そこにいるのは……
後ろから聞こえる軋むような音に振り返ると、扉が開いていくのが見えた。室内に広がっていく光を見つめて息を呑む。
――うそ……。だって、勇者はまだ来ないって……。
一瞬、黒髪の青年が脳裏に浮かんで、それを振り払った。
神様はしばらくは大丈夫だって言ってたじゃない。大丈夫。きっと動物か何かだ。
そうやって自分に言い聞かせようとしたけど、それがあり得ないということは自分自身が一番わかっていた。
扉は重く、動物が前足で引っ掻いたくらいじゃ開かないということを知っていたからだ。
「神様、隠れて声は出さないでください」
小さな声で神様に伝えると頷いてくれた。椅子の陰に隠れるように伏せてもらい、スライムを抱いてもらう。
――扉を開けられるということは……小さな子供でもない。もし、勇者だとしたら……逃げられるだろうか?
刺さった矢の感触や痛みが、まだ残っているような気がして腹部を押さえる。右手に靄をまとわせながら、挑むような気持ちで前を睨めつけた。
「そこにいるのは誰?」
「え……? あ、あの……私はえっと……」
「?」
きつい声で問いかけたのに、聞こえてきたのは拍子抜けするくらい可愛らしい少女のような声だった。外からの明かりで姿や顔立ちはわからないので、まだ油断はできない。
「貴方は……何をしに来たの?」
「私はこの教会を掃除させてもらっていて……」
なるほど。だからこの教会は綺麗だったんだと納得した。掃除が行き届いている綺麗な部屋は、魔王城とは大違いだった。この少女が魔王城を掃除してくれたら、きっと快適に過ごせるだろうな。うん。住むことになったらぜひ掃除してほしい。
「あなたは掃除が得意なのね。とても綺麗にしているもの」
「あ、ありがとうございます!」
えへへ、と笑う少女に「お祈りでしたら、私もご一緒してもよろしいですか?」と言われ、つい「もちろん」と頷いてしまった。
警戒心は何処へ行ったんだと思いつつ、少女との会話は思った以上に胸が躍った。神様との会話も楽しいけど、やっぱり女同士の話は別腹なのだ。
それに、女の子同士の会話なんて、本当に久しぶりだった。嬉しくて思わず笑んでしまう。
「いつも、ここに来てるの?」
「そうなんです。私には掃除くらいしかできないけど、少しでもお役に立ちたくて!」
明るい声で話す少女の顔立ちが、ステンドグラスの光ではっきり見えるほどになった。優しい笑みを浮かべながら、歩く度にふわふわとした茶色の髪が揺れる。服は薄茶色で簡素だった。でも、だからこそ少女の愛らしさを、より引き立てているようにも見える。
「そういえば、初めての方ですよね? お名前は何て言うんですか?」
「あ……私は……」
名前を答えようとして戸惑ってしまった。私の名前は思い出せない。かといって、魔王ルミナスだとは言えないし……。どうするのがいいのか考えて、少女に視線を戻すと、目に驚きのような怯えのような色が浮かんでいた。
もしかして、私の後ろに何かいるんだろうか。ちらりと視線を向けてもステンドグラスしかなく、差し込む光が眩しいだけだった。
「つ、の……赤い……目? ど、どうして……ここに魔人が……」
――え? 魔人?
「な……何故? い、いやあああ!!」
少女はか細い悲鳴をあげて、その場にしゃがみこんでしまった。そこには、私に向けてくれた明るい笑顔も声音もなかった。そのことに強い不安を感じて、何かの衝動に駆られるように声をかける。
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
「い、いや! お、お願いします。命だけは……命だけは助けて下さい……!」
少女は「ごめんなさい、許して下さい」と何かに懇願しているように顔を伏せている。その何かが私だと言うことに気付くのに時間はかからなかった。
――そうか。そうだよね。怖いよね……。ごめんね……。
「ごめんなさい。すぐに出て行くから……」
――私は何を期待していたんだろう。少女から見れば……私は……。
がくがくと震える少女から視線を逸らして、後ろを見ると神様が悲しそうな顔を浮かべていた。