック、向かいの一人席には長女のシェルビー、次女のジェンナ、そして下座にパトリックの息子のライリーの5人が顔を突き合わせていた。使用人達には家族の話をするからと、外してもらっている。
ここ最近、ビクターは家に留まることなく忙しく出歩いていた。家族はビクターの社交的な付き合いに口を挟んだことはないが、かなり心配していた。家長であるがビクターは何度も問題を起こし、その都度、家族で乗り切ってきたのだ。
顔色悪く皆に話がある、と食事の後に言われたとき、今回もまた非常に手おくれの状態になっての告白なのだと誰もが思っていた。だが流石に、この理由を聞いて家族全員、固まった。
「しゃ、借金?」
シェルビーは茫然として呟いた。今まで数々の困難があったが、借金は初めてである。家族の目が自然と財産管理人として伯爵家を切り盛りしているパトリックの方へと向いた。
パトリックは青い顔をして、兄の持っていた書類の中身を改めていた。その様子にパトリックの預かり知らぬところで行われたことなのだと推測できる。
シェルビーは怒りを抑え込もうとぐっと拳を握りしめた。だが感情はその程度では押しつぶせず、額には青筋が立っていた。
「お父さま。一体どういうことなのです? このような大金、何故借りたのです?!」
「怒らないでおくれ。シェルビーに怒られるととても辛い」
いやいやいや。
辛いのはこっちだ。
来年にも40歳になるはずのビクターはその衰えることのない浮世離れした美貌の顔を辛そうに歪めた。
パトリックは黒髪に黒い瞳をしており、体もがっちりとした年齢にふさわしい落ち着きとゆとりを感じる男らしさがあるのに対して、ビクターは年齢を感じさせない儚げな美貌の持ち主だった。柔らかな光を放つ金髪に、目の覚めるような緑の瞳をしており、男性どころか人間らしさを全く感じさせない。
幼い頃は天使と言われ、社交界デビューしたての頃は男装の麗人と勘違いされて、何人もの男性騎士が求婚してきたとか。
ローリング伯爵家は長男であるビクターが継いだのだが、この浮世離れしたふわふわした性格を案じた先代があらゆる手段を講じた。
まずはしっかりした性格の嫁を見つけ出した。シェルビーとジェンナの母キャリーである。次に実際の財産管理、つまりは領地経営など実務は実弟のパトリックに任せたのだ。ビクターに求められたのはローリング伯爵家の社交的な部分だった。
それもつい最近までは上手く行っていた。キャリーが1年前に亡くなるまでは。
この家の中心ともいえるキャリーを失ったローリング伯爵家は悲しみと混乱に陥っていた。誰もが彼女の早すぎる死を嘆き悲しんだ。その隙にビクターは投資という新しい分野へと手を出してしまった。
「とてもいい話だったんだ。これでも僕は凄く悩んだし、色々な人に相談に乗ってもらったよ」
「――その相談に乗ってもらったお友達、というのは投資を勧めてきた人たちじゃないでしょうね?」
まさかと思いつつも、思わず確認してしまう。ビクターは驚いたような顔をした後、嬉しそうに破顔した。
「シェルビーはとても頭がいいね。その通りだよ。投資を一から教えてくれたんだ。もちろんデメリットもきちんと教えてもらったよ。だから、彼は信頼できる人なのは間違いないんだ」
「その親切で信用できるお父さまの友人には今回の件も相談したのですか?」
「それがつい最近、国外に出かけてしまっていて捕まらないんだ。前にかなり遠くまで商用に行くと言っていたから、今頃は遠い南の国にいる頃だろう」
この場がずんと重くなった。
どう考えても騙されたとしか言いようがない。
「どうして、どうしてそんなことを……」
シェルビーは泣きたい気持ちだった。借金の額が半端な金額ではない。今後の生活のことを考えれば、爵位を返上してお金に換え、返済したほうがいい。返上しなかった場合も、売れるものはすべて手放す必要が出てくるはずだ。
どちらにしろ、かなりの苦境になる。だが、貴族生活しか知らないシェルビーには返済後の貧乏生活が想像できない。
シェルビーはちらりと横に座るジェンナに目を向けた。ジェンナは事の重要性がわかっているのか、黙って俯いている。
来年16歳になって社交界デビューをするという時に多額の借金。これがどういう事であるか、彼女にもわかっているのだろう。
長女のシェルビーが婚活に失敗し、行き遅れ状態であるのもローリング伯爵家にとっては醜聞なのに、さらに借金で次女が社交界デビューができないなどあってはならないのだ。
「そんなに怒らないでおくれ。僕も反省しているんだ」
「怒りたくもなります! 大体お父さまは何を思ってこんな多額の借金を……!」
感情の高ぶるまま、テーブルを力強く叩く。テーブルが揺れ、カップが甲高い音を立てた。
「ごめんね? 僕もしっかりしないといけないかと思って頑張ってみたんだ。ほら、キャリーがいなくなってしまったのだから、当主である僕が彼女の代わりを務めなければ、と考えたんだ」
「兄上……」
ビクターの隣に座っていたパトリックが書類を全部読み終わったのか、テーブルの上に書類を置いた。借金の額の大きさに、すっかり血の気が失せている。ビクターはそんな弟を見て、慰めるようにそっと肩に触れた。
「心配はいらない。自分で招いたことだから、自分で始末するつもりだよ」
「ちょっと待ってください! お父さまは何をするおつもりですか!?」
「僕のことを気に入ってくれている貴婦人がいてね。もし僕が愛人になれば……」
