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第一章 千賀子(7)

 慌ただしい朝がやって来た。時間に急かされている感覚を味わうのは久しぶりだった。


 自宅から歩いて十五分の距離にある小さな神社で、亮のお宮参りを済ませる予定になっていた。午前十時に予約を入れておいたので、その三十分前に良樹の両親と合流することになっている。

 赤ん坊の世話をしていると、時間の感覚などなくなってしまうのだ。千賀子の体内時計はすっかり狂い、時間という概念さえも忘れかけそうになるほどだ。亮には朝も昼も夜も関係なかった。

 チラチラと横目で壁時計を見やりつつ、千賀子は洗濯物を干した。朝食は洗い物が少ないよう、トーストとインスタントのカップスープだけだ。洗濯を済ませた千賀子は洗濯かごを洗面所に戻し、半ば駆け足でキッチンへ戻った。


「今日のA市は晴れ。最高気温は昨日より二度低くなりますが、絶好の洗濯日和になるでしょう」


 天気予報士の言葉通り、空は雲一つなかった。ただ冷え込みが厳しくなるというのはいただけない。亮の体が冷えないよう、もう一枚余分に毛布を持っていくべきか、と千賀子は思案した。


「よかったなぁ、今日は晴れで。亮も嬉しいよなぁ」


 良樹の明るい声が聞こえる。トーストを咀嚼し、目をぱっちりと開いた亮に話しかけていた。

 千賀子は粉ミルクを小分けに詰めながら考える。三回分のミルクがあれば十分だろうか。いや、もしかしたら亮がぐずるかもしれない、もう一回分多めに用意しておこう。消毒済みの哺乳瓶を四本取り出し、マザーズバッグに押し込んだ。レンタルした亮の着物は紙袋に入れて玄関に置いてある。


「なぁ、千賀子、俺の服ってスーツでいいのかな?」

「いいと思うわよ。クリーニングに出しておいたスーツがあるから、それを着て下さいな」


 ミルク用の湯を魔法瓶に入れ、固く蓋を閉める。最近はコンビニエンスストアや飲食店でも、ミルク用の湯を分けてくれるところが増えた。しかし、必ずしもすぐに湯が手に入る状況にあるとは限らない。

 オムツが不足したら、服が汚れてしまったら、急に気温が下がってきたら――。万が一を思えば、自然と荷物は嵩張った。


「ごちそうさま。俺、ちょっと着替えてくるわ」


 朝食を食べ終えた良樹は、空の食器をテーブルに残したまま、自室へ向かう。千賀子は食器を流しへ運び、さっと水で汚れをすすいだ。

 亮の機嫌がいい間に、亮の着替えも済ませてしまわなければならない。千賀子はタオルで手を拭き、子供箪笥から新しい肌着と白いベビードレスを取り出した。


 これを亮が着るのは産院を退院した時以来か……。


 亮が産まれてから一月しか経っていないというのが嘘のようだ。それは遠い遠い昔の出来事に思えた。


「亮、お着替えしようね」


 黄色いロンパースを脱がせ、千賀子はさらに肌着の前紐を解いた。

 露わになった亮の腹部には消毒用の白いガーゼが当てられている。臍の緒は完全に取れていたが、亮の臍は未だにじゅくじゅくと赤黒く、消毒をする必要があった。産婦人科の一ヶ月検診で診てもらおうと、千賀子は脳内のメモにチェックをつけた。


「ふぇ……ふぇっ……ふぇっ……」


 オムツを交換しようと亮の腹部に触れた矢先、機嫌のよかった亮が急に顔をしかめた。


「え……? どうしたの……あ」


 自身の手を見てはっとする。最近では何故亮が泣くのか、理由が何となく分かるようになっていた。


「ごめんね、ママの手が冷たかったのね」


 洗濯と食器洗いを済ませた後の手は、外気と冷水で氷のごとき冷たさだった。食器洗いは温水でするべきだった……そうすれば少しは手が暖まっただろう。千賀子は後悔した。

 なるべく亮の肌に直接触れないようにドレスを着せる。亮はほんの少し目を瞬かせただけで、再び機嫌を戻した。


「なんだ、千賀子、まだ用意できてないのか。もうすぐお袋達と合流する時間だぞ」


 ネクタイを締めながら、良樹がリビングに戻ってきた。

 まだ時間に余裕があったはずだ。そう思い時計に視線を移した千賀子だったが、針が指し示す時刻に目を見開く。


「やだっ……もうこんな時間⁉︎」


 約束の時間まで、三十分ほどしか残っていなかった。もう朝食を食べている暇もない。千賀子はトーストとスープの皿にラップをかけた。千賀子のドタバタとした足音に反応したのか、急に不安そうに亮が泣き始める。


