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第一章 千賀子(6)

「なんだ、千賀子、いるんじゃないか。服も着ないで電気も点けずに……大丈夫か?」


 不意についた灯りが千賀子を現実に引き戻した。面をあげた先には愛すべき夫の姿があった。

 良樹はスウェットの上着を拾い千賀子に手渡す。床にへたり込んだ千賀子の前に屈み、視線を合わせる。良樹の視線に思わず全てを吐露してしまいたくなった。


 でも……それはできない……。


 疲れているのは自分だけではない。良樹もまた、日々の生活のために働いているのだ。育児のために仕事を辞めたとは言え、自分の稼ぎがないというのは後ろめたかった。良樹から見れば、自分は消費するだけの穀潰しだ。生産性の欠片もない女だ。

 それでも、家事さえ満足にできない今の千賀子の状況に、良樹が不平不満をこぼしたことなど一度たりともなかった。むしろゴミ出しをしていてくれたり、風呂掃除やトイレ掃除も率先してやってくれる完璧な夫だった。

 そんな良樹に自分勝手な感情をぶつけることなどできない。自分さえ我慢していればいいのだ。心の靄が晴れないのは、良樹のせいなどではないのだから。


「良樹さん……おかえりなさい。今日は早かったのね」

「うん、やっと有給中の仕事が一段落してさ。何とか定時にあがった」


 亮に八つ当たりをしてしまった後、泣き声から逃れたい一心で亮にミルクを飲ませた。ミルクを飲み終えた亮を揺籠に放り出し、哺乳瓶を洗わないまま床に投げ捨てた。

 床には白い水溜りができていた。倒れたままの哺乳瓶の口からポタポタと残ったミルクが漏れ出ていたのだ。千賀子は慌ててティッシュでその染みを拭う。

 亮に当たり散らしてしまったことだけは気づかれてはならない。動揺していたことを気取られてはいけない。千賀子は良き妻の仮面で顔を隠す。


「スーパーのお惣菜で申し訳ないけれど……温め直すわね」

「ああ、悪いな。……亮く〜ん、ただいま、パパですよ〜。今日も亮くんはいい子だね〜」


 千賀子はパックから出した惣菜を皿に盛り付け、電子レンジに放り込んだ。

 チリチリと心臓が焼けつく。何故か苛立ちが止まらない。のろのろと回るターンテーブルにさえいらいらした。


 何が今日もいい子よ。良樹さんの前だけいい子ぶって眠っちゃって……。


 ほのぼのとした親子の光景が苦しかった。自分と過ごしている時は泣きじゃくって手もつけられないほどなのに。


「ママと二人で仲良くしてたか〜? もうこんなに大きくなって」


 背中ごしの声が、自分を非難する声にも聞こえる。一言一句が千賀子の胸に小さな針となって襲い来る。

 良樹にとっては、息子と触れ合えるこの一瞬が貴重なのだろう。ワイシャツ姿のまま、亮の揺籠に顔を近づけ、何やら赤ちゃん言葉で語りかけていた。


 ……良樹さんも温め直しくらい自分でできるでしょうに。試しに一日、亮と二人で過ごしてみたらいいんだわ。そうすれば、呑気なことを言っていられないって分かるはずなのに。


 千賀子は無言でテーブルに箸を並べた。冷たいままのパックご飯を茶碗に移し、それぞれの席に並べる。惣菜は温めたんだから、ご飯が冷たいことくらい大目に見てくれなければ困る。


「良樹さん、ご飯ができましたよ」


 自分が作ったわけでもない料理を前に、千賀子は良樹を呼んだ。


「今日は何かな〜……と、また和食かぁ」


 残念そうに良樹は呟いた。


「また、って。何が嫌なの?」

「いや……たまにはこう……肉とかさ、揚げ物とか、ガッツリした物も食べたくなるんだよ。最近ずっと、千賀子が用意してくれてた晩飯って煮物や焼き魚だっただろ? なんだか物足りないっていうかさ」


 良樹は人差し指でぽりぽりと頬をかいた。


「ああ……ごめんなさい、そうよね。でも、嘉納さん……助産師さんが言っていたのよ、和食みたいなヘルシーなものが母乳にはいいんだって」


 話せば理解してくれるはずだ。そう思い、千賀子は筑前煮の皿に箸を伸ばしながら話をする。


「あまり母乳が出ないから、動物性の脂が多い揚げ物なんかは控えなきゃいけないの。乳腺が詰まりやすくなってね……」

「そりゃそうだけどさぁ、出ないならミルクにすればいいじゃないか。そんなことに拘らなくても……まさかお袋の言葉、気にしてるのか?」


 良美の言葉が気にならないと言えば嘘だった。乳の出ない女は母親の資格がないと言われたように感じた。

 母乳か、粉ミルクか。こんな問題に固執している自分もどうかと思う。どうせ亮が大きくなれば、どちらで育てたかなど関係なくなるのだ。

 だが、自分の悩みを「そんなこと」で済まされてしまったことが腹立たしかった。亮に押しのけられ、傷ついた自分の胸中が――辛くても現実に亮を育てているのは私だけなのだと――良樹には、男には分からないのだろうか。


