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第一章 千賀子(8)

 消毒液の匂いはこんなにも落ち着けるものなのか、と千賀子は目を瞑った。腕の中の小さな重みは、一ヶ月前よりも質量を増していた。


 新生児の一ヶ月検診で、亮を産み落とした産院にやって来ているのだ。懐かしいスタッフの顔ぶれに、あの出産の日を思い出す。

 診察前の問診票には、体調のことだけではなく、母親を取り巻く環境、育児の悩みについて回答する欄が設けられていた。それらの一つ一つに丁寧に目を通し、ボールペンで記入していく。


『Q 子育てを手伝ってくれる方はいらっしゃいますか?』


 その問いに千賀子の手が止まる。

 母は仕事が忙しく、あまり千賀子の家に立ち寄ることはなかった。たまに職場のスーパーで惣菜を購入して、差し入れに来る程度で、家に上がってゆっくりとしていくことも少なかった。

 義両親は遠方で暮らしているため、協力は到底望めそうになかったし、良樹は夜中まで家に帰らない生活だった。

 いいえ、に丸をつけたい気持ちが込み上げる。結局、家のことはすべて自分で片付けなければならないのだ。

 しかし、一方で少しは手伝ってもらっているじゃないか、と思う自分もいた。大変なのは自分だけではない、我儘は言えない、ともう一人の千賀子が言う。きっと自分以上に苦労している人だってたくさんいるはずだ。

 それに……うまくいっていないと思われるのは、嫌だ。

 つまらないプライドが、SOSを口にすることを邪魔した。「あなた達なら大丈夫よね」と言った嘉納には、絶対に知られたくなかった。

 時間にすれば、ほんの数秒だったかもしれない。千賀子はペンを持ったまま用紙と睨めっこした後、はいの欄に丸をつけた。




「榊さん、赤ちゃんの成長は順調ですね。お母さんの体の状態も良好です。赤ちゃんにはビタミンK2のシロップを飲んでもらいますね」


 医師にそう告げられた後、千賀子は看護師に案内され処置室へと向かった。今日の担当看護師は嘉納ではなかった。背の高い看護師の後ろ姿を眺めながら、残念なような、それでいて少しホッとしたような複雑な気分でいた。


「それでは、亮くんをお預かりしますね。亮くん〜、シロップ飲めるかな〜?」


 哺乳瓶の中の液体を、亮はこくこくと顔を揺らしながら飲んだ。口当たりがいいのか、吐き戻すこともなく一滴残らず飲み干す。


「榊さん、今日からは湯船に浸かって入浴していただいて構いませんよ。長湯はしないように気をつけてくださいね」


 産後一ヶ月は、入浴といってもシャワーを浴びる程度のことしか許されていない。医師の許可が下りて初めて、湯船に浸かることができるのだ。シャワーでは疲れが取れた気がしなかった千賀子は、看護師の言葉を心底嬉しく思った。ゆっくりと風呂に入れば、幾分かリフレッシュできるだろう。凝り固まった筋肉を、温かい湯で揉みほぐしたかった。


「無理をしなければ、通常通りの日常生活を送っていただいて結構です。あと……」


 看護師はぺらりと千賀子のカルテに目を通す。中に何が書かれてあるのかは読み取れないが、頷きながらそれを読む看護師の様子から、大して問題となるようなことは書かれていないのだろうと推測することができた。


「性生活の方も開始していただいて問題ありません。ただ月経が再開していないからと言って、排卵していないというわけではありません。妊娠する可能性もありますので、避妊等は夫婦で話し合って、計画的に決めてくださいね」


 そうだった……と千賀子は思い至る。

 良樹と自分とは夫婦なのだ。そういうことがあってもおかしくないのだ。あまりの忙しさに、良樹が夫であり、また一人の男性であることを失念していた。

 それと同時に、自分もまた一人の女性であったことを思い出す。しかし、処置室にある鈍い銀色のトレイに反射する自身の顔は、女性のものとはかけ離れて見えた。

 くぼんだ眼球、伸び放題の眉、くっきりと刻まれたほうれい線。化粧水でスキンケアをする暇も気力もなくなっていた。

 少し顔が弛んできたのかもしれない。千賀子は顔に手を添え、垂れた頬を小さく引き上げた。


「榊さん、大丈夫ですか?」


 一点を見つめ、呆けていた千賀子に看護師が声をかける。


「あ、はい、分かりました。大丈夫です」


 衰えた顔を見られないよう、俯き加減で返事をする。

 活き活きと生気に満ちた表情で働く看護師の顔を、千賀子は正面から見ることができなかった。




 お気に入りの入浴剤を溶かした湯で体を癒す。乳白色の湯はとろみがかっていて、じんわりと皮膚から伝わる熱を千賀子は全身で感じていた。

 亮のことは早く帰宅した良樹に任せてある。亮と二人きりの時は、先に亮の風呂を済ませ、亮を安全な場所へ寝かせた後、追われるようにシャワーを済ませるのが常だった。泣き声に神経を尖らせることなく風呂に入ることは久しぶりだった。