そんなことだろうと思った。
シェルビーは我慢ができずガタンと音を立てて立ち上がった。ぐっとテーブルに手をつき身を乗り出して、父親を強く睨みつける。
「却下です! ローリング伯爵家の当主が身売りしてどうするんですか!」
「でもそれぐらいしかできそうにないから。現実には借金ばかりだ。それに悪いことばかりじゃない。愛人になったら好きなだけ画材を買ってもいいと――」
「お父さま。お願いですから、お母さまが生きていたらと考えて判断をしてください。身売りをするなんて、お母さまが知ったらどんなに悲しまれることか」
「でも、愛するキャリーはいないじゃないか。この世に未練は何もないよ。キャリーがいないのなら僕は空虚だ。空虚なんだから、僕の体は大切にするよりは使った方がいい」
使う方向性が間違っている。
その言葉にシェルビーは脱力してぐったりと椅子に座り込む。借金をどうしていいかわからないけど、父親のズレた考えもどうしていいのかわからない。
「兄上、かなり厳しい台所事情になりますが、それでも借金は何とかします。ですから、そのような考えは改めてもらいたい」
「それはダメだよ。来年はジェンナの社交界デビューだよ? 貧乏でドレス一枚作らずに参加だなんて許しがたい」
その許しがたい事情にしたのはお前だ、と誰もが思ったに違いない。
シェルビーは大きく息を吸った。何かいい方法がないかと、色々と思いめぐらせた。シェルビーは伯爵家の跡取り娘であるが、伯爵家は古くからの歴史があるだけで、商売が特別上手くいっているわけでもない。領地経営も堅実であるが、ごく普通に伯爵家として体面は保たれる程度の経済力で、可もなく不可もなくである。
さらにはこの国で女性が爵位を継ぐことはできても、爵位を持たない貴族女性が一人で自立してお金を稼ぐことはできない社会だ。貴族家や商家への教師や王城での侍女という仕事はあるが、それでもすぐになれるものではない。どちらもしっかりとした推薦状と実績が必要になる。
頭が痛くなってきて、こめかみを揉む。
「何かいい案はないかしら……」
「お姉さま、先日のお茶会に招待してくださったご婦人たちの縁を縋ることはできませんか? わたしが働きに出てもいいですし、援助してくださる方に嫁いでも」
ジェンナが躊躇いがちにそう口にした。シェルビーは妹の隣に座ると、彼女の手を優しく包み込んだ。母に似た顔立ちのジェンナは今にも泣きそうな顔をしている。一体どれだけの覚悟でその言葉を告げたのか。心がずきりと痛んだ。
「ジェンナはまだ成人していないのよ。働くなんて言ってはいけないわ。ましてや援助目的の婚姻など考えなくてもいいの」
「でも」
ふと、先日のお茶会での話題を思い出した。母を亡くしたシェルビーをよく面倒見てくれる夫人たちが話していた内容だ。茶会の時に夫人たちは何と言っていただろうか。
「……そういえば」
「シェルビー?」
「10人目の側室を募集していると先日の茶会で聞きました。わたしはまだ生娘だし、容姿もお父さまに似てそれなりに見られます」
こんなにもいい案はないと、シェルビーは満面の笑みを浮かべる。逆にローランド伯爵の方が青ざめた。
「側室!? そんなこと、許可できない!」
「でも健全なお金の稼ぎ方です。入るための支度金、側室でいる間の手当て、さらには後宮から下がる時にもお金が出るとか。それだけで借金は返せます」
「シェルビー、この家はどうするんだ? 伯爵家は君が継ぐべきものだ」
落ち着いた様子でパトリックがそう諭す。シェルビーは表情を改めて、姿勢を正した。
「わかっております。ですが今は伯爵家の危機です。爵位に関して言えば、妹がいますから心配しておりません」
「お姉さま!?」
ジェンナが驚いたように声を上げた。3歳年下の妹を優しい目で見つめる。
「ジェンナはライリーと結婚してこの家を継ぐのよ」
「ライリーとは……」
隠してあった恋を暴露されて、ジェンナが顔を真っ赤にして狼狽えた。きょろきょろと周囲を見回し、ライリーと目が合うと、ぱっと耳まで染め上げた。ライリーも落ち着きなくソワソワし始める。その初々しい二人の様子ににんまりと笑った。
「わたしにとっても悪い話ではないわ。後宮に入って、借金返済。そしてその後は結婚も整えてくれるのよ。持参金だってつくと聞いたわ。王太子殿下の後宮には入れば箔もつくし。いいこと尽くしだわ!」
「それではやろうとしていることが兄上と変わらない。それに後宮は遊びに行くところではない」
苦々しい顔をしてパトリックが注意をする。シェルビーはこてんと首を傾げた。
「遊びではありません。3年側室をやったら戻ってきます」
「あはは。腰かけならいいかもしれないね」
不敬にもなりそうな発言をしてビクターは楽しそうにシェルビーとよく似た顔で笑っている。
「兄上は黙っていてください。側室の話は軽々しく受けるものではない。確かに手当ては多いだろうが、王太子殿下に仕える気持ちもないのに側に侍るなど」
「やるとなったらきちんと職務を全うします」
「それに万が一、子供ができたらお前は王太子妃になるということも抜けている」
シェルビーは不思議そうに目を丸くして、まじまじと叔父の真剣な顔を見つめる。
「大丈夫じゃないでしょうか? わたしで10人目ですよ。きっと子供なんてできません」
「……シェルビー、それもどうかと」
よく似た父娘の能天気さにパトリックは再び頭を抱えた。