第一章 千賀子(4)
「うん……うん、お父さんなら昨日来てくれたよ、仕事があるからすぐ帰ったけど。亮の顔が見られてよかった、って」
電話の向こうから聞こえるのは千賀子の母・多恵の声だ。待合室にある、使い古された緑色の公衆電話に詰まれた十円玉を、千賀子はさらに一枚投入する。携帯電話相手の通話のせいか、十円玉の減りはやけに早かった。
「そんな……気にしないで、来られなかったのは仕方ないじゃない。シフト変わってもらえなかったんでしょ? 今日退院だから、また暇なときにでも、亮に会いに来てあげてよ」
多恵の職場で働いているのは主婦がメインだ。それぞれの家庭の都合がある以上、シフトを交代してもらえることは滅多になかった。
「そろそろ良樹さんが迎えに来てくれると思うから……電話、切るね。うん、うん、住所は変わってないよ……じゃあね」
話を無理矢理うち切り、千賀子は受話器を置いた。
多恵と話をするのは少々疲れるのだ。見舞いに来られなかったことを涙ながらに詫びる多恵の神経質さに、若干辟易していた。両親の離婚のきっかけについては全く聞かされていなかったが、案外、多恵の性格に父が愛想をつかしたのかもしれない。千賀子はぼんやりとそんなことを考えた。
「榊さん、支度はすみました〜?」
千賀子の背後から、親しげな口調で嘉納が呼びかけた。信頼する看護師の声を聞き、千賀子の心はほっこりと温まる。
「はい、大丈夫です。嘉納さん、今まで本当にお世話になりました」
「いいえ、いいえ、こちらこそ。榊さん、頑張ったもんね。でも本当に大変なのはこれからですよ。ご主人と二人三脚で子育て、頑張ってくださいね」
頭を下げる千賀子の両腕を、嘉納は力強く掴んだ。そこから伝わる熱が千賀子に勇気を与える。
これからは良樹と亮を見守っていかなければならないのだ。母親としての自信はまだまだなかったが、自覚を持たなければならないと強く思った。
「お〜い、千賀子! すまない、少し遅くなった!」
病院の自動ドアが開き、その向こうから真っ赤な鼻の良樹がやって来た。どうやら外はとても寒いようだ。
「良樹さんったら……ここは病院よ。静かにしなきゃ」
周りの目はお構いなしに千賀子に手を振る良樹を見て、良樹の鼻の色以上に千賀子の頬は赤くなる。そんな仲睦まじい様子に、嘉納はくすくすと肩を震わせた。
「さぁ、赤ちゃんを迎えに行きましょうか、もうベビードレスに着替えてますよ。……亮くん、素敵なお名前ね」
赤ん坊の名前を褒められ、千賀子ははにかんだ笑顔を見せた。
「主人と二人でつけた名前なんです」
そうですか、と嘉納もつられて微笑む。
「あなたたちなら……きっと大丈夫よ」
ゆっくりと確かめるように言う嘉納の言葉に千賀子は目を輝かせた。
*
純白のおくるみに包まれて眠る亮を抱き、千賀子は愛しい我が家に帰ってきた。
「ただいま〜。それからおかえり、千賀子、亮」
「ただいま、良樹さん」
初めて使う車のベビーシートに良樹と二人で苦戦しながらではあったが、事故もなく帰ってくることができたことに安堵する。いつもは何とも思っていなかった良樹の運転も、亮を乗せているとなると話が違った。些細なことでもヒヤリと恐ろしくなるのだ。
産後で少しナーバスになっているのかもしれない。あまり気にしすぎは体に毒だわ。千賀子は眉をひそめた。
玄関から廊下を抜け、リビングに足を踏み入れた千賀子は様変わりした部屋に目を丸くした。
「すごい……。これ、良樹さん一人できれいにしたの?」
妊娠中、ほとんど寝たきりの状態だったため、お世辞にも部屋の掃除が行き届いているとは言い難かった。壁に寄りかかりながら掃除機がけ程度ならしていたものの、洗濯物は山積みにしたままだったし、キッチンも物が散乱している状態だったはずだ。
「うん、お見舞い以外はすることなかったしさ。千賀子も大変だったろうから……」
和室からは太陽の匂いがした。子供布団から香ってくるそれは千賀子の心を洗った。布団干しなど普段は絶対しない良樹が、ベランダで布団を広げる様子を想像し、笑みがこぼれる。
「ありがとう、本当にありがとう」
亮を布団に横たえ、そっと布団をかけてやる。だが、今までと違う場所にやって来たことを敏感に察知した亮は、安らかな眠りから覚め、途端に火のついたように泣き出した。
「……ふぁ……あ……ふびゃ、ふぎゃっ」
顔全体を使って泣く亮に千賀子も良樹もおろおろと狼狽えるばかりだ。良樹が抱きかかえ、あやしてみるも亮が泣き止む気配は一向になかった。
「お、おい、千賀子、こういう時どうしたらいいんだ?」
なす術もない、といった風に良樹は千賀子に亮を手渡す。
どうしたらいいかなんて、私にも分からない。
そう口を突いて出そうになるのを、千賀子ははっと押しとどめた。
「亮、ここが亮のおうちですよ、大丈夫よ」
