第一章 千賀子(3)
さして広くない部屋を見渡し、良樹は掃除機の電源を切った。散らかりっぱなしだった部屋は見違えるほど綺麗になった。窓を開けて空気を入れ替えたせいか、部屋はひんやりと冬の空気で満たされている。三日後、この家に我が子を迎えるのだ。埃の一つも許されない。
ベランダには子供布団が干してある。太陽の光を吸ってふっくらと膨らんだ布団は、動物の柄がプリントされた千賀子お気に入りのものだ。風が吹く度に、ゾウやクマ、ウサギがぴょんぴょんと布団の上を跳ねまわった。
リビングの隣、六畳の和室の隅はすっかり子供用品に占拠されている。しばらく千賀子と赤ん坊はここで寝起きすることになるだろう。二人が心地よく過ごせるよう、丹念に畳を拭いた。
昨日、千賀子を見舞った時、帰り際に千賀子から手渡されたメモをもう一度確認する。そこにはドラッグストアで購入できる子供用品が細々と羅列されていた。予定日よりも大分早い出産だったため、まだ買い揃えられていないものもたくさんあったようだ。
「お尻拭きに子供用の石鹸、オムツと粉ミルクは産院で使ってるメーカーのと同じもの……」
畳の上で正座をし、一つ一つ指差しで子供用品を確かめる良樹の頬は緩んでいる。父親になった、というのがくすぐったい。まさか自分が子供のオムツ売り場の前でウンウンと頭を抱える日が来ようなど想像できただろうか。両手一杯のビニール袋を抱え、ドラッグストアを後にしたこともなんだか照れ臭いくらいだ。しかし、そんなくすぐったさも悪くはなかった。
「買い忘れはないな。コーヒーでも飲もうか……いや、もう少し掃除しようか……」
そわそわと落ち着かないのは、今日やっと我が子を抱けるからだ。千賀子の話では、今日から母子同室の許可が下りるらしい。
明日は、赤ちゃんと部屋で待ってるね。千賀子は柔らかな口調でそう言っていた。面会時間が待ち遠しくて堪らない。
「コーヒーを飲みながら、名前でも考えるか」
部屋を行ったり来たりしている自分に気づき、良樹は思わず苦笑いした。本棚から漢字辞典を引き抜き、テーブルにそれを置いた後、良樹はいそいそとキッチンへ向かった。
*
面会時間に合わせ、良樹は家を出た。平日の昼間とあって、道路は空いていた。余裕を持って動いたため、良樹が病院に到着したのは面会時間の十分も前だった。受付の面会申込用紙に名前を記入し、案内されるまで待合室で待つ。壁掛け時計の秒針がゆっくりと時を刻んでいた。
「榊さん、お待たせしました。お部屋にどうぞ」
面会時間になり、受付から良樹を呼ぶ声が聞こえた。良樹は軽く会釈をし、入院棟へと歩を進める。
「千賀子、入るぞ」
千賀子の部屋を四度ノックをし、良樹は声をかける。はやる気持ちを悟られないよう精一杯平静を装ってはいたものの、その声はどこか上ずっていた。
「はぁい、どうぞ」
千賀子の声が聞こえるやいなや、良樹は扉に手をかけた。ベッドサイドに千賀子が腰かけているのが見える。そして、その腕の中には、まだふにゃふにゃと頼りなげに乳を吸う赤ん坊の姿があった。
「あ、ご、ごめん。授乳中だったのか」
なんとなく見てはいけないもののような気がして、良樹は思わず千賀子から目を逸らした。真っ白な乳房が眩しい。千賀子を腕に抱く度に何度も目にしていたはずだが、今、良樹の目に映っているものはそれとは全く別の物だった。
「いやだ、良樹さんったら。どうしたの? そんな戸口だと寒いでしょう? 中にどうぞ」
「あぁ、うん、じゃあ……」
吃りながらパイプ椅子に腰掛ける良樹を、千賀子は首を傾げながら見つめた。
千賀子がいつもと違って見える……などと良樹が思っていることには、きっと気づいていないに違いない。これが女性特有の母性というものなのだろうか。良樹は不思議な気分で千賀子と赤ん坊を交互に見やった。
