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第三章 亮(16)

 部屋いっぱいに充満した甘酸っぱい林檎の芳香が鼻腔をくすぐる。千賀子は胸一杯にその空気を吸い込み、そして深く吐き出した。

 多恵はスーパーの買い物袋に溢れんばかりの林檎を詰めてやってきた。こんなに食べられない、とボヤく千賀子のために、多恵は数個の林檎をテーブルに置き、残ったものを持ってそのままキッチンへと向かう。

 スライスした果実を鍋に入れ、水と砂糖とレモン汁を加える。鍋を火にかけ、コンポートを作り始めた。


「林檎のコンポート?」


 千賀子はカウンターからひょいと中を覗き込む。リビングで一人遊びをする亮に時折目を遣りながら、鍋をかき混ぜる多恵の手つきを眺めた。


「千賀も小さい時、これが好きでね。あんまり昔のことだから、覚えてないかしら?」

「ううん、覚えてる。冬の楽しみだったから」


 あと二ヶ月で、亮は一歳になる。雪の降る寒い日、産声を上げた赤子は、今やこんなにも大きくなった。

 コチコチと時計の秒針が時を刻む。穏やかな顔でキッチンに立つ多恵は一体何を考えているのだろう。

 ずっと聞けなかったことを──千賀子は問うた。


「ねぇ、お母さん」

「ん?」

「お母さんはどうして……どうしてお父さんと離婚したの」


 一瞬、ピタリと多恵の手が止まる。しかし、多恵は再び丁寧な手つきでコンポートをかき混ぜ、鍋を見つめながら語った。


「そうね……。今なら話してもいいかしらね。……お母さん、逃げたのよ、あの家から。自由になりたくて」

「自由に?」


 多恵は世間知らずなところもあったが、絶えず微笑んでいて、穏やかな人だった。ただその笑顔の向こうに、押し殺してきた何かを抱いていたのかもしれない。


「お父さんは悪い人じゃないのよ、決して嫌いになったわけじゃない。でもね、許せないことが多すぎたの」


 千賀子の記憶の中の父・洋一は頑固で無口で厳格な人間だった。そんな父を、時には怖いと思ったこともあったが、千賀子は愛していた。


「あの人は真面目だった。だからこそ……あらゆることに完璧を求めたのね。私が家の跡継ぎとなる男の子を産むことができなかったのが、お父さんにとっては痛手だったのかもしれないわ。お義母さん……おばあちゃんは私に跡継ぎはまだかとせがむし、お父さんはそれがプレッシャーになってしまったみたいで、私にきつく当たるようになったの。結局、千賀を産んだ後、私が子供を身籠ることはなかったわ」


 今さら自分が望まれなかった子供だったのかもしれないなどという葛藤はない。両親の本音はともかく、大切に育ててもらえたのは事実だからだ。


「うちの家名を背負ってるんだ、嫁の自覚を持てって……よく言われたわねぇ。男の子を産めなかったから、本当に肩身が狭かった。それでも、誰も、お父さんさえも私を庇ってはくれなかった。私を微塵も守ってくれない家を、私は全力で守っていかなくちゃいけないだなんて……私の存在する意味って何なのかしらって、悩んでは泣き暮らしてたわ」


 クツクツと林檎が煮詰まっていく。紅い皮と一緒に煮込んだそれは、仄かにピンク色を帯びていて、とても美しかった。


「味方のいないあの家で、千賀……あなただけが救いだった」


 鍋から視線を外し、多恵は潤んだ瞳で千賀子を見つめた。


「実家にも帰れなかった。おじいちゃんたちを頼れなかったんじゃないの。一度嫁いだ身ですもの、そう簡単に帰れるわけないでしょう? 嫁いだ女はね、簡単には逃げられないの」


 あぁ、この人もまた母であると同時に妻であり、女であったのだ、と千賀子は胸が苦しくなった。今いる榊家以外、千賀子に行き場がないのと同じように、母もまた。


「離婚を考えなかったわけじゃないの。でも、あなたのことを思うと踏み切れなかった。だから、私はこの家で戦い抜こうと……そう決意したの」


 多恵はコンロのツマミを回し、カチリ、と火を消した。余熱で気泡がふつふつと弾けたかと思うと、やがてシロップの液面は静かになっていった。


「戦って戦って戦い抜いて……千賀子が成長して独立したその時は、この家を出て行こうと思ったの。今はもうあの頃のように若くはない……。それでも再出発に遅いことなんてないわ。生きていればいくらだってやり直せるの」