亮に言い聞かせ、とんとんとお尻の辺りを優しく叩く。胸の辺りに軽く耳を押し付けてやると、千賀子の心臓の音に安心したのか、亮は再びとろりと目を閉じた。
「さすがだなぁ……。やっぱり、母親ってのは違うものなのかな」
良樹は静かになった亮の顔を覗き込み、小さく唇を尖らせた。どうやら自分の抱っこでは亮が泣き止まなかったことに拗ねているようだ。
「そんなことないわよ。きっと慣れれば良樹さんだって泣き止ませられると思うわよ」
ややご機嫌斜めの良樹を宥める。そう言えば良樹さんにも子供っぽいところがあったわね、と千賀子はふと思い出した。
「まぁいいや、お茶でもいれようか? 昼飯はサンドイッチを買っておいたんだけど、それでいいよな」
「そんな、私がするわよ……」
「いいからいいから。千賀子はソファに座っててくれよ。コートは俺が後で片付けておくから、その辺に適当に投げておいて」
それじゃあ、と千賀子は素直に良樹の厚意に甘える。亮を抱いたまま、片腕ずつコートを脱ぎ、白いソファの上にかけた。
腰を下ろすとどっと疲労感が千賀子を襲った。思っている以上に緊張しているのかもしれない。
千賀子は焦点の定まらない眼で湯を沸かす夫の背中を見つめた。
日が落ちるのは早く、太陽が沈むとさらに冷え込みは厳しくなった。暖房をつけていても窓際は寒い。加湿器のタンクの水はすぐに底をつき、窓ガラスは結露で濡れていた。
「夜、一人で大丈夫か? まだ明日も休みだし、なんならみんなで一緒に寝ても……」
満水のタンクを加湿器にセットしながら、良樹は千賀子に問いかけた。千賀子は布団に横たわりながら、ふるふると首を振った。
「大丈夫。何かあったら良樹さんのこと呼ぶから、心配しないで」
良樹の休みが終われば、一人で夜を過ごさなければいけない時も増えるだろう。今の内に一人に慣れておかなければならない。予行練習のつもりだった。
「良樹さんも結局あまり休めていないでしょう? 休める時に休んでちょうだい」
でも、と続けようとする良樹を、千賀子は笑顔で制する。こういう笑顔をする千賀子には何を言っても聞かないのだと悟ったのか、良樹はそれ以上口を開かなかった。
「何かあったら俺を呼ぶんだぞ。じゃあ……おやすみ、千賀子」
「おやすみなさい、良樹さん。また明日」
良樹は振り返ることなく、別室の寝室へと向かった。寝室の扉が閉まったことを確かめ、千賀子はようやくリビングの扉を閉めた。
キッチンの給湯ポットの湯量を確かめ、消毒済みの哺乳瓶とミルクの缶を並べる。まだまだ十分量の母乳が出ていないため、夜間のミルクの用意は欠かせない。
「最近のミルクは栄養バランスのいいものばかりだから、母乳が出なくても心配いらないですよ。でも母乳を出したければ、夜間の授乳をサボっちゃダメです。母乳の分泌は夜促進されるので、赤ちゃんにおっぱいを吸ってもらってくださいね」
入院中、母乳の出に悩んでいた千賀子にくれた嘉納のアドバイスだ。しかし、体力が落ち切っていた千賀子には、夜間授乳よりも体力回復が優先された。おかげで夜はぐっすり眠ることができ、当初授乳室と病室を行き来するだけで息切れのしていた千賀子も、院内を歩き回るには支障がない程度に体力をつけることができた。
「嘉納さん……」
急に不安になり、ぽつりと嘉納の名を呼んだ。
夜に完全に亮と二人きりになるのは今日が初めてだったのだ。
昼食後は良樹に調乳方法やオムツ替え、お風呂の入れ方などを説明していたため、あまりゆっくりと気の休まる時間もなかった。
その間にも亮は空腹やオムツの不快感を訴え、途切れることなく泣いた。眠る前にミルクを与え、ようやく寝入ってくれたところだ。
尽くしてくれた良樹には申し訳ないが、良樹が十人側にいるよりも、ベテランの嘉納が一人ついていてくれる方がよっぽど安心できる。枕元にあったナースコールはもうどこにもない。良樹が去った後、やっと本当に一人になる時間ができたと力が抜ける。反面、どうしようもない恐怖に苛まれた。
リビングの明かりを消し、千賀子は和室の布団にもぐりこんだ。亮との暗闇が怖く、和室は豆電球をつけたままにしておく。
寝返りで亮を踏みつけたりしないだろうか。途中で亮の息が止まってしまったらどうしよう。
不安は止めどなく溢れ出す。幸福だったはずの千賀子の心を侵食し、思考を蝕んでいく。隣で眠る亮の顔が、とてつもなく恐ろしく見えた。
「うっ……うっ……うっ……」
千賀子は泣いていた。
退院する瞬間には喜びしかなかったはずなのに。それなのに……なぜ?
喉奥が詰まり、鼻がつんと痛んだ。ぐしゃぐしゃと感情が入り混じり、うまく整理することができない。
ごめんね、ごめんね。弱気なお母さんでごめんね。
体を休め、次の授乳に備えなければならないのに、千賀子は眠ることができなかった。もう三十分ほどすれば、亮はおっぱいを求めて泣き出すだろう。
結局、その日、千賀子は一睡もできなかった。