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第一章 千賀子(5)

 頭が落下する感覚で、千賀子の眠りは遮断された。

 午後二時。黄色い太陽の光が目に突き刺さる。寝不足のせいで、周りの色は歪んで見えた。


「あ……私ったら、いつの間に……」


 亮の授乳を終え一息つこうとソファに腰をかけたまま、うたた寝していたようだ。肘掛けに肘をつき、その手に乗せていた顎がずるりと落ちた拍子に目が覚めたのだ。

 傍らの揺籠では亮がすやすやと眠っている。自分のひとり言で、亮まで起こしてしまわなくてよかったと千賀子は胸を撫で下ろした。


 亮と自宅に帰ってきて、二週間が経った。良樹の休みは終わり、朝早くに仕事に出かけ、夜遅くまで帰ってこないという日が続いた。

 おそらく、有給休暇中に溜まった仕事をこなすのに必死なのだろう。良樹の帰宅に気がつかないこともしばしばだ。深夜の授乳の際、夕食に買っておいた惣菜トレイがゴミ箱に捨てられているのを見て、初めて良樹が帰ってきていることに気付くくらいだった。

 新生児と過ごす生活に、相変わらず千賀子は慣れることができずにいた。くたびれたルームウェアのまま、部屋に亮と閉じこもる生活だ。着替えるのも億劫だったし、ひどい時は一日中上半身下着姿のまま過ごした。頻回に訪れる授乳の度に服を捲り上げるのが面倒なのだ。


 心を込めて接する、というよりは、亮を泣き止ませるために機械的に動いている、と言った方がしっくりくる。泣き出す亮を前に「亮くん、どうしたの?」という慈しみの言葉よりも「また泣くのか……」と非難めいた一言が飛び出してしまう。近所迷惑にならないように早く泣き止ませなければと気ばかりが焦った。

 言葉を話せない新生児は、自分の要求が通るまでただひたすら泣き続けた。それが子供の唯一の自己表現なのだと分かっていたが、疲労困憊の身体にその泣き声は堪えた。

 絶えず笑顔で子供をあやすことのできる母親などこの世に存在するのだろうか。そんな母親がいるのならば、千賀子は会ってみたかった。それこそ、サイボーグやロボットでなければ無理なのではないだろうか。


 人間の赤ん坊は、動物よりも未熟に産まれてくると言う。動物の赤ん坊は産まれてすぐに立ち上がり、自らの足で歩行する一方、人間はそれができない。仮に人間の赤ん坊を歩けるまで胎内で育てた場合、脳が成長しすぎて母体から出てくることができなくなるというのだ。

 人間って……なんて気味の悪い生き物だろう。

 自力では何もできない亮を思う度、千賀子はそう考えるのだ。人間ほど不自然な生き物はない。そして、そんな思考に至ってしまう自分もまた、不自然な母親だ。千賀子は冷め切った目で亮を一瞥した。

 ミルクを飲んで、オムツを変えれば満足でしょう? それ以上何が不満なの。

 金切り声でヒステリックに泣き叫んで、私にどうしろというの?

 亮が眠っている時だけは、いい意味でも悪い意味でも、人間らしく感情的になれた。


 ――ピンポーン、ピンポーン。


 静寂を突き破るインターホンの音。そしてそれは赤子の鼓膜を震わせ、意識の底から亮を呼び覚ますのに十分な威力を持っていた。


「ふぎゃ……ぎゃ……ぉぎゃあああ‼︎」


 その瞬間、千賀子は心のシャッターを急いで下ろすのだ。そうでなければ、溢れる負の感情に流され、自分が何をしでかしてしまうか分からなかったからだ。


 無言で時計を見やると、千賀子はソファから立ち上がり、カウンターの上の印鑑を手に取った。インターネットスーパーの宅配時間だったのだ。

 もう少しタイミングよく来られないのかしら。

 注文したのは自分であるにも関わらず、つい配達員に八つ当たりしてしまいそうだ。玄関で荷物を受け取る態度も、自然と冷ややかなものになる。淡々と作業を終えた配達員は、無愛想な千賀子の態度に気を悪くする素振りも見せずに帰って行った。


「運ぶの、面倒だな」


 冬場は玄関も冷え切っているし、すぐに冷蔵庫に品物をしまわなくても大丈夫だろう。冷凍食品さえしまえば十分だ、と誰にともなく言い訳をする。

 それに……亮が泣いてる。

 怠惰の理由に子供を挙げるのとは裏腹に、子供の世話を見ようという気は日に日に失せていく。放っておけば、いつか亮は泣き疲れて眠ってくれるのではないかとさえ思うほどだ。