「そんなことって……」


 千賀子は口に運びかけた筑前煮を手前の小皿に戻した。箸を持つ手が小刻みに震え、顔面から血の気が引く感覚がする。反論しようと薄く唇を開きかけた時、良樹はさらに言葉を続けた。


「それよりさ、亮のお宮参りのことなんだけど、お袋達、月末にこっち来るってさ。近所の神社と写真屋と……あとは個室のある料亭かレストランで予約取っといてくれないか」

「ちょ、ちょっと待って、月末までもう十日ほどしかないじゃない」

「十日もあれば準備には十分だろ? もし食事できるところがなければ、家で寿司の出前を取るのでもいいし」


 唐突な良樹の話に、千賀子は目を白黒させた。


「確かに生後一月でお宮参りっていうのは分かるけれど、まだ寒いのに亮を連れ出すのも可哀想だし……もう少し暖かくなってからでも……」


 十日の猶予があっても、決して今の千賀子には十分な時間とは言えなかった。育児の傍ら、方々に予約の電話をかけるのは想像以上に骨が折れそうだ。お宮参りとなれば、亮にもそれなりの衣装を用意しなければならない。もちろん、自分もこのくたびれた格好や髪型をどうにかする必要があった。料亭の予約が取れなければ、義両親を呼ぶために部屋を徹底的に片付ける時間だっている。

 亮がいない時には難なくできていたことも、今では話が違う。自分たちの都合ではなく、亮の都合が最優先だ。どんなに綿密な計画を立てても、亮が否と言えば従うしかない。


「お袋たちは古い人間だからさ、行事ごとや慣例みたいなものには拘りたいんじゃないのかな。もうその日程でホテルの予約も取ってしまったって言ってるし……まぁ、年寄りの我儘と思って大目に見てやってくれよ」


 あっけらかんと良樹は言ってのけた。いとも簡単に、あっさりと。

 そんな重要なこと、何故一言の相談もなしに決めたのか。

 確かに良美たちには随分良くしてもらっていた。だが、亮は自分の子だ。こちらの都合や意思を無視して話を進められるのは心外だった。

 良樹も良樹だ、と思う。少しは今の自分や亮の状態を見て考えられないのか。両親を大切に思う気持ちが分からないわけではないが、良樹自身の家族がいるのだと自覚して欲しかった。

 箸を置き、黙り込んでしまった千賀子に気づき、良樹は首を傾げた。


「どうした? あまり食欲ないのか? お茶でもいれようか」


 メニューに文句をつけながらも、良樹は夕食を完食した。にこにこと鼻歌交じりでキッチンへ向かい、棚からお揃いのマグカップを出す。


 何も……なぁんにも、分かってない……。


 自分の悩みも家族のことも、軽んじられている気がした。つまりは良樹自身がよければそれでいいのだ。そんな恨み言が喉奥に詰まる。手伝ってくれていることさえ、良樹自身のエゴに見えてくる。

 コポコポとポットから湯を注ぐ音が聞こえる。心地よいはずのその音が、今は息苦しい。


「ほら、これ、お袋が持っきてくれたハーブティー。母乳にいいんだろ?」


 良樹は頬をかきながら、千賀子にカップを差し出した。


 さっきから頬をかいてばかり……。


 頬をかくのは、良樹が千賀子の機嫌を損ねないようにしている証だ。それが良樹の癖だと千賀子は知っていた。


「……あり……がとう……」


 無理矢理喉元から声を絞り出した。受け取ったカップは火傷しそうなほど熱い。


 こんなもの……こんなものっ‼︎


 良樹の顔にハーブティーをぶちまけてやろうかという衝動に駆られる。自分が求めている気遣いはこんなことではない。良樹のずれた気配りにふつふつと怒りがこみ上げた。

 胸の中では煮え滾る思いだったが、それでも千賀子は良樹に何も言えなかった。張りついた笑顔のまま、ハーブティーを啜った。


 千賀子がお茶を飲んだのを見て一安心したのか、良樹も自分のカップをテーブルに置き、椅子に座った。良樹のカップからは香ばしいコーヒーの香りが立ち上っていた。

 カフェインを気にして、大好きなコーヒーを我慢し始めたのはいつからだろう。妊娠が発覚してすぐに止めたはずだから、もう随分と千賀子は口にしていなかった。

 自分のカップの中の飲み物は、乾いた草を煮出しただけの、なんとも味気ない液体だった。

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