「赤ちゃん、やっと部屋に来てくれたのよ。ほら、パパですよ」
千賀子はそう言って、小さな赤ん坊の手を良樹に握らせる。しわくちゃのその手は想像以上に熱く、命の確かな存在を感じさせた。
「赤ちゃんってね、体温が大人よりも高いんですって。私も最初、びっくりしちゃった」
赤ん坊の話をする千賀子の表情はまさに聖母そのものだ。汚してはならないと思う一方、どうしようもなく愛おしい。自分の妻はこんなにも美しい。千賀子と夫婦になれたことが、幸福で仕方なかった。
「入院中、看護師さんに呼ばれていない時はとっても退屈なの。だから……ずぅっと赤ちゃんの名前を考えていたのよ」
千賀子は赤ん坊を抱きながら、ベッド脇のテーブル上に視線を移した。良樹は赤ん坊を驚かさないようそっと立ち上がり、テーブルに置かれた薄茶色の手帳を手に取った。ボールペンが挟まれているページを広げると、そこにはびっしりと男の子の名前が書き連ねてあった。
「隆弘、直之、悠馬……」
「ちょっと、恥ずかしいからあまり声に出さないで」
並んだ名前を読み上げる良樹を、千賀子は顔を赤らめて止めた。子供のことばかり考えているのが照れ臭いのは、千賀子も同じだったのかもしれない。良樹は悪戯っぽく笑い、さらに名前を読み上げた。
「俊哉、晴樹……、あ」
その次に書かれている名前を見て、良樹はズボンのポケットにねじ込んであったメモを取り出した。
「あのさ、実は俺も名前を考えてたんだけどさ」
「良樹さんも? もう、早く言ってよ」
ぷくりと頬を膨らませる千賀子に「すまん」と謝る。カサカサとメモを広げ、良樹は自分が考えた名前の一つを指差した。
「ほら、これ。千賀子が考えた名前と同じだ」
「――亮」
数ある名前の中で、その一文字だけが燦然と輝いていた。良樹自身、この名前を一番気に入っていたのだ。
「この漢字は、けがれがない、明るくてはっきりしている様っていう意味なんだって」
「そうなの……素敵ね」
千賀子はほぅと息を漏らした。二人の間で何かが通じ合っている気がして、それもまた良樹にとってはこの上なく嬉しかった。
「亮くん、あなたのお名前が決まりましたよ」
乳房にしがみついたままの赤ん坊に、千賀子はそっと声をかけた。まるで、その名に反応したかのように亮は薄く瞼を開ける。まだ世界をよく見ることのできない無垢な目には、良樹と千賀子の姿が映し出されていた。
「お〜い、亮。パパとママだぞ」
良樹は人差し指でつんつんと亮の頬をつつく。名前が決まった途端、急に赤ん坊が自分と近しい存在へと変化した。目の辺りは自分似だ。口元は妻に似ているだろうか。
「千賀子」
良樹は慣れ親しんだ妻の名を呼んだ。千賀子は亮を見つめたまま、なぁに、とおっとりとした様子で返事をした。
「亮を産んでくれてありがとう」
命がけで自分たちの血を残してくれた千賀子に、良樹は素直に感謝する。
良き父親であろう。良き夫であろう。改めてその決意を胸に刻む。千賀子は良き母親であり、良き妻でいてくれているのだから。
唐突な良樹の言葉に、千賀子ははっと目を丸くした。みるみる内にその焦茶の双眸には涙の玉が溢れる。
「あれ、なんだろう、涙が出てきちゃった」
良樹はシャツの袖で優しく千賀子の目元を拭ってやる。水色のシャツが涙で濃紺に変わった。
「私、良樹さんとなら頑張れる。あなたの子供を産めて、本当によかった」
千賀子は顔を上げ、良樹の目を覗き込んだ。
「ねぇ、良樹さん。亮を抱いてあげて」
静かに千賀子はその身から亮を離し、良樹へと手渡す。芯のない亮の体は、しっかり抱いていないと折れてしまいそうだ。戸惑いながら赤ん坊を抱き、良樹はあやすように小さく体を揺らした。
二人の間で、亮がもぞもぞと身動ぐ。くしゃりとしたその表情が、笑っている風に見えたのは自分だけではないはずだ。
良樹にはそう思えた。