 多恵の頬は紅潮していて、瞳は乙女のように煌めいていた。


「私はあの家にいた時間を無駄だなんて思っていないわ。色々苦労もあったけれど、家族三人で過ごした時間は本当に大切なものだったと思えるの。私は精一杯頑張った……。だから、離婚したこともちっとも後悔してないわ」


 千賀子の目に涙が浮かぶ。最近は泣いてばかりだ、とぼんやりと思った。

 世間知らずの母。デリカシーのないところもあるが、千賀子にとってかけがえのない母。


「ねぇ、千賀子。お父さんを恨まないでね。お父さんもあなたを大事に思っているんだからね」

「お母さん、私……」


 どうして母の存在を疎ましく思ったりしたのだろう。

 多恵は紛れもなく母だった。こんなにも強くて、こんなにも逞しい。そして──堪えきれず、千賀子は泣いた。


「私……私……」


 何もかもが迸る。不満も不安も哀しさもすべてをひっくるめた感情が、千賀子の内から放出される。千賀子はその場に崩れ落ち、天を仰いで叫んだ。


「良樹さんと……っ……うまくいかないの……! ダメなの……できないの! うまくできないのぉっ……!」


 わぁわぁと子供のように泣きじゃくった。こんな風にみっともなく泣いたのはいつ振りだろうか。

 だが、涙とともに凝ったものが流れ出ていくような、そんな気がした。涙が一滴零れると、その分、胸の曇りが晴れていく。

 多恵は慌ててキッチンから飛び出し、千賀子の頭をぎゅっと抱え込んだ。しゃくり上げる度に、甘い林檎の香りがする。

 心は子供に返り、ただ母を求めた。歳をとって少し痩せた母の胸に縋り付き、その背をがむしゃらに掴んだ。


「どうすればよかったのぉ……⁉︎ ねぇ、どうすれば……!」

「そう、辛かったのね。一人でよく頑張ったわね」


 多恵は千賀子の頭を優しく撫でる。それは幼い頃、転んでしまって泣いた時に千賀子を撫でてくれたのと同じ手つきだ。


「何があったかは分からないわ……。千賀、あなたの道を決めるのはあなた自身よ。どんなに辛くても、そうしなければきっと後悔する」


 誰かが行く先を示してくれれば、どんなに楽なことだろうか。迷うこともなく、躊躇うこともない。だがそれは、千賀子の生き方にはなり得ないのだ。


「どの道を選んだって構わないじゃないの。でもね、お母さん、これだけは言える……。戦って、向き合って、足掻いて……それでも無理だと思ったなら、胸を張って逃げなさい。俯いて歩くことなんてないんだから」


 涙と鼻水で多恵のブラウスはぐしゃぐしゃに濡れた。

 逃げてもいいのだと、誰かに背を押してもらいたかったのかもしれない。苦しみに耐えなくてもいいと、誰かに言って欲しかったのかもしれない。

 すべてを無理に背負う必要などないのだと分かった時、本当の意味で千賀子は解放された気分になった。

 ひとしきり泣くと、すっかり涙は枯れ果ててしまい、頬には涙の流れた跡がくっきりと残っていた。千賀子は鼻を啜り、ゆっくりと多恵から体を離す。


「ごめんなさい、みっともないところ……」

「いいのよ、思えばあなた、ずっと聞き分けのいい子だったからね。こんな風に頼られたことなんてなかったじゃない」


 ふふふ、と多恵は嬉しそうに言う。


「亮くん、びっくりしているわよ。急にママが泣き出しちゃったもんだから……。もう大丈夫よ〜、バァバもいますよ〜」


 多恵はふにゃふにゃと弛みきった顔で亮に笑いかけた。いないいないばぁをすると、亮は目を細め、キャッキャとはしゃいだ。


「そうだ、千賀、食パンはある? せっかく美味しい林檎のコンポートを作ったんだから、お昼にパンと一緒に食べましょうよ」


 千賀子は目を腫らしたまま立ち上がり、亮と多恵を見つめる。


「あるわ、とびっきりのが。近くに美味しいパン屋さんがあってね、いつもそこで買ってるのよ」


 手を取り合い、手遊びをしている二人の前で、グッと背伸びをすると、千賀子はいそいそとキッチンへと入っていった。

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