「そういうわけにいかないか…….」


 千賀子はリビングへ引き返し、荒々しい手つきで粉ミルクを調乳した。ミルクが冷めるまでの間、母乳で誤魔化そうとスウェットの上着を脱ぐ。ばさりと無造作に床へ投げ捨て、ノンワイヤーの下着を乱暴に引き上げた。

 泣いている亮の声は聞きたくない。亮にはいつも笑って欲しい、というわけではない。泣き声が耳に痛いからという自分本位な理由。それだけだ。

 千賀子は大きく開いた亮の口に、乳房を強引に押し付ける。亮はふごふごと少し苦しそうに鼻息を荒げた。口が塞がり、亮の泣き声が途切れる――はずだった。


「ふぎ……ぎゃあぁぁ……ほぎゃぁぁあ」


 この非力な赤ん坊の、どこにそんな力が眠っているのだろうか。

 亮は千賀子の乳房を掴み、全力で押し戻したのだ。


「亮?」


 それは小さく、ささやかな抵抗だった。しかし、千賀子にとっては銃で心臓を撃ち抜かれるのと等しい衝撃だった。

 亮が……私を拒絶した……?


「なんで……」


 押さえつけていた感情が噴き出す。本当に拒絶されたわけではない。頭では理解していた。


 これも退院前、こういうことがあるのだと嘉納に注意されていたことだった。母乳育児にこだわりたかった千賀子は、予め嘉納からいくつかアドバイスを受けていたのだ。

 出ない母乳よりも、飲みやすい哺乳瓶の飲み口を好み、赤ん坊が母親の乳房を拒絶することがあること。それは母親を否定しているわけではないということ。だから決して後ろ向きになってはいけないということ。

 嘉納から聞いてはいたのだ。だが、実際に乳房を押し退けられると、拒絶されたという思いばかりが先行した。


「私は……っ‼︎ 母親じゃないって言いたいの⁉︎」


 千賀子は思わず怒りをぶちまけていた。何も知らない赤ん坊に。本能でしか訴えることのできない赤ん坊に。

 母乳を与えることは母親だけにしかできない使命だ。千賀子はそんな考えにとらわれていた。

 そっと抱きしめること、優しく声をかけてあげること――親としてしてあげられる、そんな当たり前のことが千賀子の頭からはすっぽりと抜け落ちていた。それほどまでに、千賀子は余裕を失っていた。


「吸ってよ、吸いなさい‼︎ 亮‼︎」


 顔を背ける亮にさらに胸を押し当てるが、亮は力一杯それを口から吐き出す。泣き声のボリュームは増し、リビングの隅々まで反響した。

 まるで母親失格だと責め立てられている気がした。


「私だって……一人で頑張ってるのに……‼︎」


 投げ出したいほど辛くても、決して逃げずに亮と向き合ってきたというのに。心の余裕が持てないながらも、せめて母親らしいことは、と尽くしてきたというのに。

 自分のことは二の次だった。まずは子供、子供と優先してきたつもりだった。

 それなのに……‼︎


「拒絶されるなら……産まなきゃ……っ」


 亮を身籠る前のことが頭をよぎった。

 週末は良樹さんと二人、おしゃれなレストランを探して飲み歩いたりしたっけ。旅行ガイドを買って、弾丸旅行を決行したり、温泉を巡ってみたり。あぁ、外出するのもよかったけれど、家で映画鑑賞会をするのも好きだったなぁ。キャラメルポップコーンを大きな箱で用意して。

 亮を身籠る前は、こんなにも自由だったのだ。その自由を全て投げ打って、命懸けで亮を産み落としたのは何だったのか。

 少なくとも、拒絶されるためではなかったのに。


「産まなきゃよかった!」


 その一言ははっきりと、強烈に千賀子の脳を射抜く。言葉にしてしまってから、千賀子はハッと口元を抑えた。

 私、今、何てことを……。

 カチカチと歯の根が合わなかい。自分の発言の愚かさに、千賀子は慄いた。

 亮が産まれてから、まだ二週間程度しか経っていないというのに、自分はなんと冷たい人間になってしまったのだろう。

 亮に罪はない。罪深いのは、この自分の方だ。


「嫌だ、嫌だ、嫌だぁ……」


 足元からガラガラと地面が崩れ落ちていく。不安定な心は暗闇の中、真っ逆さまに落ちていく。


「ほぎゃぁぁあ、ほぎゃぁぁあ、おぎゃあぁ!」


 空の見えない地の底で、千賀子は亮を抱きながらへたり込んだ。

 亮が泣き止む気配は一向になかった。

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