 肩を揉んだ後、腕、腰、太腿、足先へと順にほぐしていく。疲れが湯に溶け込み、体が軽くなる。目を閉じれば、このまま眠ってしまいそうなほどの心地よさだ。千賀子は曖昧な感覚に身を委ねながら、ほぅと息を吐いた。


「おぉい、千賀子、なぁ、千賀子ってば!」


 焦り気味の低い声が聞こえ、思わず舌打ちしそうになる。千賀子はざばりと湯船から体を起こし、浴室のドアを薄く開けた。


「どうしたの?」

「亮が泣き始めたんだよ。ちょっと臭うから、ウンチでもしたんじゃないのかな?」


 ……だから、何?


 すっと体が冷え切っていく。オムツなら亮の揺籠の側にあるボックスにこれでもかというくらい詰め込んである。目に入らない方が不思議だった。


「オムツは揺籠の側に置いてあるわよ」

「あぁ、うん、それは分かってるよ。まぁとにかく、亮が泣いてるから早く来てやってくれよ」


 千賀子がそれとなく発信したサインにも、良樹が気づくことはない。


 オムツくらい交換してよ。それくらい、言われなくても察しなさいよ。


 千賀子は風呂の栓をぐいと引き抜く。湯がぐるぐると渦を巻きながら減っていく様を、最後まで見つめていた。




 亮を寝かし、千賀子自身も微睡みかけていた頃、リビングの扉が開いた。暗闇の中、侵入してきた人影はまっすぐ和室へと歩を進め、千賀子の布団の側でぴたりと止まった。


「千賀子……」

「良樹さん……? どうしたの、お茶ならやかんに沸かしてあるから」


 もぞもぞと布団の中で寝返りを打ち、千賀子は良樹に背を向けた。しかし、良樹は千賀子の側から去る気配を見せない。

 それどころか――毛布に手をかけ、千賀子の体に触れてきたのだ。

 その手の冷たさに、千賀子は完全に目を覚ました。ひっと喉奥から漏れ出しかけた声を必死で堪える。


「なぁ、千賀子……一ヶ月検診、問題なかったんだろ?」

「え、えぇ……」

「その……医者からも、大丈夫って言われたんだろ? 痛かったらやめるからさ、だから……」


 寝間着の下でぞわぞわと何かが這っていた。それは腹をさすった後、千賀子の乳房へと這い上がってくる。首筋にかかる吐息が生温い。

 悪寒がした。鳥肌がたった。

 そのおぞましい感覚が、良樹の手によるものだと分かるまで数十秒の時間を要した。

 かつてはこの手に愛撫され、確かに悦びを覚えていたというのに。声をあげながら、背筋を突き抜ける快楽に身を任せていたというのに。


 私は……どうしてしまったんだろう?


 良樹に、触れられたくなかった。自分の体はすべて亮のものになってしまっていた。あれほど愛し、生涯の伴侶に、と選んだ良樹を受け入れられなかった。

 この乳房は亮のものだ。穢れない純真無垢な亮のためのものを、欲望にまみれた夫には指一本触れさせたくない。


「良樹さん、ごめんなさい」


 蛇のような手で執拗に繰り返される愛撫を、千賀子は全力で押しのけた。


「千賀子……?」


 拒絶されたショックからか、良樹の声は心なしか上ずっていた。千賀子は良樹を傷つけないよう、しかし、確実に拒めるよう、嘘をつく。


「実は……まだ出産の時の傷が痛むの。もう少し待ってくれないかな? それに、亮が隣で寝ているし……ね?」


 首を傾げ、良樹の顔を覗き込む。残念そうにしょげる良樹だったが、千賀子の言葉に渋々納得したようだった。


「そうか、それなら仕方ないか。千賀子の体が一番だもんな」


 名残惜しそうに良樹は千賀子から身を離す。去り際に千賀子の唇に軽く口づけ、千賀子の体に毛布をかけた。


「――愛してるよ」


 そう言い、良樹は自分の寝室へと帰って行く。

 良樹の愛の囁きを、千賀子は素直に嬉しいと思えなかった。真っ暗闇でよかった、と心底安堵する。私も愛しているわ、と応えることのできない自分を見られたくなかった。

 千賀子は右手の甲で唇を拭うと、体を丸め浅い眠りについた。

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