「ふぎゃ……ふぇぁ……ふぎゃあぁあ」

「あぁ、全く何やってんだよ。そんなに騒いだら亮がびっくりするだろう」


 千賀子はぐっと下唇を噛んだ。


「それに段取り悪いなぁ。早めに起きたのに意味ないじゃないか」


 喧嘩をしている時間はない。言い争って遅刻でもしようものなら大事だ。遠方から来た義両親を待たせることなど言語道断だ。


「俺が亮を見ておくからさ、早く支度してこいよ」


 何よ……恩着せがましい言い方して。


「ごめんなさい、すぐに支度しますね」


 やっとの思いで、気持ちと正反対の言葉を紡ぐ。

 千賀子は良樹の側から逃げるように、自室へと飛び込んだ。




 待ち合わせ場所には良美と隆次が並んで立っていた。お待たせして申し訳ありませんと平謝りする千賀子に、良美は今来たところだからと笑った。

 神社の鳥居をくぐり、千賀子達は社務所へと向かう。参拝の予約をしていた旨を告げると、千賀子達は拝殿へ案内された。


「私、こんな感じでええんかなぁ。なぁ、おかしないか?」


 良美は亮を腕に抱き、はしゃいでいた。兜柄の初着が晴れやかな日にぴったりだ。貸し衣裳屋で急遽借りたものだったが、存外立派に見えた。

 千賀子の装いはダークブラウンのフォーマルワンピースだ。髪は美容室に行く時間がなかったので、千賀子が自分でセットした。


「結び目、大丈夫かな。解けそうになってへんかな?」

「母さん、気にし過ぎや。ほら、ちゃんとできてるやないか」


 お宮参りでは父方の祖母が赤ん坊を抱いて参拝する。赤ん坊は抱かれた状態で初着を上から羽織るように着、そのまま赤ん坊の祖母の背で紐を結ぶのだ。

 隆次が良美に言い聞かせるが、納得していないのか、良美は改めて千賀子に問うた。


「なぁなぁ、千賀ちゃん、おかしないかな?」

「大丈夫ですよ、お義母さん。亮も嬉しそうです」


 急な義両親の来訪に不満を感じてはいたが、いざ当日になると、亮の晴れ姿にみるみる明るい気持ちになった。

 お宮参りは滞りなく終了した。写真館での記念撮影の時は、亮の機嫌取りに少々手間取ったが、ミルクを与えるとそれもすぐに解決した。

 写真館から徒歩十分の距離にある日本料理屋へ五人で向かう。適度な満腹感とベビーカーの振動で気持ちがよくなった亮は毛布にくるまって眠っていた。


「千賀ちゃん、子育てどうなん? 一人で大変やろ」

「ええ、大変ですけれども、亮のためなら頑張らなきゃって……そんな気持ちです」


 良美はそうやろう、そうやろうと大きく頷いた。


「ミルク飲ませてたけど、おっぱい出ぇへんのかい? あのハーブティーはよう効くさかいな。友達の娘さんらにも子ども産まれてなぁ、母乳出んて悩んでたんやけど、あれ飲んだら一発でよなった言うから」


 千賀子は適当に相槌を打ち、そうですかと話を聞き流した。


「それより良樹、あんたちゃんと千賀ちゃんのこと手伝ってやってるんか? そもそも里帰りするな言うたんは良樹やろう」


 唐突に話題の矛先が自分に向いたことに驚いたのか、良樹はわざとらしく咳をした。


「母さんの言う通りや。良樹、しっかり手伝うたらなあかんで」


 隆次はバンと一つ、良樹の尻を叩いた。「いてっ!」と良樹は尻を摩り、唇を尖らせる。


「家のことは手伝うてやってるよ。ゴミ出しやっても風呂掃除やっても俺の役目や。はよ帰った日は亮と遊んでやってるし、千賀子にばかり押し付けたりしてへんよ。なぁ、千賀子?」


 そう言い、良樹はベビーカーのハンドルをつかむ千賀子の手に自らのそれを重ねた。


 手伝うてやってる? 遊んでやってる?


 些細な言い回しだが、随分と横柄に聞こえる。まるで自分に恩を売るかのように。

 手伝って欲しいことならまだまだ山積みだ。氷山の一角を切り崩した程度でいい気にならないで欲しかった。仕事がある以上、無理を言う気はなかったが、手伝っていると自慢できるほど何かしてくれたことがあっただろうか。


 亮をお風呂に入れたことが、オムツを替えたことが、汚れた服を洗ってくれたことがあるの?


 何も亮の身の回りに限ったことではない。食事の用意、食器洗い、洗濯、掃除。自分も随分と手を抜いてはいるが、それでもやらねばならない家事は尽きない。

 出産直後はあれやこれやと甲斐甲斐しく手伝ってくれたものだった。だが、時間が経つにつれ、家事を手伝う良樹の態度は変化し、また千賀子に対しての愚痴も増えた。かつては完璧にも思えた夫の姿はどこにもなかった。

 謙虚な言い方であれば、随分と違って聞こえるのに。良樹の言い方が気に入らなかった。


「それならええんやけど……なぁ、千賀ちゃん、ほんまか? 良樹の言うことは信用ならんからなぁ」


 良美はカラカラと笑っていた。千賀子の答えは一つしかない。


「……えぇ、いつも助かっています。良樹さんのおかげです」

「ほら、千賀子も言うてるやろ」


 千賀子の言葉に、良樹は満足げな表情だ。


 亮、亮、起きて……今すぐ泣いて、この人を困らせてやってよ……。


 千賀子は奥歯を噛み締めながら、愛想笑いを浮かべた。

 店まではたった十分の距離だったが、千賀子には途方もなく長く遠いものに思えた。

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