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第三章 亮(15)

 パシャパシャと足元で水しぶきを上げながら、千賀子はバス停から駅の改札口へと小走りで駆けた。

 生憎、空は雨模様で、おまけに冬の訪れを感じさせる風まで吹いていた。濡れた手は冷たい雨によって体温を奪われ、指先はかじかんでいる。千賀子は折り畳み傘を雑に畳み、亮の手足を拭いた。幸い、抱っこ紐で抱きかかえたまま移動したので、さほど濡れている様子はない。千賀子と密着していることで暖かいのだろうか、亮はいたく上機嫌だ。

 亮の機嫌とは裏腹に、千賀子の心中は複雑だった。歩みを止めれば昨日のことが思い起こされる。足が震えそうになるのを堪えるのが精一杯だった。


 昨夜、偶然目にした文面。知りたくなかった真実。


 珍しく早く帰宅した良樹と言葉を交わすこともなく、千賀子は黙々と家事をこなしていた。そして、入浴している良樹のために寝間着を用意しようと、脱衣所に足を踏み入れた時のことだった。

 ヴーッと脱ぎ散らかされた衣服の下でスマートフォンが震える音がした。見るつもりなどはなかったが、せめて別の場所に置いておこうと、千賀子は良樹の黒いスマートフォンに手を伸ばした。


『玲です。もう会わない方がいい……』


 ロック画面に表示されたメッセージの冒頭文の意味を、一瞬で千賀子は理解した。慌てて元あった場所へとスマートフォンを戻し、寝間着を放り出すと、千賀子は震えながら亮の元へと駆け出した。


「…………っ!」


 震えを落ち着かせなければ、と千賀子は亮を抱きすくめた。歯が鳴り、指先が凍りついたように動かない。涙よりも呻き声が漏れた。腕の中の亮は眠気まなこで、眠りを邪魔されたことにほんの少し苛立っていた。

 風呂から上がった良樹は、そのままリビングに立ち寄ることもなく、自室へと籠ってしまった。いつものことなのに、いつものことのように思えない。

 千賀子はパニックに陥ったまま、落ち着くまで震えるばかりだった──。

 腕時計を一瞥し、時刻に間違いがなかったかを確認する。十時半の電車で田舎へ帰るのだと、深山はそう言っていた。

 何事もなかったかのように振る舞わなければならない。深山の新たな門出を前に、泣きつくわけにはいかなかった。千賀子は手鏡を取り出し、笑顔を作る練習をした。

 身辺整理のため、深山と会う機会はなくなってしまっていたが、相変わらずメッセージのやり取りは続いていた。

 少し揉めたが、なんとか夫と離婚できる運びになったこと。別れた後は実家に身を寄せ、両親の協力を得ながら新しい職を探すこと。しばらくは一人で綾を育て、いい相手が見つかれば再婚もしたいと思っていること。

 深山は強かった。千賀子なら誰かに泣きつきたくて仕方がなくなるような場面でさえ、決して折れることはなかった。たまに愚痴をこぼすようなメッセージもあったが、それ以上泣き言を言うことはなく、電話をかけてくることもなかった。

 だから、この恐怖と不安を打ち明けることなどできない。ましてや、今日旅立つ深山には──決して。


「あれ、榊さん? もしかして、見送りに来てくれたの⁉︎」


 背後から声をかけられ、千賀子はハッと振り返った。ダボついたセーターとくたびれたジーンズを纏った深山がひらひらとこちらに手を振る。荷物はさほど多くなく、身の回りのものを最低限詰め込んだだけといった、小さなボストンバックが一つ。


「深山さん……。あれ、綾ちゃんは?」


 綾の姿はどこにもなかった。深山は笑いながら千賀子に近づき、抱っこ紐の中の亮の手を握った。


「日曜日に、田舎の両親と一緒に先に行っちゃった。一週間離れただけなんだけど、寂しがって泣いてるらしいの」

「そう……じゃあ早く行ってあげないとね。綾ちゃん、お母さんが恋しいのよ」

「うん、家に着いたら真っ先に抱っこしてあげなきゃね」


 深山は名残惜しげに亮の手を離し、そしてグッと何かを堪えるような表情を見せた。千賀子は餞別の包みを深山に手渡す。


「これ……深山さんと綾ちゃんに。お揃いの洋服」

「わぁ! かわいい! 大事に着るね」


 深山は包みの端からチラと中を覗き込み、嬉しそうに顔を綻ばせた。


「短い間だったけど、ありがとう、榊さん。榊さんがいたから頑張れた。ずっと一人で子育てしてるんだって思ってたけど、違うって思えたの」


 視界がぼやけ、深山の輪郭が曖昧になる。涙が溢れて止まらなかった。


「お礼を言わなきゃいけないのは……私の方なのに……」


 千賀子の心の拠り所だった深山。共に辛いことを乗り越え、支え合った仲間だった。


「私、榊さんのことは絶対に忘れない。もう会うことはないかもしれないけど……それでも」


 いつの間にか、深山も泣いていた。大粒の涙は頬を濡らし、雨の雫と溶け合っていく。


「ねぇ、榊さん……。先にダメになったのが私の方だったら、みんな私を可哀想だって言ってくれたのかな……」


 深山はしゃくり上げ、号泣していた。化粧が剥がれ、目の周りが黒ずむ。雨音が深山の泣き声をかき消すのを幸いに、深山は人目も憚らず泣いた。


「私は可哀想じゃなかったのかなぁ……。頑張ったんだよ、私。倒れてしまえれば楽だったけれど、綾のことを考えたらそういうわけにはいかなかったの」


 うん、うん、と千賀子はひたすらに頷いた。深山の手を取り、両手で包み込む。


 この涙はどこへ流れていくんだろう。


 雨粒は水溜りを作り、マンホールへと流れ落ちていく。


「強くなくちゃいけなかった。弱ければ、綾を育てていけなかった。なのに──どうしてこうなっちゃったんだろう」


 できることなら、関係を再構築できるに越したことはないのだ。だが、もう深山にそんな気力も体力も残っていなかった。

 深山は手の甲で目を拭う。アイラインが擦れ、目尻に黒い線が伸びる。しまった、化粧してたんだった、と深山はペロリと舌を出した。少し泣いて落ち着いたのか、照れ臭そうに笑う。


「普段は化粧なんてする暇なんてないから、目元に化粧してたの忘れてたよ」


 千賀子は深山にハンカチを手渡した。狼狽えながら深山はそれを受け取る。


「これで拭いて」

「え、でも……汚れちゃ……」

「いいの。また今度……会えた時に返してくれたらいいから。この辺りに立ち寄ることがあったら連絡して。きっと、会いに行くから」


 これは、別れではない──千賀子はそう思った。

 深山が再び深山らしく生きるための、再スタート。綾と二人で紡ぐ、新たな生活への第一歩なのだから、と。


「うん……分かった。必ず連絡するね」


 改札の向こうへ消えていく深山に懸命に手を振った。人ごみに紛れ、その背が見えなくなってしまっても、千賀子はその場を動くことができなかった。


 次は、私が決める番なのね――。


 千賀子はぎゅっと亮を抱きしめた。

 良樹の不貞を知らなかった時間には戻れなかった。腕の中の亮を守るために、自分ができることは何なのか──千賀子は決断を迫られていた。

 今日も深山は初めて会った時と同じ、履き古されたスニーカーを履いていた。

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